17,見てきたものと無意識
「ラウノア。本当に行くの?」
「はい。すぐに戻りますので」
ベルテイッド伯爵邸の庭に集まっているのは、ベルテイッド伯爵夫妻とクラウ、そしてラウノアの側付きたちだけだ。
伯爵夫人がそれはそれは心配そうに見つめる先で、ラウノアは安心させるように微笑んだ。
城と屋敷を行き交い忙しいケイリスだが現在体調不良などの症状は見られておらず、伯爵家に感染症状が出た者はいない。使用人の中には症状が出てしまった者もいたが、すぐに病院へと送られた。
病の感染不安とは別にラウノアの外出を取りやめさせる理由ができたベルテイッド伯爵家では、ケイリスがおおいに尽力してくれている。
騎士として町の警備にも参加するようになったケイリスが得た情報から、少しずつ噂の詳細が分かってきたのだ。
――かつて古竜の乗り手であったハーウェン英雄王が、選ばれた貴族令嬢に対し相応しくないとお怒りなのだ。何かしらの手を使い古竜を懐かせたことに対し天がお怒りなのだ。
ラウノアが古竜の乗り手に選ばれたことと初期患者が出た時期が同じ頃であったせいか、そういったことになっているようす。報告してくれたケイリスも怒りの顔を見せていた。
病が家族内に出ていないことに一安心しつつも使用人を案じていたベルテイッド伯爵家の面々は、この噂によりさらに緊張をまとっている。
そんなことはありえないと屋敷の誰もが思っている。しかし噂に対して消火作業を行うには今は難しく、外出を控えている。
そんな中、ラウノアはベルテイッド伯爵に頼み事をした。
『一度でいいので、古竜のもとへ行ってはいけませんか? しばらく行っておりませんし、しばらく来られないと古竜に伝えたいのです』
当然渋ったベルテイッド伯爵だが、ラウノアが熱心に古竜の世話に励んでいたのは知っている。それだけの覚悟をもって世話を決めたことも。
竜使いなら出ている噂がいかに馬鹿馬鹿しいものか知っていると説得したラウノアに、ベルテイッド伯爵は一時間だけと条件を付けて許可を出した。
それを受けたラウノアは、すぐにケイリスを通じてロベルトに手紙を出した。
返ってきた返事には「シャルベルが送迎する」と記されており、今日がその予定の日。
竜の区域へ行っていたときのように服装を変え、ラウノアはシャルベルを待つ。
(人の心に付け入る噂。そんなものに惑わされはしないけれど、でも結局、治療法を知っているのに実行しないわたしは、噂どおりの人間)
心はこういうとき、分かれる。
けれど選べるのは片方だけで、選ぶほうは決まっている。
だから、噂よりもひどいのだと、ラウノアは知っている。
「アレク。今日は待っていて」
「やだ」
「だめ。ヴァフォルは他人を乗せないし、シャルベル様が帰宅までついてくださるというから」
静かに命じるラウノアに、アレクは表情を崩して不満を見せる。その後ろではガナフやマイヤ、イザナも同じ顔をしているけれど、今回だけはどうしようもできない。
馬車で向かうならば随行できた。けれど今日の移動は、移動中の不測を考慮したシャルベルの提案による竜。他の誰かを伴うことはできない。
同行者がいない代わりにラウノアの傍にはシャルベルがいることになっている。アレクがいてくれるのと同じくらいの頼もしさだ。
空を見上げるラウノアの視界に小さな影が映り、やがてそれは大きくなってラウノアの前に降り立った。
「待たせてすまない」
ヴァフォルの背を降りたシャルベルが軽やかに地面に立ち、ラウノアの前に立つ。
頷くラウノアを見たシャルベルは、騎士団副団長として引き締めた視線のままにベルテイッド伯爵を見た。
「私が傍につき、なるべく早く戻ります」
「お願いします」
短くも大切なことを伝えあい、シャルベルはすぐにラウノアとともにヴァフォルに近づく。
この予定が決まってすぐにヴァフォルには伝えてあった。以前は古竜の乗り手かもしれないラウノアを乗せるのを拒んだヴァフォルだ。前回のようになって時間をくってはいけないと思っていたが、シャルベルの言葉を聞いたヴァフォルも事の重大性を理解したのか、なぜかすぐに古竜のもとへ走っていった。
おおかた古竜から許可をもらいにでも行ったのだろうと思っていたが、どうにもそのとおりだったようだ。
シャルベルとラウノアを待つヴァフォルは、ラウノアの支度が終わるのをいつでも乗せられる体勢で待っている。
「ラウノア。騎乗のためにこのベルトを」
