1.日常の変化
「――様。ラウノアお嬢様」
朝の光が差し込む屋敷の一室。
耳に届いた声がラウノアの意識をくすぐり、その瞼がゆっくり開かれた。
ベッドは天蓋付き。四隅には柱が立ち、薄布が眠る人を守っているが、陽光を透かしているそれはいま、一部が開いている、まだはっきりとしない意識と視界の中、ラウノアはベッドの傍で目線を合わせ自分を見る人物へ視線を向ける。
ラウノアと目が合い優しく微笑む女性は、ラウノアの意識に呼びかけるようにゆっくりと落ち着いた声音で続けた。
「おはようございます。お嬢様。お目覚めのお時間です」
「……ん。分かった。おはよう、マイヤ」
マイヤと呼ばれた女性はその笑みを深めた。
正直に言えば、まだ眠っていたい。しかし、マイヤが起こしにきたということは起きなければいけない時間。自然と起床するか起こされるかで、ラウノアは時間を把握していた。
なので、ラウノアは重たい身体を起こす。それを見てすぐさまマイヤが身支度の準備にとりかかった。
侍女の動く気配を感じながらラウノアはもそりとベッドの上を移動する。シーツが皺をつくり、ラウノアの手に滑らかな感触が伝わる。
ベッドに腰掛けたラウノアは、その目を窓の外へ向けた。
ラウノアの自室は娘一人の部屋としては十分な広さで、ベッドやテーブル、書棚もあり、大きな窓が朝日を部屋に取り入れている。窓の外に見える空は青々しく、浮かぶ雲の白さが映えている。
そんな空を飛ぶ鳥が見え、ラウノアは視線をベッドサイドへ向けた。
小さな花瓶に生けられた花。そして栞を挟んだ本が一冊、置かれている。
(確か、イザナが勧めてくれた恋愛小説……)
本の内容を思い出すと同時、部屋の扉がノックされ「失礼します」と声がかけられた。
鏡台の前に座ったラウノアは「どうぞ」と入室許可を出す。すると、本を勧めてくれた侍女が入室してきた。
「おはよう、イザナ」
「おはようございます、ラウノアお嬢様。今日はギリギリまでお休みでしたね」
「うん。……遅くまで起きていたから」
ふっと息を吐いた主人を見て、マイヤとイザナは身支度を始めた。
鏡の中で、イザナが自分の髪に櫛をいれるのをなんとなく見つめる。そしてその目は自分自身へと向いた。
イザナが梳かしてくれる髪は銀色で長さもある。瞳も同じ色合い。顔立ちこそ亡き母に似ているものの、記憶にある母の慈愛に満ちた笑みは真似できそうにはない。母の笑みどころか、最近見る自分は淡々とした感情の読めない顔だと、ぼんやりと思う。
髪を梳かしたあとは普段着用のドレスに袖を通す。時間に追われるように朝の支度を終えた。
マイヤとイザナを伴い部屋を出る。そこにいる自分の護衛官を見てラウノアは微笑んだ。
「アレク。おはよう」
「……おはよう。姫様」
灰色の短い髪。薄紫の瞳や感情を出さない淡々とした表情は、何を考えているのかも読み取りづらい。腰には常に剣を佩き、静かだが、護衛という役目を真摯に勤める青年アレクは、ラウノアの専属護衛官だ。
小さな声が返ってきて、ラウノアはすぐ歩き出した。後ろには三人が続く。
廊下を歩き、階段を下りる。その先にあるのは家族が揃う朝食の場。
しかし、その扉の前にいる執事を見て、ラウノアは小さく息を吐いた。そんな若い令嬢に執事も眉を下げる。
「もう居るの……?」
「はい。お嬢様、私達が――」
「いえ、大丈夫」
心配そうに、不安そうに、自分を見る大切な側付きたちを心配させないよう、ラウノアは普段通りに背筋を伸ばす。
若く慎ましくも、そんな主の姿に傍にいる全員が口を閉ざす。
そしてゆっくりと、執事のガナフは扉を開けた。
「おっそいわ。いつまで待たせるつもりなの?」
