16,現実と心の境界線
「詳細は」
「はい。どうやら古竜に乗り手が現れたこと、それが貴族令嬢だって話が広がってるらしいんです。それが出回る時期と重なったせいか、ハーウェン英雄王を乗せた古竜の乗り手に妙な手を使って収まった天罰だとか、ハーウェン英雄王の怒りを買ったんだとか。なんかいろいろ」
「馬鹿馬鹿しい」
一蹴するシャルベルに報告をあげた騎士も不愉快を乗せた表情で頷いた。
古竜は他の竜とは違う。そう言われるのは建国からの長命さと、唯一の漆黒の鱗、ハーウェン英雄王を乗せていたのではないかと囁かれていること。多くの要因がある。
しかし、古竜がハーウェン英雄王を乗せていたという正式な記録はない。騎士団や王家にある記録上、古竜の乗り手に関する記載は一行も存在しない。
「竜に選ばれるということを解っていない者の妄言だ。竜の意思に従い与えられる天罰など、竜使いへの侮辱もいいところだ」
ぎらりと光るシャルベルの眼光に騎士もたじろきながらも、今はその心に心底同意する。
彼もまた竜使いだ。ラウノアとは何度か話をしたことがある。当初は正直戸惑いが大きかった。古竜が選んだということも、乗り手が貴族令嬢であるということも。
けれど見た。古竜がラウノアに懐いて、せがむように甘えている姿を。
本当なんだと理解した。
それから少しずつラウノアと話をして、ラウノアは竜のことも竜の世話も熱心に学ぼうとしていると知った。
ラウノアを好ましく思う一人としてシャルベルの激情には理解ができる。
(でも、うん……。なんかそれ以上って感じが……)
この報告役とても損な役割だったかもしれない。しかし仕方ない。現在は深刻な人手不足なのだ。
「にしても……」
何かを真剣に思案するシャルベルに騎士も背筋を正す。そんな部下を前にシャルベルは眉根を寄せた。
しかしシャルベルが何かを言い出すことはなく、顔をあげて 自身を落ち着かせるように息を吐いた。
「しかし、敵を作ってしまうこの状況はよくないな」
「敵、と言いますと……?」
「今の王都は不安定だ。原因不明の病の中にその原因かもしれないものが現れれば、そこに攻撃が向きかねない」
「!」
病院で、神殿で、病に苦しむ患者や見守る家族。
なぜ、どうして。そう胸に占める感情の中に突然現れる、目に見える敵。
(ベルテイッド伯爵邸で守るか。ギ―ヴァント公爵邸で守るか。騎士団では中に噂を真に受ける者がいれば安全とはいえない。どうするか……)
ああ。婚約者として彼女の傍にいられないことが歯痒い。
誰よりも傍で、隣で、彼女を守ると決めたのに。
「殴りたくなってきた……」
「……えーっと、探します?」
「安心しろ。やるなら個人的にやる」
どう安心しろと? 冷や汗を流す騎士に気づかず、シャルベルはすぐに動いた。
「報告ご苦労。俺は団長のもとへ戻る」
「はっ」
オルディオに騎士団棟へ戻ると伝え、シャルベルは急いで竜の区域を出た。厄介な報告のおかげで古竜の様子を見ることができなかった。
急いで騎士団棟へ戻り騎士団長執務室へ駈け込むと、そこには同じく副団長のレリエラの姿があった。ちらりと視線を交わす三人は同じ緊張感を抱きながら前置きなく会話を始める。
「根も葉もない噂だが、今の状況のせいか広がりが早い。火消しは難しい」
「潰しますか?」
「おまえなら本当にやりかねねえのが怖えよ」
淡々とした表情から出された言葉にロベルトも口許を引き攣らせ、レリエラは小さく笑う。
出回り始めた噂など、ただの噂だ。なんの根拠もない。
しかし、信じる者も現れる。それがたとえ少数であったとしても最悪を招く危険は変わりない。
「これに関しちゃ探ることが出てきたが、今は病のほうで忙しい。人手もない状況じゃ優先すべきものに対処していくしかない。噂の抹消に回る暇はねえ。耐えろ」
「……分かりました」
「それからもう一つ、これは非公表だが――グレイシア王女が倒れた」
