10.もう、あの家ではない
王城で開かれる夜会まで、領地の屋敷で過ごしたのと同様に、ラウノアは新しい家族とともにのんびりと過ごしている。
ベルテイッド伯爵夫妻もそれぞれに仕事や自由な時間を過ごし、クラウは屋敷でベルテイッド伯爵の仕事を手伝うこともあれば友人の元へ行くこともある。ココルザードはのんびりと、ケイリスは騎士として王城へ。それぞれがやるべきことをしつつ過ごしている。
今度、王城で開かれる夜会は、ベルテイッド伯爵家にとっては、ラウノアの披露目の場。
新しい家族として、自分たちと良好な仲であるという印象づけのためにも、準備は万端にしなければいけない。
ということもありつつも、大半は娘ができて嬉しい伯爵夫人の張り切りで、屋敷は毎日華やいでいる。
張り切っているベルテイッド伯爵夫人があれこれとラウノアの衣裳やら装身具やら、息子たちの衣裳やらを準備し、子どもたちを呼びつけることもあるので、王都を訪れてからの日数もまた、瞬く間に過ぎていく。
おかげで、クラウは早々に「もう結構です。母上ははしゃぎすぎなんです」と言い放ち、自分の準備は済ませてしまった。ケイリスは騎士の仕事上、準備の時間も少ないが、母親に付き合い早々に準備を終えた。
あっさりとした二人に、ラウノアは少々驚いた。自分もそうなりたい……と思うが、準備を楽しんでくれている伯爵夫人を見ると、あまり強く言うことはできない。
それに、伯爵夫人とそうして過ごす時間も決して嫌いではないし、憂鬱でもない。
(社交界にデビューするときは、母様はもういなくて、マイヤやわたしが自分で準備をした。おば様が楽しそうにしてくださるのは、とても嬉しい)
ドレスの色、形、合わせる宝石や宝飾品。一つひとつを真剣に丁寧に選んでくれる様子にラウノアは頬を緩ませた。
「奥様。こちらはいかがでしょう?」
「それもいいわね。ああ、迷ってしまうわ」
伯爵夫人の傍では、マイヤとイザナも楽しそうに準備を手伝っている。
マイヤはラウノアの母であるルフの手伝いもしていたので、こういうことには慣れているが、イザナは自分も楽しんでいるようで、マイヤに比べると仕事をしているようには見えない。けれど、伯爵夫人も咎めず「それもいいわね」とイザナと楽しみを共有している様子。
イザナは、ラウノアが社交界に出るようになった頃にはすでにターニャたちがいたことで、最低限の社交を行い、控えるラウノアを見て、ターニャたちに憤ることが多かった。しかし、ここではそんなことはしなくていい。なので、めいっぱい、準備に勤しんでいるのが見て分かる。
だから、伯爵夫人とのこういう時間は、散財させるのではないかという悩みではあるが、ラウノアにとっては、マイヤやイザナの笑顔が見える嬉しく楽しい時間でもあるのだ。
そんな準備も落ち着いた日、ラウノアは庭にあるガゼボで過ごしていた。
マイヤとイザナが用意してくれた茶は爽やかで、鼻を抜ける香りが心を落ち着ける。甘さを抑えた菓子も口にあって美味しい。
ほっと息を吐くラウノアの傍にいるのは、ラウノア専属執事のガナフだ。マイヤは屋敷のメイドとともに仕事に、イザナとアレクは少し離れて控えている。
「お疲れではありませんか。お嬢様」
「大丈夫。ベルテイッド伯爵家は、皆さま、とても親切によくしてくださるから。以前よりずっと心が安らぐ気がするの」
「それはようございました」
ガナフは、ラウノアの側付きの中では最も年長者だ。ベルテイッド伯爵よりも少し年上だが、仕事をこなすさまとぴんと伸びた背、その身のこなしから、実年齢よりも遥かに若く見られることも少なくない。
ラウノアにとっては、カチェット伯爵家にいた頃からずっと、屋敷に関することでも個人的なことでも、もっとも頼りにする存在だ。それは今も変わらない。
「でもね、社交界の準備は少し大変。マイヤもイザナも、とても張り切っているから」
「ほほっ。しかしお嬢様、それにお困りのようには見えませんよ」
「ふふっ。そうね」
優しく目許を和ませるガナフに、ラウノアも微笑んだ。離れたイザナも反省の様子を見せつつも、その表情には笑みが浮かんでいる。
ふわりと風が吹き抜ける。ぬくもりにあふれた太陽の光が庭の緑を照らし、輝かせる。鳥のさえずりが耳に届き、風に擦れる葉の音が心を落ち着ける。
その中で、ラウノアはそっと、首から下げた指輪を取り出した。
カチェット伯爵家にいた頃から変わらず、常にこうして首から下げている母の形見。
その銀の輝きに陽光が反射し、ガナフも視線を指輪に向けた。
「ねえ、ガナフ」
「はい」
「社交界にこの指輪は持っていかないから、その間だけ預かってもらえる?」
