名前
□月□日
怒ることしか、できなかったわ。
四日目の朝。私は彼が怪我をしてから始めて寝ていたらしく、寝ぼけ眼をこすった。
「んん」
あれ?
地面に直接敷いて、彼を仰向けに寝かせていた毛布も、毛布の上にいた彼も見当たらなかった。肩への重みを感じて自身の背中に、彼に使っていたそれが、土を払った状態でかけられていた。
彼が目を覚まして、私にこの毛布をかけてくれたに違いなかった。
まさか…彼は死んでしまったのではないか。
自力で起き上がって、私に毛布をかけたあと、洞穴から離れたところで力尽きてしまった、なんてこと。彼がいないということに大きな畏怖の念を抱き、涙を流した。
怖い。今、彼がいないことが、恐ろしく感じる。いつも隣にいてくれた彼がいないことは、足元も見えぬ暗闇の砂上に、ただ一人で立っているのと同じ気分に近かった。
希望を持たせてくれると約束してくれたのは彼で、獣王国へ行く目的を作ってくれたのも、紛れもない彼だ。死にたいと本心から願った私を引き留めてくれたのに、私をお父様の刺客から守ってくれたのに、先にいってしまうのか。そんなの、耐えられない。いつの間にか、彼は私の心を完全に包み、支えてくれていたようで、それほど彼の存在が私の中で肥大化していた。
「…エンリル」
涼やかな夜のように落ち着いた声がした。
ゆっくりとして平らかで、いつだって私を安んじてくれるその声に、酷く懐かしいものを覚えた。すがるような気分で声の方向に目を向けると、彼が朝の日に照らされながら立っていた。
柔らかくぬくもりのある焦げ茶色の髪は風に揺れ、日光によって金糸となり、その月影のような瞳が私を確り映していた。
「アルクトスっ」
彼の名前を思わず呼んだのは学園以来だろう。婚約者がいた頃は、気軽に名前呼びなどしたら変な噂がたつと二人きりのときしか呼びあえなかった名前だ。
調子は完全に良いとは言えないけれど、彼は心丈夫そうに立っていた。
「珍しい…………俺の名前…呼ぶの」
「っ悪かったかしら」
元気なアルクトスを見て、エドワードに振られた時よりも目を腫らした。彼が倒れた日を含めた五日間、必死にこらえてきた涙だった。
「バカッどうしてっ、どうして私より早く死のうとしてるのっ」
「すまない………油断した…」
「油断したじゃないわよっ」
込み上げてくるのは怒り。起きてきたアルクトスに対して本当は感謝を述べようと、何度も夜になっては、言ってあげることを考えていたのに。
「なんで私を、深手を負ってまで守ったのっ。なんで、希望を与えるって手をさしのべたのよっ。なんで、すぐにサリーと共に駆けつけてきてくれたのっ。なんで、あなたはヒューテルにいたのよっ」
どうして……
子供のように泣きじゃくる私に、アルクトスは物柔らかな口調で言った。
「君が……好きだから」
その瞬間、アルクトスの胸に飛びついた。存在を確かめるようにギュッと腕を回して、声を潤ませながら言った。
「本当にっ、あなたはっ」
涙はとめどなく、彼の上着に染みを作った。肩で息をするのを整えてから、花の芽吹きのように次々と開花する真髄にあるものを、言葉にして伝えた。
「私っ、ずっとずっと前からあなたのことをっ、好きだったのっ」
学園の時から抱いていた、決して許されることのないこの気持ち。決して育んではいけないと決心していたものが、大きく膨れ上がってきた。エドワードとの契からも、家柄にもよる縛りからも解放された、今の私にはもうその必要性もないからだろう。自分で壊わしていた方位磁針はすっかり自分の中で直り、新しい針が方角を指し示すかのように、私は彼への気持ちを認め、再び惹きつけられ始めていた。
抱きついた私の頭を、大きな手で撫でてくれるアルクトスの顔を見た。
学園のとき、初めて彼に会ったときのこと、夜空の星を琥珀に詰めたような金の瞳が綺麗だと思って、初めて目があったとき思わず目をそらしてしまった。あのときも、こんなふうにどうしようもなく溢れる情熱が湧いた。ずっと包み隠し込んでいた心を、もう自分の中で忍ばせなくてもいいのだと、育むことを始めた。