声を潜めた言葉にシャルベルとレリエラも息を呑む。
今まで王族は誰も倒れていなかった。しかしそこに発病者が出てしまった以上、王城もまた緊迫に包まれる。
同時に、国王や王太子の身はなるべく他者との接触を避けられ、今後は会うことも難しくなるだろう。グレイシア王女からすでに感染し、潜伏期間に入っている可能性も考慮される。
「王城の研究者や医師も躍起になって探ってるが、すぐどうにかなるものでもない」
「薬はやはり効かないのですか?」
「そうらしい。対症的に処方はされるようだが、多少緩和しても完治にはいたらないんだと。そのせいか完治する患者はまだほんの数人しか報告されてない」
打つ手がない。
その状況にシャルベルも眉根を寄せる。
通常ならば、対症的に薬を服用し状態を注意深く観察して対処していけば回復する者もいる。が、今回はまったく違う。
誰もが怯えるのも当然だ。そうなるほどの、未知の病。
今ここに立っているシャルベルたちもいつ倒れるか分からない。
解っているが、それを三人の誰も口にしない。
「死者数もだんだん増えてる状況だが、どこまで増えるかってところだな……」
別所へ運ばれ、ただ家族がすすり泣く声だけが木霊する。そんな光景を想像して拳を握る。
騎士である自分たちにできるのは直接に病に関わることではない。そこから生まれる混乱を鎮めること。
「町の警備を強化します」
「おう。頼む」
会いたいと、つい先程願った気持ち。
けれどそれが現実となるのは、随分と先になりそうだ。
グレイシア王女が倒れた。
その知らせを受けたライネルは、執務室にあるソファの上に横になった。
(母上や陛下は、参っているだろうな……)
すでに一人我が子を失っている両親だ。ここで娘まで命の危険となると食事も喉を通らない可能性がある。
せめて自分だけは普段どおりに振る舞っていなければ周りも気を病む。
グレイシア王女。ライネルにとっては唯一のきょうだい。
第一王子を亡くした両親の想いからか、幼いころからライネルとグレイシアは二人で仲よく過ごすことが多かった。だから今も仲はいい。
グレイシアは利発で好奇心に溢れていて、先日も一緒に休憩時間を楽しんだ。そのときも彼女は笑顔だった。
『兄様兄様。古竜が選んだという乗り手のラウノアさんに一度お会いしてみたいの。お茶にお呼びしてもいいかしら? 古竜って普段どんなふうなのかしら。乗り手ということは背に乗れるのでしょう? やっぱり身体が大きいから乗ると目線も違うわよね。竜の背ってどんなものかしら。私も乗せてもらってみたいけれどやっぱり難しいわよね。せめてお話だけでも聞きたいわ』
『乗るなよ。絶対に乗るなよ。これまでの古竜からして乗り手以外を乗せるわけがないし、古竜が機嫌を悪くさせるとラウノア嬢が苦労するぞ。それに母上が絶対に許さない』
『もうっ。母様も兄様もひどい』
近日中にラウノアを呼ぼうとしていたグレイシアだ。せっせとその準備をしていただろう。
なにせあの妹は幼い頃に「将来は竜使いになります!」と言って両親を卒倒させた人物だ。さすがに自分の立場を理解するようになってからはそんなことを言うことはなくなったが、代わりに知ることに熱心になった。
――そんな話をしていたときは、まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。
王族たる者常に危険があると理解している。だけれどやはり、心は苦しい。
「病の詳細と有効な対処を……」
専門家が手を尽くしている。自分は現状にできる手を打たなければ。
父とともに、国と民のために。
横になっていたライネルが身を起こす。さすがに疲弊したようなライネルには控えるゼオも心配そうな目を見せた。
立ち上がったライネルが執務机に向かおうとしたとき、ぱたぱたと音がして視線が向いた。
