32,闇に紛れて
その日の午後、ラウノアの耳にコルドの死亡知らせが入った。救えない命が多い病。コルドの様子を見たときから覚悟はしていたけれど、やはり知らせは悲しい。
だからこそ、目の前の患者のために精一杯に尽くす。そんなラウノアを、イザナとアレク、クラウも支える。
新規の患者が増えない代わり死亡者は増えるばかり。神殿でも空きが目立つようになってくるのは時間の問題。それでも人々は必死に動く。
日が暮れる前、屋敷への帰宅前にシルバークとともに患者を診ていたラウノアは、ふと、レリエラが来ていることに気づいた。
目が合っても微笑みが返される。ラウノアがいることは知っていたような様子にラウノアも目礼を返した。
「よし。今日はこれまでかな」
「はい」
シルバークの治療が終わる。ラウノアもその補助の手を止めた。
視界の端にシャルベルとレリエラがなにやら話しているのが映る。歩き出すシャルベルは場を変えようとしているように見え、不意にその視線がラウノアを見た。
迷うような、躊躇うような目。
背を向けて歩き出すシャルベルとレリエラ。その姿を見て少しだけ首を捻った。
シャルベルとはあれから話もしていない。婚約解消を決めた今、もう距離は開けておこうと決めたから。
シャルベルもそれが分かっているのか、あれからラウノアに声をかけることはない。
(……レリエラ様に話すつもり……とか?)
誓いを立ててまで約束してくれたシャルベル。けれど、その誓いは果たして治療法に関してもそうなのか?
シャルベルがそんなことをするとは思えない。そう思うのに、心のどこかが仄暗い。
誰かに告げてもおかしくはない。だってあまりにも不審だ。――そう思ってしまう心が大嫌いだ。戒めを破ったのは自分なのに、あまりにも身勝手だ。
けれど今のシャルベルの目は、果たしてそんな目だろうか?
シルバークに挨拶をして、まだ少し手伝いをしているクラウを見て、ラウノアはそっと足を急がせた。向かう先はシャルベルたちが向かった方向だ。なにも言わずイザナとアレクもついてくる。
神殿の外。初めて来たときよりも減った天幕。
そこからさらに少し離れて、シャルベルとレリエラがいた。
見つからないように。社交の場でも意識することと同じように、ラウノアは建物の陰に隠れる。
「二人の会話を教えて」
そう命じれば耳が良いイザナとアレクが頷き、隠れながらシャルベルたちの方をうかがう。
ラウノアたちに気づいていないシャルベルとレリエラは、そのまま他者に聞かれない範囲で報告を始めた。
「今日の新規患者はなし。回復者もなく死亡者ばかりだ。埋葬に回してある」
「了解。団員たちは?」
「体調不良などは出ていない。やはり伝染の危険はないようだ。応援や交代の頻度もそろそろ下げても問題ない」
「団長にもそう言っておくわ。代わらなくて平気?」
レリエラの問いにシャルベルも頷く。
ラウノアが神殿に来てからはずっとシャルベルとその部下の姿しかない。ラウノアがいることに配慮してのことだが、現在はそれによる問題も起こっていない。
「収束は見えてきたわね」
「――まだだ」
どこか硬い、鋭い刃を孕むような声音が静かに紡ぎ出された。
耳に入ったそれは無意識に背筋を伸ばさせ、冷や汗が流れる。言い知れない緊張を感じたラウノアはきゅっと拳をつくった。気配を消してここから去ればいいのに、耳は音を求めてしまう。
「まだ、あの方が回復していない」
「……弟さんから何か聞いてる?」
「伝染の危険がないと分かって陛下たちも見舞いに訪れていると。だが……」
会話の内容をイザナがこそりとラウノアに教える。
回復者があまりにも少ないこの病。罹れば死を意味すると思ったほうがいい。
けれどそんなことを願う家族はいないのだ。小さな小さな希望でも、祈りでも、一心に願うのだから。そういう家族をラウノアも見てきた。
(シャルベル様が「あの方」とおっしゃる方でレオン様の名前が出るなら……グレイシア殿下が病に!?)
