31,明確な一歩
初めて神殿を訪れてから数日が経過した。
人目があり互いに忙しい中で言葉をかわすこともなく神殿で仕事をするラウノアとシャルベル。
騎士病院でラウノアが動き回っていた頃が死亡者の山場であった。現状で病と闘っている患者は比較的遅い発症だったのだそうだが、ラウノアが手を尽くしてもすでに弱り果てている体に回復は見込めない。
その中でもさらに少ない、ごく僅かの持ちこたえている者の中で一人二人と助かる者もいたが、圧倒的に死者が多い。
そんな光景を見つめるしかないラウノアにも少し疲労が見えてきた様子を、シャルベルは離れて見つめていた。
そして意を決し、シャルベルはラウノアに近づいた。
「ルフ殿。一緒に来てほしい所がある」
「……はい」
シルバークは今、別の患者を診ている。少し迷いもあるが断る理由も思いつかない。
この数日シャルベルから個人的な会話に誘われたことはない。真面目な彼が職務中にそんなことはしないと思う反面、少し怖いとも感じてしまうのは己の弱さのせいだろうか。
シャルベルに促されて歩く後ろをイザナとアレクが従う。拒む様子もなく歩き続けるシャルベルは神殿の奥へ入った。
患者の多くが並ぶ大聖堂やその近辺とは違い、神殿の奥は重症患者の多くが個室に並んでいる。入れ替わりも激しい場所であり、今も青い顔の神官や医員たちが行き交っている。
今、亡くなったのだろうか。人の形に盛り上がった布が担架に乗せられ運ばれていく。黙とうを捧げ、無意識に拳をつくった。
さらに少し足を進めたシャルベルは、やがて、とある一室に足を踏み入れた。
「ここだ」
促されて入る一室。イザナとアレクも無言のシャルベルに促されて入室すれば、シャルベルは扉を開けたままで室内へ足を進めた。
ラウノアも一歩足を進める。
扉と窓は開けられており臭いは薄い。神殿の客間であるのか、全体的に簡素だが細かな意匠が目を引く室内は落ち着いた色合いでまとめられている。普段なら静かなのだろう場所も、今は各方向から人の声がよく聞こえるようになっている。
そんな部屋の中心にあるのは休息用のベッド。そこに一人の男性が眠っていた。
その顔に、見覚えがあった。
「この方は……」
「名はコルド。例の丸薬を売っていた青年だ」
爽やかな人好きのする笑みを浮かべていた青年は今、見る影もないほどにやつれ弱り果てている。
その変わりように言葉が出てこず、同時にこの青年も丸薬を口にしていたのだと驚きも覚える。
青年の正体にイザナも驚きを露にし青年を凝視した。
「俺はずっと彼の居場所を探していた。ここにいると知ったのは神殿に来て少ししたときだ」
「……それは…」
なぜ捜索をしていたのか、なんて聞かなくても分かる。だからシャルベルから視線を逸らして瞼を伏せた。
(丸薬が原因だと気づいたのなら探すのは当然。売り手だったこの方を探して製作者を探し出すために)
そのヒントを与えたのは自分だ。すでに手紙に記したこと。
視線を逸らして拳をつくるラウノアを見遣り、シャルベルはさらに続けた。
「……もう、そう長くはないだろう」
胸を刺す言葉。同時に唇を噛んで、ラウノアは足を踏み出した。
傍に立ち、青年を見つめ、手を握る。
「コルドさん。しっかり」
「……」
「建国祭でお会いしましたね。わたしの顔色が悪いと気遣ってくださって、古竜がやってきたときに一緒にいた者です」
少しだけコルドの目が動く。
その動きを確かに認めつつ、ラウノアは触れた手から感じ取れる魔力にぎゅっと握る手を強めた。
(もう、対抗できる力が……ない。この状態でわたしがいくら助力しても、これじゃあ……)
それでも、握る手を放したくない。一縷の希望を消したくない。
まだ涙を流しては、いけない。
「……ぁ…」
「はい。聞こえていますよ」
「……よ……ぉ……ぃ…」
「っ、はい。今日はご心配いただくほど顔色は悪くはないはずです」
無理やりでも笑みを浮かべる。それでコルドが安心して、笑えるのなら。
ラウノアの笑みにコルドも微かに表情を動かす。それを認めつつ、ラウノアは静かに問いかけ続けた。
「コルドさん。お聞きしたいことがあるので、肯定ならば一つ瞬きを。否定には二度。あの丸薬は最近は出回っていませんが、もう売っていないのですね?」