窓の外に降り立った、一羽の鳥。いつの間にか自分に懐いた体は少し大きいけれど可愛い鳥。懐いてくれているけれどまだ肩に乗ってくれるほどではないのが少し寂しい。
見つめて、ライネルは窓を開けた。するとすぐに羽をはばたかせて、ひょいと窓枠を越えて入ってくる。気遣うようにくるくると頭を動かして、その視線はライネルを見上げる。
まるで気遣ってくれるかのような鳥を見ていれば、ふっと力も抜けた。
「おまえは元気そうだな」
小さく鳴く鳥をそのままにライネルは執務のために椅子に座った。そんなライネルを鳥はじっと見つめて窓辺から動かない。
ライネルもそんな姿を見つめてから執務を再開させた。
(備蓄の解放。薬と医師の手配。冬が本格的に始まる前に収束させるためには……)
執務室に際立つのはペンを走らせる音だけ。
(ラウノア嬢に関して出ている噂は状況的に消すのは難しい。監視は続けさせるとして……)
資料を手に取る。現在はっきりしている患者の数だ。
王都民の総数と患者数から見て、広く日常的に使用される何かが感染源になった可能性が高い。それを手掛かりに探しているがまだはっきりしていない。
王宮で暮らすグレイシアまで感染したとなると周りの侍女も感染している可能性が高く、王都の状況からしても感染力が高いということが考えられる。
そうなると、先日一緒にお茶をしたライネルにもその可能性がある。
恐れはない。ならばこそ今できる限りをしなければと、机にむかうのだから。
♦*♦*
静かな自室。椅子に座ったラウノアは机に向き合い、その視線を机の上に向けた。
真っ白な便箋。傍に置いてあるインクボトル。あとはペンを持ってインクを付ければ文章が書ける。
分かっているのに手が進まないのはなぜだろう。
「お嬢様。やはり危険です」
「そうです。もしそれをギ―ヴァント公爵子息様が誰かに言ってしまったら――」
「わたしが望まないことをシャルベル様は口にしないわ。それは……分かってる」
彼はそういう人だ。竜に懐かれることも、建国祭から感じていただろう古竜との疑念も、ずっと胸に秘めて誰にも言わない。
分かっている。――だから、利用する。
ラウノアの側ではガナフやイザナが制止を口にする。さらにマイヤやアレクも不安げにラウノアを見つめている。
彼らのその眼差しの理由は分かっている。
けれど、それでもラウノアはペンを手に取った。
「わたしは……見殺しにするだけだもの。この病はすべてが未知だからこそ、せめて原因だけでも推測をつけられるほうがいい。そのヒントを与えられるのはシャルベル様だけ」
「それは理解いたします。ですが……」
「みんな、心配してくれてありがとう。……大丈夫。それにね、わたしのせいだなんて噂は違うと証明しないと伯父様にもご迷惑がかかって、領地の運営にも影響が出る可能性もある。それじゃ領民にも影響が出るから、それは避けないと」
領地領民のことを考える。その教養は昔に見た母の姿があるから。
ラウノアの横顔にルフの顔を見て、ガナフとマイヤはそっと瞼を伏せた。それでも、その傍でイザナは声を続ける。
「でもっ、それじゃお嬢様はもう……」
「いいの」
ただ一言。静かに告げたラウノアに側付きたちは口を閉ざす。
(シャルベル様はおそらく口外はなさらない。もしもこの予想が外れたときのために打つ手もある)
分かっている。側付きたちが言うように、これは危険な賭け。
それでも何もせずにはいられない。
(もうこれ以上、見て見ぬふりはできない)
秘密を守ることが最優先で。だけど、今の自分や家族の立場がどうでもいいわけでもなくて。
どちらかを選ばなければいけないなら、選ぶのはとても難しい。
(わたしや伯父様たちの不利益にならず、かつ、病に関してもなにか手を打つことができる方法は……)
だから、シャルベルを利用する。自分のために。
これまでも何度も痛感してきたことなのに、今はその事実に胸が痛む。
「みんな、ありがとう」