そんな情報は一切出回っていない。王家が情報を規制しているのだろう。
根本的治療法もない。かなりの死者が出ている現状でさらに王家からも死者が出るかもしれぬ状況となると、不安を煽り、さらに余計な騒動まで引き起こしかねない。
(不安や恐怖というものはよくないものを連れてくる。ときにすれは、国さえ滅ぼす)
ぎゅっと胸元で手を握り合わせる。口が震えて息が上手く吐けない。
シャルベルの様子から判断するに、グレイシアの容体は一進一退というところだろう。悪い方向かもしれない。
発症がいつからかは分からないが、もしも他の患者と同様ならばかなり持ちこたえているといえる。
(陛下方が見舞っているというから、そのときに手を握ったりして魔力が流れて、それが少しずつ捕食しているのかもしれない。だけどそれもちゃんと回収しないと害になる。そうなると複数の魔力が身の内に流れて余計に事態が悪くなる)
早期にその魔力を回収しなければいけない。
拳をつくるラウノアをイザナとアレクが見守る。震える唇で息を吐いて、ラウノアはシャルベルとレリエラが場を去るのを見届けた。
「わたしたちも戻りましょう」
駆け足でクラウのもとへ急ぐ。そしてすぐに屋敷に戻って、それから――……。
考えて思わず、ぎゅっと拳をつくった。
♦*♦*
目が覚める。それは慣れた感覚で、数度瞬きを繰り返してから身を起こした。
垂れる髪を掻き上げる。欠伸をしていると夜にも関わらず控える影が動くのを知っているので、さてと…とベッドを下りて、少し離れた机と向き合う椅子に座った。
机の引き出しを開ければそこにある、一通の手紙。指に挟んだそれを視線の高さまで持ち上げた。
いつもこの手紙を読んで状況を把握する。把握しづらいところは仕える者たちに聞き、埋め合わせていく。それでも分からない部分は本人に聞く。そうして世界を知っていく。
いつもならすぐに手紙を開ける手が今日に限ってはそうではない。
控えるガナフとマイヤは少しだけ怪訝としつつもそれを問うことはせず、沈黙を保って控える。
手紙を机に置き、白い肌の細い指が机を打つ。とん、とんっと打った指が止まり、夜の静かな室内にその声は静かに満ちた。
「ガナフ。マイヤ」
「「はい」」
「おまえら、ラウノアの婚約者をどう思う?」
何かを思案している様子のその声の主は、声音は同じでも普段とは全く異なる空気をまといながら問う。
驚くこともなく、問われた二人は主の背を見つめたまま答えた。
「お嬢さまを想う御心に、嘘はないかと」
「だからこそ、お嬢さまもお悩みなのだと」
もう二人ならどう答えるか。想像するが、問うたその主はふっと口端を上げた。今もっとも長く自分に仕えるこの二人が言うのだ。そうなのだろう。
ラウノアもそう。婚約を解消すると言って。そうするべきだと解っている。だから自分はなにも言わないけれど、ばかだなと笑ってやりたくなる。
窓の外に浮かぶ月はどこにあっても美しい。どんな空でも、どんな場所でも、あの月が見えるのだろう。
そしてそれは太陽もまた同じ。
「俺はな、ラウノアには幸せになってほしいんだ。そういう約束だ」
「はい。若様の御心はお嬢様にも通じております」
「お嬢様は、私たちにも同じように言ってくださりますから…」
窓の外を見つめるその人はその話題の人。だけど違う。
姿も声も同じでも、全く異なるのだとガナフとマイヤは昔から知っている。
「だがラウノアは迷ってる。己の幸せを優先させたことが間違いだと思ってやがる。そして根本的な勘違いをしている」
「若様。それをお嬢様にお伝えしては……」
「俺らが言っても受け入れねえよ。あー、くそっ。そういうことはルフが教えるべきもんだろうが」
あいつが悪いと言いたげに背もたれに凭れて天井を仰ぐ。そんな遠慮ない姿にも慣れたもので、マイヤは困ったように眉を下げた。
苛ついている心を紛らわせるように机に置いてある手紙の封を開けてざっと中に目をとおす。そしてため息を吐いた。
手紙に書いてあるのは先程ラウノアに聞いたことと同じ事。そして同じ頼み事。
(これをこの条件でできるのは俺だけだ。だが、なんだかなこの釈然としない感じは……)
大きく息を吐く。しかしその人物は、重い腰を上げるように立ち上がると振り返った。
「出かける」
「「承知いたしました」」
主の命に二人はすぐに動き出す。
夜着から男装に服装を変えたその人物は、さらに黒い外套をまとって窓から身を躍らせた。
深夜の町はひっそりとしている。動き回る人間もおらず、こそこそと動く猫がまれに路地裏にいるくらい。街灯は消え、月明かりだけが唯一の光源。
そんな夜の街を音もたてず駆け去る姿がある。黒い外套は闇夜にまぎれ人の目に留まることもない。
格好だけでなく、その上からさらに人目につきづらい装備を施しているその人は、貴族街を颯爽と駆ける。
やがて見えてくるのは、国の象徴。
