24,彼女から託されたもの
張りつめたシャルベルの空気が少し威勢を失くす。伏せがちの瞼の下で揺れる瞳を見つめ、それが嘘ではないのだと認識させる。
少々周囲がざわつくことはあれど二人は順調に交際を続けていると思っていた公爵夫妻は告げられた内容に目を瞠り、レオンも驚いた顔でシャルベルを見る。控える使用人たちも思っていない告白に目を瞠る。
ごくりと唾を飲む音さえ部屋中に聞こえていそうで、公爵夫人はおそるおそるシャルベルに確認をとった。
「い、一応確認するけれど、あなたが何かしたということは、ないわね……?」
「ありません」
「ラウノアさんが解消を願う理由は……あの噂?」
「……」
問うて、返ってきたのは沈黙。
シャルベルが引き結ぶ唇。寄せる眉。揺れる瞳。醸し出す空気。感じるからこそ公爵夫妻もレオンもその心中を想う。
「彼女は家族想いで……俺や、公爵家のことも、考えてしまう人ですから」
きゅっと握りしめた拳が痛い。手紙を読んでその願いを知った心も、痛い。
本当は、ラウノアが解消を願った理由など知らない。それは一切手紙にも記されていなかった。だが薄々は感じ取れた。
(最初から用意していた手紙。それをあの状況でも俺に渡した。病の流行に噂が付き纏うようになった時点で、おそらく彼女は……)
知っているから。ベルテイッド伯爵家に利がある婚約だと家のために頷くだろうと予想できていたから。
養子縁組が知られるようになったときも、ベルテイッド伯爵家を思って胸を痛めていたから。
(解消しようと決めていたから、ラウノアは意を決して俺にヒントをくれたんだろうか……)
最後だから。
そう考えて、思い出した。
『わたしの最後の我儘です』
全部、そのつもりだったから――……。
「シャルベル」
呼ばれて顔を上げる。見えたのは、悲しみではなく冷静で悠然とした父の姿。
喜んでくれていたからこそ悲しませたかもしれないと思った報告だったので、父の様子にシャルベルは少し驚いた。
それが顔に出ていたのか、隣で不安そうな公爵夫人を見て公爵は眉を下げた。
「あまり心臓によくない報告だ。だがシャルベル、おまえはどうするつもりなんだい」
ラウノアの隣に強く在ろうと決めた。選択肢を狭めても、自分を選んでほしいから。
そう決めた。――だからこそ、想いはこんなことになっても強く鼓動する。
「……ラウノアが願うなら応じる。そう、決めていました」
「シャルベル……」
「ですがそれは、ラウノアが俺に対し思うことがあればの話。心ではなくそれを理由にされては納得できるものもできません」
願われればそれに応じる。当初はすんなりとそう決めて結んだ婚約。なのに、今はどうだ。
あまりの自分勝手に内心で笑った。
「ラウノアと話をしてから、俺も納得できる形をとります」
「ああ。それがいい」
「彼女がすでにベルテイッド伯爵に話をとおしている可能性もありますが、持たせます。……お手数をおかけしますが」
「構わないさ。おまえの大事な婚約者であり、将来の義娘になるかもしれない人だ」
自分が選んだもの。望んだもの。それに対して両親は自分の思うようにさせてくれる。
学生時代までとは違うから。互いに言葉を伝え合ったから。今へと繋がる過去が脳裏をよぎって、シャルベルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
♦*♦*
翌日。レリエラが副団長仕事部屋に入ったとき、すでにシャルベルの姿がそこにあった。
椅子に座って執務机に載る書類を捌いている。かと思えばなにやら資料を睨んで動きを止める。
普段にない鬼気迫る形相だが、レリエラが「おはよう」と挨拶すれば「おはよう」と普段どおりの声音が返ってくる。
「シャルベル様。昨晩はちゃんと寝た?」
「ああ。問題ない」
「そう? 隈は作らないでね?」
苦笑うように飛んできた言葉に了解は返せず、代わりにシャルベルは書類へ意識を向けた。
目をとおしているのは、騎士団における病発症者の名簿と、もう一枚。
『……体を労わうとしたのかもしれません』
思い出すのはラウノアがこぼしていた言葉と、昨日の手紙。
昨日の手紙は、ラウノアが普段くれる手紙とは全く違う内容だった。