「全くだよ。偶に早く来てるなと思えば最後に優雅にやってくるなんて。さすがはご令嬢様。自由気ままでいいよ」
すでに席についているのは四人。控えているメイドや使用人たちもいる。
控える者たちの表情は朝一番に見るにしては陰を帯びているように見受けられ、ラウノアはそれを認めつつも、自分の席へ歩く。
早速飛び出した嫌味。しかしラウノアは表情を変えず、己の席に腰を下ろした。それを見て執事のガナフ、侍女のマイヤとイザナも下がる。
「ちょっと。謝罪のひとつもないの?」
「失礼。だけど、時間に遅れてはいません」
「生意気!」
甲高い声と共に、その主は置かれたガラスコップを手に取ると、それをラウノアに向け、投げた。
ビュッと風を切ったそれはしかし、ラウノアに当たることはなく、傍に立つアレクの手が受け止めた。一連の出来事に控える使用人たちは息を潜め、嫌味を放った二人は怒りを隠さずアレクを睨む。しかし、アレクの薄紫の眼光に睨まれ、うっ……と声を詰まらせた。
「アレク。大丈夫。それより手は大丈夫?」
ひしひしとアレクの殺気を感じながらも、ラウノアはそっと窘める。アレクはすぐに殺気を鎮めると、ラウノアを見て頷いた。
ほっとしつつも、ラウノアはテーブルに座る面々を見やる。
入室一番に嫌味を放ってきたのは、若い男女だ。女性の名はメルリ。気の強そうな目と整った顔立ちをした十七歳の娘。男性の名はマーキといい、メルリの弟で十五歳の少年。二人揃って怒りと不愉快を顔に出し、謝罪のひとつも出すつもりはないらしい。
そして、そんな姉弟の母親が、ラウノアを見て不快に顔を顰めている人物で、名をターニャという。
そして、ラウノアは最後の一人に視線を向けた。
実父であるトルク。今のようなことがあっても口を出さず、昔はよく笑う優しい父だった面影が今は消え失せ、目が合うこともめっきり減った。
アレクが傍を離れることなく、朝一番から剣呑な空気が漂ったまま、ラウノアは朝食を口にすることになった。
(もう、これにも慣れてしまったけれど)
「本っ当にもうっ! ムカつく!」
朝食を終え自室に戻ってすぐ、ラウノアの部屋を掃除しながらイザナがいきり立つ。それを見つつもラウノアは眉を下げるしかない。
イザナは短い赤髪を逆立てるほどに怒っているようで、掃除をする手も少々荒い。無意識に力が入ってしまうのか、ラウノアは書物を痛めてしまわないか心配になりつつ度々視線を向ける。
「大体、ああいう手合いは家に入れちゃいけない決まりなのに! 居候のくせに横暴がすぎるしあれじゃまるで主人一家のようじゃないの! ムカつく!」
「イザナ。それほどに――」
「旦那様も旦那様ですよ! お嬢様は腹が立たないんですか!? 正当なカチェット伯爵家のご令嬢であるお嬢様を軽視するような奴ら、アレクに斬ってもらってもいいんですよ!?」
「イザナ。それ以上はだめ」
胸の内の怒りをどうしようにもできないでいるイザナは、主人の静かだが窘める声音に口を閉ざした。
掃除の手も下がり、身体ごとラウノアに向き直る。イザナの少し落ち込んだ顔を見て、ラウノアは続けた。
「確かに彼女たちは居候だけど、屋敷に入れたのは当主代理である父様だもの。それに、アレクにそんなこと頼んじゃだめ」
「はい……。申し訳ありませんでした」
「いつもわたしのために怒ってくれて、ありがとう」
「当然です!」
落ち込み反省していた表情が一転、絶対的な味方であると語る。それが見えたラウノアも笑みを浮かべた。
ウィンドル国のいち領地を任された貴族、カチェット伯爵家。それがこの屋敷で、ラウノアの生家である。
