7,失われていた名
瞬間的強風が収まり、ラウノアは思わず瞑っていた瞼を開けた。
肌を刺すこの独特の気配にも慣れた。だからすぐに分かる。
古竜に近づけば威嚇され、一歩間違えれば攻撃される。その経験と防御のため、レリエラとルインはゆっくりと安全域へと後退する。
ラウノアは古竜の乗り手だ。つまり、自分たちよりも古竜に近づくことが古竜から許されている。ここでラウノアの安全のためにと前進するなんて行動は不要である。
古竜の前に立つのは自分だけ。そんな状況になっても動じず、ラウノアは古竜を見上げた。
「お久しぶりです。古竜」
一直線に飛んできてくれた大切な友。
眼前に降り立ったその大きな姿に自然と笑みが浮かぶと、古竜も嬉しそうに鳴いて、ラウノアの頬にそっと鼻先を擦り寄せた。
「うっわー……。え、なにこれ。匂い感じて飛んできました、みたいな?」
「みたいねえ……。あらあら」
近づけば威嚇するあの威圧的な古竜はどこへ……と思ってしまう、目の前の光景。
近づくことさえ誰にも許さなかった古竜は自ら距離をつめ、すりすりと擦り寄っている。そんな光景には遠巻きに見つめる野次馬も唖然とするしかない。
この状況に困ったのはラウノアだ。こらこらと古竜を宥めようにもどうしようかと考えあまり手は動かない。
頭に浮かぶのは、こういうときにギルヴァがどうしていたか、である。たしか「やめろ」と手で押し返していた気がする。そう思ってレリエラたちに聞こえないよう「だめ」と言いながらそっと押してみる。……なぜかより距離をつめられた。元乗り手が参考にならない。
(懐かれるように見られるのは避けようと思ったのだけれど……)
満足したのかラウノアから離れ、古竜はその黒い瞳でラウノアを見つめる。
困ったようなラウノアの表情に、どうしたのかと首を傾げるようにしてラウノアを見つめる古竜。そんな姿を見て、まずは来訪目的を告げることにした。
「古竜。あなたの世話をするために、これからもここに出入りすることに決めました。許してくれますか?」
古竜の鳴き声は了承の音。しかとそれは周囲の者たちにも伝わる。伝わったラウノアも口許を綻ばせて古竜を見つめた。
古竜自身に許しをもらえたことは安心でもある。
しかし元々、竜に関わること、竜の区域へ入ることには少々抵抗があった。ギルヴァは「古竜が動く」と言っていたけれど、自分で伝えることも古竜との意思疎通だ。なによりもまず伝える必要がある。
さてどうしたものか……と迷うラウノアの心を見透かしたのか、古竜がまた首を下げてラウノアと視線を合わせる。
首を傾げるような眼差しに少し驚きつつ、ラウノアは傍にいるのがアレクだけという好条件の中で声を小さく古竜に告げた。
「他の竜がわたしの魔力に反応しないよう宥めてくれますか? それからその……あんまり懐いていると見せるのは……」
触れろと言わんばかりの鼻先を押し付けるような動き。大きな体の後ろで強靭な細長い尻尾がゆらゆら揺れている。加減はしてくれているのだろうが、体の大きな古竜の力はアレクが支えてくれないと倒れてしまう。
……古竜の反応が最早なにも隠せていない。
(えっと……)
さて、どうしたものか。
「経験から言わせてもらうと、これ、かなり懐いてません?」
「懐かれている人がそう言うのだからそうよねえ。私から見てもそう思うもの」
隠せそうにないらしい。いや、うん。古竜の反応から難しいだろうなあとは思ったけれど。
後ろの二人の視線が刺さってくるのでとても振り返りづらいのだが、腹を括ってラウノアは振り向いた。
微笑むレリエラと、驚くでもなく「へえ」と簡素な感嘆をもらすルイン。なんと言えばいいのか非常に困る組み合わせでだらだらと背中を冷や汗が流れる。