いつもなら、周囲で見聞きしたものやシャルベルに問いかけるもの、人を思いやる優しさのある手紙をくれるラウノア。しかし昨夜の手紙に記されていたのは、婚約の解消を願う文言と――……
(手紙に書いてあった、『薬は毒にもなりえます。竜の鼻はそれを見分けるひとつの術です』との言葉)
それでふと気づいた。
――数ヶ月前に竜の鼻が起こした案件があったこと。そのときに作った名簿に載った名前を。
(昨夜レオンにも調べるよう頼んだが、もしこれが俺の予想通りなら……病の原因はあれかもしれない)
まだ確証はない。だが、今見ている資料が曖昧なものを形あるものに近づけていく。
レオンへの頼みに加え薬学研究室へも頼みをしてあるが、病のことで忙しく遅れる可能性が高い。
確たる治療法が見つかっていない以上、原因を見つけても根本的解決にはならない。騎士団でできるのはその原因を取り除くこと。
そこまで考えつつも、シャルベルは険しく眉根を寄せた。
(だが、一度すでに調べてある。もし問題があるならばそのときに出てきそうなものだが)
なんでもかんでも力で推し進めることはできない。明確な理由、根拠が必要。
そのために研究所で調べてもらっているが、果たして望む答えは出るものか……。
(今の俺自身、これは半信半疑。確たる証拠も確証もない)
ここまでの推測を成り立たせているのはただ、ラウノアの言葉。
シャルベルにとってそれが信じられるものだとしても、誰もがそうであるというわけではない。
誰もが納得する形が必要なのだ。だからこそ、それがないシャルベルには動きがとれない。
「シャルベル様。今日は午後から町の巡回よね? 変わらなくていい?」
「問題ない」
閑散とした王都を見るのは胸が痛むが、そこに乗じて悪行に走る者もいる。現在の王都ではシャルベルやレリエラも抑止力として巡回を行っている。
それまで他の仕事を片付け、ヴァフォルのもとへも顔を出す。古竜の様子もラウノアに代わり見ておきたい。
(探しものは巡回のときにするか……)
望むものは見えている。なのにそこまでたどり着けない。
もどかしい距離にシャルベルは小さく息を吐いた。
多忙な一日を過ごした夕方、シャルベルは騎士用病院へ足を向けた。
なにも変わらず忙しそうな医員たち。見舞いはまだ念のため制限されているが、シルバークに許可をもらって目的の部屋の前に立った。
扉に手をかけようとして――やめる。代わりにノックをした。
「……ラウノア。いるか?」
「……はい。ここに」
思った以上に近くから声が聞こえた。
少し驚くと、それを感じたように扉のすぐ向こうで小さく笑う声が聞こえた気がした。
「イザナが……わたしの侍女が教えてくれたのです」
「そうか……。体調は大丈夫か?」
「はい。元気です」
聞こえる声はそのとおりで少し安心する。身体の力が抜けるのが分かって、そんな自分に笑ってしまう。
「ベルテイッド伯爵夫妻が心配していた。君の執事と侍女も、求めがあればいつでも応じるつもりだ」
「伯父には昼間、アレクに手紙を届けに一度戻ってもらいましたので、わたしからもしかと状況説明はさせていただきました」
「……では、昨日の手紙に書いてあったことも?」
「……はい。シャルベル様にも、手紙でお伝えするなど不誠実をしてしまい、申し訳ありません」
肯定が胸を苦しめる。返答の間が少し心を軽くする。
だけど今、その答えを扉越しでは伝えられない。
すっと膝を折って、扉の下に手紙を差し入れた。ひと呼吸遅れて引き抜かれたを見届けて、立ち上がる。
「俺は、今の状況を少しでも早く収束させる。その間しばらく、この時間に、こうして話をしにきてもいいだろうか?」
了承はない。拒否もない。
きっと困惑して、躊躇って、悩んでいるのだろうと想像できる。
「君とともに、この事態を早く終わらせたい」
拒まれてもきっと、足はここに向かうのだ。
例え室内に入らないとしても。聞こえるのは声だけだとしても。
鍵が開いていても。――入ればそのまま、彼女の意思を無視してしまいそうだから。
明日からもまた手紙を書こう。毎日彼女に届けよう。
心を慰めるためではなく。――この事態を早く終わらせるために。協力するために。
そのためならきっとラウノアは拒まない。
狡い自分に笑って、シャルベルは「また明日来る」と扉に背を向けた。