可もなく不可もなく領地を治め、特段突出している何かがあるでもない、目立たない平凡な伯爵家。というのが貴族たちからの評価だ。
そんな平凡なカチェット伯爵家には、いくつかの決まりがある。
その一つが、家督を継ぐのは女性である、という決まりだ。
ウィンドル国では、男女問わず爵位の継承は可能だ。
しかし、女性の当主というものは少なく、男性に継がせる家が多い。その中でカチェット伯爵家は少々風変わりな決まりを持っている。
カチェット伯爵家当主、つまり、『カチェット伯爵』はラウノアの実父であるトルクではなく、母であった。
その母が亡くなり、後継であるラウノアが幼かったこともあり、今はトルクが当主代理という立場にある。そしてそれは、ラウノアが成長した今でも変わらず、現状、カチェット伯爵家当主代理であるトルクがすることに大きく反対の意思を示せる者は少なく、数少ないその者たちはラウノアの側付きであるガナフ、マイヤ、イザナ、アレクだ。
しかし、四人の主人たるラウノアが、トルクのすることに反抗を示さない。
母を亡くした父の悲しみが癒えるなら……。その想いがあることを四人は知っている。だんだんと距離が離れても父を慕っていることを。
しかしトルクは、妻を失い、別の女性とその連れ子を屋敷に入れた。婚約も婚姻も結んでいないただの居候だが、トルクが招き入れ、ラウノアが反対しないのをいいことにだんだんと厚顔に振る舞っている。
もし、トルクがターニャと婚姻を結ぶという話になれば、ラウノアは反対する。それもまた、カチェット伯爵家の決まりに反する行動であるから。
ラウノアが反抗しないのは、父の心を思いやる気持ちと、まだ彼女たちが居候だから、でしかない。
イザナにとっては、主人たるラウノアを軽視されるのは我慢ならない。しかし、ラウノアが堪えている以上何かをするわけにはいかないので、じっと堪えている。
数少ない不満があるとすれば――……
「ですが……跡取りはお嬢様だけですし、お嬢様ならすぐにでも当主を引き継ぐことができるのに。跡取りがいるならすぐに代理は退くのが決まりですよね?」
「うん。だけど――」
トルクがその話を切りだしたことはない。
ラウノアが言うより先にイザナがその視線を扉へ向けた。先程までの感情的な一面とは違う顔に、ラウノアもすぐに口を閉ざして扉に視線を向ける。
と、すぐにコンコンッというノックがして、扉が開けられた。
「もうアレク。お嬢様がいいって言ってから開けるようにって言ってるのに」
もうっ、とイザナは少し怒るが、アレクは扉を開けたままその視線を室外へ向けている。
一体どうしたのか。ラウノアが声をかけるより先に、アレクが開けた扉の向こうにマイヤの姿が入り込んだ。
急いで来たように少し呼吸を乱し、落ち着けようとしながらマイヤはラウノアを見た。そんな侍女にラウノアも首を傾げる。
「マイヤ。どうしたの」
「それがっ……。お嬢様。先程、ベルテイッド伯爵様がお見えになりました」
「伯父様が?」
息を整え告げられた言葉にラウノアは少し驚いた。
ベルテイッド伯爵家は、ラウノアの父であるトルクの生家。現在のベルテイッド伯爵はラウノアの伯父にあたる。
そんな伯父ときちんと挨拶を交わしたのは社交界デビューを果たしてからになる。
(伯父様、確か二月ほど前にもいらっしゃったはず……)
領地へ来るなどまずないことだったので、その時はラウノアも驚いた。当主としての大事な仕事だろうかと思い声をかけるのは控えていた。
(あの時は、マーキがわたしの食事をほしがったり、メルリがドレスをねだってきたり、ターニャは思っていないことを言って褒めようとしたりして。伯父様にはおかしな光景だったでしょうね)