「あ、あの……」
「さすがにラウノアさんも驚いちゃうわよねえ」
「いやー、すごいすごい。古竜に懐かれるなんてさすが選ばれた人です」
ぱちぱちと拍手を贈らないでほしい。遠くから感じる視線もひどく居心地が悪い。
困って微笑むしかないラウノアの後ろでは古竜とシラヴィアが会話をするように見つめ合い小さく鳴いている。
一見和やかであるが中身はとんでもない衝撃である状況を見て、レリエラは小さく手を打った。
「とりあえず。挨拶はできたわけだし、ベルテイッド伯爵もお待ちだから今日はこれくらいね。本格的な世話は次からでいいかしら? 他の騎士たちもとっても驚いているみたいだし、こんなに懐かれるなんて私たちも想定していなかったから」
「はい。思わぬご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません」
「気にしないで。ラウノアさんはラウノアさんが思うように古竜に接してあげて」
「ありがとうございます」
後ろの古竜を振り向けばその黒い瞳を自分に向けている。それを見つめ返し、ラウノアは身体ごと向き直った。
「また、すぐに来ますね。オルディオ様にもいろいろ教わってきちんと世話ができるようになるので、少しだけ待っていてください。こりゅ――」
遮るように古竜が鳴いた。その鳴き声に少し驚く。
レリエラもルインも、なにかを訴えるような古竜の声に視線を向けた。
「どうかしました?」
「その、こりゅ――」
また、古竜が鳴いた。二度も遮られたラウノアは問いかけるように古竜へ視線を向けた。
古竜の目はまっすぐ自分を見ている。
言葉を交わすことができたならどれほど楽だろう。けれど竜と人間は知能や理解力に差はない。
だから分かるはずだ。その訴えに耳を傾ければ。
息を吸って、呼びかけ――また遮られる。
(これで三度。遮るのは呼びかけるとき。――まさか)
そう思って、脳裏によぎる光景がある。
柔らかな草の草原。自然の中に降り立つ竜と躊躇いなく竜に触れる友。優しく不敵に口端を上げて、竜の頬に触れて言ったのだ。
(ああ、そうか。わたしが知っているかもと思うから)
解って、ラウノアは古竜を見つめた。近づく古竜の頬に触れて自然と笑みが浮かぶ。
重なる手。思い出す口角を上げた笑み。古竜にとっての唯一は、今なお古竜にとって特別だ。
古竜。古の最古の竜。
そんな竜はこの存在だけ。だから誰もがそう呼ぶ。――だけど古竜の推測どおり、ラウノアは知っている。
「あなたを、ラーファンと呼んでもいいですか?」
――かけがえのないただ唯一の友がくれた、至宝があるのだと。
あのときのように、その頬に触れて問う。触れる手に重なる手の陰が見えて古竜の瞼が震えた。
『ラーファン、なんてどうだ? 俺だけがおまえをそう呼ぶ、おまえの名前だ』
そう言った友を今もはっきりと憶えている。
それを今、かの友との繋がりを持った新たな乗り手が呼ぶ。――そこにはいつかのような高揚が生まれ、他者ならば感じる不快感は生まれない。
嬉しくて嬉しくて、古竜――ラーファンはその場で鳴いた。
その了承の声にラウノアも笑みが浮かんだ。
騎士団長執務室に戻ったラウノアたちは明日からの話をすると、ベルテイッド伯爵とともにラウノアは帰宅。それを見送った後でレリエラは竜の区域でのことをロベルトとシャルベルに報告した。
「はあ!? 古竜が懐いてる!?」
「はい。ルイン君も同じ見解で」
「竜使いで唯一竜に懐かれてる奴がそう言うならそうなんだろうが……まさかラウノア嬢もか……。こりゃ余計に妬みを買いそうだな」
竜の基準は誰にも分からない。
ロベルトが頭を抱える中、シャルベルだけは眉根を寄せ心配そうに顔を歪ませていた。