「ずっと許されないものだって、分かってたのよ。エドワードがいたから。でも、もうそうよね、我慢しなくても隠さなくてもいいのね」
また裏切られるかもしれないとしても。いや、今度は違うのだ。それはアルクトスの様子を見ればよくわかった。
「っっ……」
アルクトスは私から目をそらして、口元を手で抑えていた。健康的な肌色の頬がほんのり赤くなり、耳は忙しなくピコピコと動いていた。
彼は裏切りなど、決してしない。学園のときに抱いた信頼から始め、私を守ってくれた彼への対するこの絶対的な気持ちは、ずっと紡がれてきたものだ。
「あなたのこと、好きよ」
もう一度声に出して、耳を彼の胸によせたら確かに鼓動が聞こえた。アルクトスはしっかり生きて、私のことを抱きしめてくれていることに、喜びをを叫びそうになった。
「エンリル……少し…………痛い」
これはまずいと思って、回した腕の力を少し緩めたが、それでも彼に抱きついたまましばらく鼓動を聞いていた。私は令嬢の中でも高身長なのに、背は頭一つ分近く彼に負けていたから、少し背伸びして。
「……苦しい」
「ごめんなさい。やっぱり、抱きしめないほうがいいわよね」
「いや……そういう…意味じゃない」
私の頭を撫でて彼は続けた。
「心が……苦しい」
「動悸かしら。まだ傷が危ないんじゃ」
「違う………ただの恋心だ……」
そう言って、彼は私の腰を引き寄せた。
急なことで戸惑ったが、心の底から幸福に思った。身を少しだけかがめたアルクトスの顔が、私の肩にきた。
私の耳元で低くのんびりとした声が続いた。
「胸が…張り裂けそうなくらい………君に夢中なんだ」
耳に囁かれる言葉に、一気に頭に熱が上った。溶かされるぐらいに甘い言葉であったが、私は一つ彼を許せないでいた。
「私だって。あなたが起きなくてどれだけ夢中になって看病したと思ってるのよ!あなたがさっきいなくなったとき、すごく怖い思いをしたのよ。もう、もう死んじゃったんじゃないかって」
「心配しすぎだ………毒は…慣れてる………」
獣人だから戦闘訓練は幼い頃から積み上げてきたのだろう。彼の場合相当な鍛錬を積んだのことは、戦闘や肉体から見てわかるがそれでも、私は気が気ではなかったのだ。
何日も眠れなかったのは彼の看病のためでなく、彼がいつ死んでしまうかもしれない状況に戦慄して眠気がでなかったのだ。彼は私の赤い髪を何度も何度も鷹揚に撫でて、愛おしむように言った。
「きれいな歌…………聞かせてくれた……ありがとう…」
「あの子守唄のこと?母様が小さい頃によく歌ってくれた音よ」
「よく……傷に効いた」
そんな傷でよく世辞が言えるものだ。
彼の頭の上に手を回すとさりげなく丸い耳を触った。クマの耳はサラサラとよい毛質だった。
「っっ……リル…」
「嫌だったかしら。獣人は、耳と尻尾は伴侶にしか触らせないと分かってはいるのだけれど」
それでも、私は彼の耳を触りたくて仕方なかった。
それは両思いであると知れたから。
この柔らかく正直な耳が、私だけのものになったらいいのにと、自分勝手な思いが次々と黙考した。私だけが彼の獣耳を触ってもいいと、それは彼と結ばれたいという我儘に狂わされているのを意味した。
「…エンリルなら…いい……」
アルクトスが耳をピコピコ動かして、照れくさそうに言った。
彼の耳をフニフニと触っては、私以外の人が触って欲しくないと芯から思った。
いつからこんなに、私は欲深い人になってしまったのかと罪悪感を覚えつつ、焚き火の煙を上げながら朝食をとった。食べ終わったあと、満腹感に浸って、二人腰を並べて話をした。
「ここからだと……もう少しだ。もう少しで」
「獣王国ね」
彼から離れがたくなってしまい、手を握ってもらいながら座って談じた。後六日歩けば国境を超えて獣王国。二人が馬に乗ればそれ以上に早いだろう。
「それより………そんなに………くっつかなくても……俺はここに」
「何よ、いいでしょこれくらい」
彼の左腕に両方の腕を絡みつけ、さらに手を握った。こうでもしないと、また彼がいなくなりそうで怖かった。