トルクは再婚していない。ただ、ターニャたちを屋敷へ入れた。それだけ。
その時でさえガナフやマイヤは大反対だった。しかし、ターニャがすでに女主人にでもなったかのような振る舞いで屋敷に居座った。トルクがなにも言わないため、ラウノアの意思を汲んだガナフたちもそれ以上を追求していない。
ベルテイッド伯爵も、ただの居候の我が物やりたい放題には表情が厳しくなっていた。それを見ていたラウノアは、ただ曖昧に微笑み返すことしかできなかった。
考えて思わず息を吐いてしまった。しかし、すぐに切り替える。
他家の貴族の来訪となれば挨拶せぬわけにはいかない。そう思い腰を上げようとしたラウノアに、マイヤは少し狼狽えたように震える口を開いた。
「それで、お嬢様に大事なお話があると」
「わたしに? ……すぐ行くわ」
なんだろうか。考えても思いつくものはない。
ラウノアはすぐさま軽く身支度を整え、応接室へと足を向けた。
(わたしになんの話だろう……。家督については内情だから伯父様が口出すはずもない。……ああ、もしかして、伯父様のご子息との縁談かしら?)
ベルテイッド伯爵には二人の息子がいる。どちらもラウノアより年上で、血縁関係が近いのが気にはなるが、領主となる姪の婿にとダメ元で打診してきてもおかしくはない。
二人の従兄弟とは社交界で数度だけ会ったことがある。しかし、目立たぬようにと意識しているラウノアは、従兄弟の印象が少し朧気だ。
嫌な人ではないと憶えている。しかし、その場合どうしようかと、一人考えながら歩けば応接室に着いた。
マイヤが扉をノックし中に声をかける。すぐに返ってきた答えを受け、ラウノアはマイヤとイザナが開けた扉を抜け、室内に足を踏み入れた。
豪奢ではないが落ち着いた上品な応接室。ゆったりとした空間にテーブルとソファ、調度品が並ぶ。
その中、向かい合って座るのは、父であるトルクとベルテイッド伯爵。父の隣には当然のようにターニャが座っている。離れた小さな椅子にはメルリとマーキの姿もある。居候三人は口端を上げてラウノアへ視線を向けた。
それを認めながらも、ラウノアはゆっくりとベルテイッド伯爵に近づいた。姪の姿にベルテイッド伯爵も腰を上げて向き直る。
「ラウノア嬢。久しぶりだな。元気かい?」
「はい。ベルテイッド伯爵様におかれましても、ご機嫌麗しく」
スカートを少しだけ持ち上げ、片足を少しだけ下げてもう片足の膝を少し曲げ、腰を落とす。淑女として礼をするラウノアに、ベルテイッド伯爵も目許を和ませた。しかしすぐに、その表情を僅か苦悶に満ちたものに変える。
それをしかと認めたラウノアはそっと、ずっとこの室内で話を聞いていたらしいガナフに視線を向けた。
返ってきたのは、苦悶のような、怒りのような、そんな表情。
それを見て、ラウノアは己の心臓が冷えるのを感じた。
「――ラウノア嬢。大事な話がある」
「はい。……なんでしょう」
一気に、空気が苦しいものに、緊張したものに変わる。
ベルテイッド伯爵の決意したような表情。ガナフの眉を寄せる顔。ターニャたちの嗤う顔。それらを見て、自然とラウノアも心臓が音を立てるのを感じた。
(ああ……。嫌な話だ)
直感的に感じ取りつつも、ラウノアはベルテイッド伯爵を見る。
空気を感じ取りつつもそれを表情に出さず、語られるのを待つラウノアを見て、ベルテイッド伯爵はゆっくりと口を開いた。
お読みいただきありがとうございます。
始まったばかりの作品ですが、今後もよろしくお願いします。
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