正面には篝火を焚いて見張りの兵が立っている。こそりとそれを確認したその人はそこを離れると城壁に沿って走り、周囲に人の気配がないことを確認して、跳んだ。
常人ならばありえない跳躍力。慣れたように城壁の上に跳べば、今度は城壁から飛び下りて城内に侵入する。
飛び降りても地面にぶつかることはない。風を身にまとうようにその足はふわりと地面につくだけ。
(問題は侵入よりも目的地が分からないことだが……推測はできるからな。そこから潰すか)
一瞬だけ思考のために立ち止まり、そしてフードを深く被り直してから駆け出した。
駆けても音は鳴らない。草を踏んでも石畳を踏んでも、一切音は鳴らない。そういうふうに操作しているから。
ずっと地面の上を駆けていれば見張りに行き会うこともある。そう考えてすぐに手近な建物の壁を蹴って屋根に跳んだ。これまた音をたてず着地。そこから屋根伝いに走り目的地があるだろう場所まで走る。
不審者が侵入している城内だが一切騒ぎはない。見つからないよう厳重に装備を施し、かつ、すでに不審者が侵入しているなどと思ってもいない城内の者たちばかりなので見つからないのは当然なのだが、それでもその人は時折確認を怠らない。
(魔力はすでに複数の場所から感じるが、判別はできないからな)
複数の魔力が混ざっているとの話だが、それも目で視てみないと分からない。感知力は「ある」ことを示すものであり、「質」は触れて、もしくは目で視ないと分からない。
代わり、その「質」を正確に感じることができれば、少し離れているだけなら居場所を感知することもできる。もっとも、これはそれだけの感覚を養わなければできないことであり、「質」を細かく識別できるほど知っていないとできない芸当だ。
人の気配には常に感覚の網を張りながら走るその人は、目的があると思われる場所を感知力と立地で見当をつける。
ときに寝ている侍女の部屋。ときに誰もいない部屋。バルコニーがある部屋を確認していた中、その部屋を見つけた。
(いた)
ベッドで眠る若い女性がいた。
他の部屋では健康的に紡がれていた呼吸音も、この女性からは途切れそうなほど細く弱い。加えてベッドの傍には椅子に座りながら今にも眠ってしまいそうに船を漕ぐ侍女らしい女性の姿もある。
聞いていた特徴とも一致する。この部屋で間違いないだろう。
バルコニーの手すりに乗ったままそれを確認する。軽く触れてみればバルコニーへの出入り扉は鍵がかかっていないのが分かった。
(これならさっさとラウノアの頼みを叶えてやれそうだ。だが……どうするか…)
どう考えてもラウノアの頼みを引き受けた以上ここで帰宅する選択肢はないが、どうやら別の問題も生じている様子。
けれどどうしてか、感じるそれには口角が上がってしまうのだ。
音をたてずに手すりから降りたその人は音をたてないよう僅か出入り扉を開け、椅子に座る侍女に向けて手をかざす。
すると、がくんっと侍女が体から力を抜き、首をだらりと垂れて動かなくなった。
数秒の間を開け、その人は室内に踏み入る。
絨毯は容易く侵入者を迎え入れる。遠慮なく室内に踏み入ったその人は迷いなくベッドに近づいた。
だらりと椅子に身を投げだす侍女は呼吸もしっかりしていて眠っているだけ。それを目視し、その人はフードを被ったままベッドに眠る女性に近づいた。
年頃はラウノアと同じくらい。濃緑の髪はシーツの上に広がり、長い睫毛は目許に影を落とす。きめの細かい白い肌は健康的な色ではなく青白い。
途切れてしまいそうな弱い呼吸。それでも必死に生きようとしている。それを感じながらも眠る姿を注視することはなく、すぐに細い手にそっと触れた。
(いくつか交ざってるな……。本人のものと例の丸薬のもの、あとは見舞いに来てる奴らのものか。……ん?)
眠るその女性の手に触れる手はそっと指先を乗せる程度でしかない。それでも充分に得られる情報を整理しつつ、眉を顰めながらもすぐに処置を施しはじめた。
こんなものは慣れたもの。そういえばラウノアはひどく緊張したと言っていたと思い出して、無意識に口許が綻んだ。
自身の魔力を操作して、女性の身に巣食う本人のものでない魔力を取り去る。捕食した己の魔力が返ってくれば少し違和感はあるが、自身の魔力が強いことは知っているので問題はない。
女性の身の内の魔力を整理して、そっと手を離した。心なしか女性の呼吸は少し穏やかになっているようだ。
(見舞いに来てた奴らの魔力が丸薬の魔力を削ろうとしたんだろう。そういう回復は他の患者でもあったそうだからな。とはいえ、どのみち自分のじゃねえなら後々は害なんだが)
魔力の操作は己の意思。けれど、それができる者はもういない。
だからこれは、無意識に、そういう意思の強さが成してしまっていたということ。
眠る女性を見て、その人はふっと口端を上げた。
「家族は大事にしろよ」
届かない言葉を残してすぐに身を翻し、再びバルコニーから部屋を出た。