「心臓が……持たない」
「あなた、危篤状態だったのよ。その分をこれで返してちょうだい」
満悦に、だが少しだけ困惑の表情を浮かべた彼がおもしろくて、つい笑ってしまった。
獣王国まで無事に辿り着いて、彼と暮らせたらいいのにと、また欲深い夢を描いては、薪の燃えかすを前にして顔が火照った。
「どうした…エンリル」
「い、いいのよ」
「君のその手……」
アルクトスは私の手のひらを見て、悲しそうな顔をした。
「すまない………俺を運んだときに…できたんだな…」
傷を見ただけでわかるのか、彼は浮かない顔をして私の手を優しく包んだ。皮膚が擦り切れてめくりあがり、まだかさぶたも取れていないボロボロの手を彼は大事そうにしてくれた。
「名誉の傷っていうものよ。あなたが助かったのだから、謝る必要なんてないの」
「だが……君を傷つけた」
あなたのほうがよっぽど私よりも深手を負っているのに。それでも心配してくれる彼に、じんわりと芯が温まった。
「そういえば…この肉をどうやって」
アルクトスが聞いた瞬間に、藪の中から黒い影が突進してきた。黒い影は私の隣りにいた彼を押し倒し、アルクトスの腹部に爪を立てて唸った。
「狼さん!」
縄張りのパトロールから帰ってきた狼が、今まさにアルクトスを食らいそうなくらいに牙をむいていた。急いで止めに行こうとするも、アルクトスが戦いを買ったかのように狼に睨みをきかせて直ぐさま言った。
「狼……エンリルは俺の番だ」
「グルルル」
両者火花が散るような目を交わした後、狼がアルクトスの上から降りたった。
「狼さん、アルクトスは敵じゃないわよ。エドワードみたいな人ではないの」
こうなったのには私にも責任があるだろう。私
が見回りから帰ってあとは寝るだけの狼が近くにいる状態で、エドワードや学園のことを彼に話しかけていたから。狼は私の話を聞いては、気づくろうようなことを、サリーと同じ様に言ってくれていた。
狼はけじめをつけたかのようにそのままアルクトスから離れ、私の隣に来た。
「お肉は、この狼さんが取ってきてくれてたのよ」
狼の顎の下をかいてやりながら、今までのことを少しだけ話した。アルクトスが倒れている間、狼が私達を守ってくれたこと、食料を持ってきてくれたこと、夜には私を温めてくれたこと。
一部分だけだけど、話し終えるとアルクトスは渋い顔をしていた。
「ぐ……狼は俺の敵だ」
おかしなことを言う彼に思わず笑った。
それから、再び私の甘えにたっぷり付き合ってもらってから、久しぶりに荷を馬に積み上げた。さすがに病み上がりの彼を懸念して、私は彼を馬に乗せると、狼が私のすぐ隣に来てグイグイと頭で膝をつついてきた。
「何、どうしたの?」
聞けば、狼が私の背中に乗せてくれるという。縄張りがあるというのにいいのかと聞けば、狼は構わないと、ついてくることのほうを望んだ。
「狼さんがついてきたいって」
「…まだついて来る気か」
呆れたように言ったアルクトスに、それは少し可愛そうだと言い返した。助けてくれたのだから、狼の言うことも少しは尊重してあげたい。
「エンリル…知らないのか……獣は基本……餌を分けて求愛する」
彼の言ったことに、私は口を開けたまま固まってしまった。
「だからダメだ…エンリルは俺の番…」
「でも、狼さんはずっと協力してくれたの。少しはその…聞いてあげてもいいのじゃないかしら?」
餌を分けることが求愛の意思など聞いたことがなかった。でも、迅速に獣王国につくことにこしたことはないので、その旨を伝えるとアルクトスは渋々妥協した。
狼の背に私が乗って、馬の背にアルクトスが乗った。
「アルクトス、もうすぐでしょう」
「そうだな……獣王国までは半分だ…あと半分で君を…」
最後らへんの声はもごもごと口を噤んで言ったようで、聞き取れなかったが互いに嬉しいと思ったのは変わりなかった。
温かな木漏れ日が、時折薄くなりながらも、鬱蒼とした木々の間を通り抜けて照らした。柔らかな光の帯に手を伸ばせば、掴めてしまうような気がした。