ゆっくりとした瞬きが一度。それを見てラウノアは頷いた。
「あの丸薬を作られた方とは、あれからお会いになりましたか?」
これもまた同じ。
「作られた方はどのような方でしょう? ご年配? 髪の色は黒? 茶色や金色に近い色? お店はもっているのでしょうか? 初めて会ったのはどこでしょう? 酒場? 病院?」
コルドの様子を見ながら質問をするラウノア。その答え一つひとつをシャルベルも聞き逃さないよう、見逃さないよう、ラウノアの側で見つめた。
ゆっくりとしたラウノアの質問にコルドは肯定と否定、掠れる声で具体的に答えていく。ラウノアもそれをじっと見つめた。
少し喋るだけでもコルドには大きな負担がかかっている。触れた手から感じる魔力に自分のそれを流し込み対処しても、コルドの容体は変わらないようだ。瞼が震え瞳が潤みそうになるのを必死に堪える。
コルドの答えが具体的な内容になれば、それだけ聞き取るのも難しい。しかし遮ることなくラウノアはコルドに答えさせた。
聞き取れない答えにシャルベルも眉根を寄せる。けれどなにも言わず、ただラウノアに任せた。
答え終えたコルドが瞼を落とす。まだゆっくりと微かに胸元が上下しているのを見て取り、ラウノアはそっと離れた。
(入り込んだ魔力は取り除いたはず……。だけど)
物憂げな表情でコルドを見つめるラウノアを見て、シャルベルは意を決してラウノアに問うた。
「ラウノア」
「はい」
「君は――この病の治療法を知っているのだろう?」
静かな室内。届くのは外の喧騒。
一角から漏れる警戒と緊張。それを感じつつも見つめる瞳と、後ろ手に制して見つめ返す瞳。
青と銀が交わり、ラウノアは歪に口角を上げた。
自嘲して。唇が震えて。視界が滲むなんて気取らせもせずに。――微笑んだ。
いくら自分が微笑んだところで目の前の顔は歪むだけだ。その瞳にある感情なんて今の自分には分からない。
「ラウノア」
何度、こうして名前を呼んでもらっただろう。
優しくて穏やかに、はっきりと呼ばれる。その音はいつからか当たり前に応えるものになっていた。優しさと大切さを伝えるようにそれだけは迷いなく紡がれて、それがとても嬉しかった。
(幸せな記憶なんて、持つんじゃなかった。家のためと割り切って相手を選んで、目立たずに一歩下がった距離を保ったまま、ただ婚約関係だからとしているべきだった)
自分の幸せを願ってくれた想いに応えたかった。けれどやっぱり、失敗だ。無にしたのは自分だ。
忠告してもらっていたのに、何かしたいと動いてしまったから。
もうこれ以上は――だめだ。
「多くないとはいえ回復者が出ているのは、シルバーク様を始めとする皆さまのおかげです」
「……本当に、そうなのか?」
「それ以外にございません」
だから自分は、嘘を吐く。
だからラウノアは、シャルベルから一歩、足を引いた。
目の前のラウノアとの距離は、望んだものとはほど遠い。
名前を呼び合って、互いのことを知って、手を繋いで一緒に町を見て回って。積み重ねた時間は確かにこの距離を縮めたはずなのに、一歩を踏み出せば奈落の底に落ちるのだと、互いの間には越えられない溝があるのだと、ラウノアの一歩がそう告げる。
お互いに信じ合える関係だと、そう思っていた。――思っていたのは自分だけだったのか。
笑い合って、これからもよい関係を築きたいと、そう望んだ。――望んでいたのは自分だけだったのか。
手放したくないと、手を伸ばした。――掴みたいと願ったのは自分だけだったのか。
向こう岸にいるラウノアは微笑んでいるだけで、こちらが手を伸ばしても伸ばし返してはくれない。
それが――答えなのだ。
だから、理解した。
(噂が理由なのだと思っていた。だから願ったのだろうと。……だが本当は、これなのか。同時に添えていたあれが……。ラウノアが婚約の解消を願った理由は――……)
身体から力が抜けて、虚無感に襲われて、思考もまともに動かなくなった。
胸が痛む気がする。気がするというだけで本当はどうなのかも、もう分からない。
「……そう、か」
「はい」
「……戻ろう。シルバーク殿も待っているだろう」
足が重たい気がした。動けないほど億劫で、鉛のついた足をなんとか動かした。
もう、ラウノアの顔を見ることなど、できなかった。