竜に騎乗するためにはいくつかの器具が必要になる。本当なら、それも含めて騎乗練習のときに教えたかったシャルベルだが、少し早くそれが訪れてしまった。
古竜も待っている。あまり悠長に準備はできない。
ラウノアがベルトを付けるのを確認し、シャルベルは先にヴァフォルに乗るとラウノアに手を差し出す。不慣れなラウノアを助けるようにシャルベルの腕とヴァフォルの尻尾がラウノアを押し上げた。
「ありがとうございます。シャルベル様。ヴァフォル」
一度だけ乗ったことがある古竜の背に比べれば小さな背だ。黒い背中は見慣れているけれど白い背中は初めてで、少しだけ緊張と高揚を覚える。
通常なら拒まれるだろう状況で、大事な用事で向かおうというのに。自嘲的に内心で笑う。
ヴァフォルの背に乗ってすぐ、シャルベルはラウノアのベルトと自分のベルトに命綱をつける。これがあれば、万が一落下しても地面に叩きつけられることはない。
「では行こう」
「はい」
シャルベルに頷いて、ラウノアは膝を折るように身体を低くさせた。そしてベルテイッド伯爵たちを見る。
「いってきます」
「気をつけて」
「できるだけ早く帰ってきてちょうだい」
「はい」
心配そうに歪む表情を見つめて、頷いて。ラウノアはシャルベルとともに飛び立った。
初めての竜の離陸。高度が上がるが『竜の加護』のおかげで苦しくない。それを感じながら地上へ視線を向けた。ベルテイッド伯爵たちの姿が小さくなり、すぐに見えなくなる。
少しだけ謝罪の想いを抱きながらも、すぐに視線を前に戻した。
「ラウノア。決して俺から離れないように」
「はい。……シャルベル様。ご無理を言って申し訳ありません」
「……君は、意味もなくこんなことは言わない」
どこか確信があるように小さく紡がれた言葉はラウノアの耳にしかと届く。それを聞いてラウノアは思わず視線を向けた。
ヴァフォルの手綱を握るシャルベルはラウノアに寄り添うように片膝を折り、背に手を添えてくれている。
その姿は泰然としていて、強さと威風さえ感じるようで、目を離せない。
「古竜に会えないと伝えたいという気持ちは君らしいと思う。だが君は、自分の欲よりも家族の想いや心配を優先する。――だから、古竜に会いたい、直接会わなければいけない理由が、何かあるんだろう?」
ロベルトやレリエラなら、古竜を熱心に世話するラウノアの願いだろうと納得してくれる。不審に思わせても押し通すことができる。
けれどシャルベルは違う。ずっと見ていたから。迷いを断ち切ってからはずっと、それまで以上にラウノアを見ていたから。
(シャルベル様が護衛についてくださったのは嬉しいけれど……。失敗だった)
ふわりと吹く風が頬を撫でていく。『竜の加護』のおかげで温度はさして寒くもないのに。
――体の奥が冷えて、仕方がない。
(ああーー……いつの間に、こんなにもシャルベル様を頼ってしまうようになったんだろう……)
時には利用する。時には欺く。
だからこそ、知られてはならないと、勘づかれてはならないと、最も慎重にならなければいけない相手なはずなのに。
心の中で呼吸を整える。
(準備しておいてよかった……)
上着の懐に忍ばせているそれに触れて、ラウノアはシャルベルに沈黙を返した。そんなラウノアの眼差しをシャルベルは横目に見つめていた。
竜の広場にそのまま降り立ったヴァフォルは、降り立ってからもシャルベルの傍についたままラウノアとともに古竜のもとへ向かった。
最低限立ち入らない広場を歩きながらラウノアは竜舎の方を見る。
「世話人や竜使いでも休みを取られている方は多いのですか?」
「ああ。今は不足分を皆で補っている。オルディオも元気にしているから大丈夫だ」
「はい」
病の流行からしばらくが経つ。現在どれほどの新規患者が出ているのかは詳しくは知らないが、ガナフが言うには増えておらず横ばい状態が続いているという。
感染の山は越えた。しかし誰もが、新たに自分も罹ってしまえばと恐れる。
(シャルベル様やオルディオ様に不調がないなら今後も大丈夫)
ベルテイッド伯爵家の面々もギ―ヴァント公爵家の面々も感染したとの情報は入っていない。両家は大丈夫だろう。
けれど、そうではない家も少なくない。家族を失った者も大勢いる。
嫌なことばかりが頭をよぎって視線が下がる。そんなラウノアを傍で見つめながら歩いていると古竜の姿が見えた。
古竜はラウノアに気づいて瞼を上げる。それを見つけたラウノアも急いだ様子で古竜に駆け寄った。