「承知いたしました」
恭しく下げられた頭を見てラウノアはもう一度、指輪を見た。
これは母がつけていたもの。社交界でもしかすると見覚えがあると思う者もいるかもしれない。
ラウノアがカチェット伯爵家から来たことは、どうあっても隠し通せるものではない。しかし、この指輪をはめていることで目に見えてその繋がりを見せるのは望ましくない上、少々抵抗がある。
そっと触れれば、固い感触が指に伝わる。
銀の輪と、銀のような透明のような石。この石には価値はない。けれど、とても大切な品。
『ラウノア。これをあげるわ。大事に。大事にしてね。母様と約束』
そう言って、この指輪を渡された日を思い出す。
――あれは、母が亡くなる数日前のことだった。
母はいつもこの指輪をはめていた。幼い自分にはまだ大きくて、だから、こうして鎖を通して首から下げた。そしてそれは、ターニャたちが来てからも、隠すためにと変わらなかった。
もう、自分の指にはめられるだろう。
けれど、もう、自分はカチェット伯爵家を出た。当主が継ぐこの指輪をはめることは、できない。
――もう、カチェット伯爵家は、どこにもない。
きらりと輝くその指輪が、少しだけ眩しくて、少しだけ遠いもののように感じられる。
胸が痛むような気がして、ラウノアはそっと瞼を伏せた。そんな主を、ガナフも、イザナもアレクも、じっと見つめる。
やがて開かれると、ラウノアはその指輪をもとのように首に下げなおした。
胸元にあるいつもの感触と価値のない石に、少しの気がかりが口からこぼれる。
「……ヴァフォルは、気づいたのかな」
「おそらくは。しかし、いくら竜とはいえ、見ているものしか気づかぬでしょう」
「そうね……。あまり関わらないようにしないと」
「はい。それがよろしいかと」
膝の上に落ちた手を、無意識にきゅっと握りしめた。それではいけないと、カップを手に茶を口に含む。
そんな主を見つめるガナフは微かに瞼を震わせ、控えるイザナも心配そうにラウノアを見た。
屋敷の庭を撫でる風は穏やかで、花の香りを運んでくる。さまざまな種の花が蕾を膨らませ、その鮮やかな色を太陽の下で見せつけているものもある。
華やかでありながらも上品に。そんな庭の一角で、ラウノアは小さく息を吐いた。
(分かってはいたけれど、考えなくちゃいけないことが多いな……。まさか、竜に会うなんて)
思ってもいない事態というものは、存外あっさりと起こるものだった。それを再認識させられたのが、シャルベルの来訪だった。
カチェット伯爵家で通してきたことは、ベルテイッド伯爵家では通じない。だから、気をつけなければいけないことが多く、代わりに、自分が決めることができただろうものは、きっと、決められない。
「ガナフ」
「はい」
「伯父様は、わたしのこと、わたしの今後について、何か言っている?」
曖昧に、けれど、なにを知りたいのかを察知したガナフは、ゆっくりと首を横に振った。それを見たラウノアは小さく息を吐く。
「お嬢様の婚約者候補。現在のベルテイッド伯爵家と利害が一致する家。利益となりそうな家。情報は私も集めておりますが、めぼしい候補は浮かんでおりません。特段、旦那様からもそれらのお話はありません」
「そう……。分かった」
力が抜けるように、言葉がもれた。その声は風にさらわれ、空へと舞い上がる。
つられるように空を見れば、一匹の鳥がその翼で優雅に空を舞っているのが見えた。
(少なくない問題。だけど全部が降り注いでも、わたしがするべきことは変わらない)
――目立たず、平穏に。
突出したものなどなにも持たない、平凡なただの貴族令嬢。そう、在らなければいけない。
静かに、孤独な決意を胸にするラウノアの耳に、穏やかでぬくもりに溢れた声が届いた。
「お嬢様。お一人ではございませんよ。私たちもおります」
「そうですよ! お嬢様。私もアレクも、マイヤさんもいますからね!」
恭しく頭を下げるガナフに続いて、イザナの意思溢れる言葉が飛んでくる。見ればアレクも頷いていて、ラウノアは眉を下げた。
カチェット伯爵家にいた頃も。出てからも。今も。ずっと四人は変わらない。
支え、守り、助けてくれる。大切な存在。
(カチェット家を出ることなんて考えてなかった。出ることになって、ガナフたちは一緒に来てくれた。だけど……もし、わたしが結婚することになったら。ガナフたちと別れることになったら)
そうなったら、もう、自分は一人。
だから、今から訓練しなければ。一人で全てできるように。
「ありがとう」
あるものはいずれ、形を変えていくのだから――