渇望2
獣から戻った後に高熱を出した彼をゆっくり地べたに寝かせてから、私は急いで焚き火のところへ戻った。
熾き火は弱々しく点々とした朱を持つだけであったが、月の光を頼りに荷物と馬を連れた。
彼のいる方に戻ると、呼吸は増々不安定なリズムを成していた。ことの次第に、自分も酷く怯えていた。ここである程度は治療しなくては、彼の命を左右するかもしれなかった。
無我夢中で応急キットを荷物から取り出し、膝をついて座って傷口を見た。
「っこんなに深く」
傷の痛々しさに悲鳴をあげた。
矢の先端はまだ刺さっており、彼の呼吸とともに、胸部とともに上下した。
矢を慎重に除いたあと、薬を塗った。座っている私の膝の上に彼の頭を持ち上げて優しく寝かしつけ、何重にも傷をいたわるように包帯を巻いた。
「ごめんなさい。こんなことしか、してあげられなくて」
身をていして守ってくれたのに、私が彼にできるのはここまでしかない。無念さとやるせなさが胸に滲んで残った。
私はさらに荷物の中にある、私の毛布を引っ張り出すと、毛布の上に彼を乗せた。
長い紐も取り出して、彼を毛布にある程度結びつけると、紐の最初を握った。
拳を作り、紐を地面と平行に引く。ソリのように彼を引っ張ることで、運ぶことにしたのだ。
馬で引いてしまっては、彼が踏まれるかもしれない。彼と繋がった紐を肩にかけてまで、己の手で引いて歩んだ。
「んっっっ」
引っぱれ!動け動け動け!
歯を食いしばり、彼自身の重みに擦り切れる肩と手のひらの痛みに耐えながら。
一端の令嬢が、成人男性を運ぶことなどほぼ不可能に近いだろう。今の私はおそらく、彼に対する無念さが心をかつてないほどに奮起させられていた。
力を入れ続けた腕が震えても、皮膚の擦り切れた方の痛みにも構わず、私は姿勢を低く保ち、目線を上げることをなるべく意識して歩いた。
月がもうすぐ沈んでしまう頃、運良く洞穴を見つけて、ようやく腰をおろした。
「痛い思いをさせて、ごめんなさい」
寝袋に寝かせて毛布をかけて、包帯を巻き直す前に傷口に再び薬を塗った。
洞穴の少し外に焚き火を作った。彼が何度も作っているところを見てたから、容易にできた。荷物に詰めていた彼が摘み取った野草も、体に良く、食べられるものだと教えてくれたのを選びぬいて、しるこを作った。
「うん。美味しいよ、ほら」
味見してから、少しだけ意識はあるらしい彼に、よく冷ましてから飲ませた。
しかし、毒に効きそうな薬草の知識はなく、不甲斐ない自分を憎むしかなかった。
彼が汗をかいては、拭き取ってあげて、できるだけ側で話しかけた。彼との思い出はかなり色が濃かったようで、学園の頃のしょうもない話まで思い出しては話しかけた。
「エドワードが長期休暇中の課題を私に押し付けては、あなたと一緒に図書館で手分けしてこなしたっけ」
あのとき、彼から手伝うと言ってくれなかったら、本当に終わりが見えない課題になってたわ。
「昼ごはんのときに食堂に現れないあなたを心配して探しに行ったら、獣人なのに木に登ったまま降りれなかった、なんてこともあったわね」
木登りが得意なはずのクマ。
彼はクマの特性を引き継いでるから、木から降りれるはずだったけれど降りれなかった。
「私も木に登りたいと思って、木上に二人で座ってから、一緒に降りたわよね」
思い返せば彼との思い出のほうが、エドワードよりずっと色濃く私の心に浸透していた。
彼から告白してくれたとき、私は胸を何とか静めさせるのに手一杯だったな。
あのときはエドワードがいたから断るしかなかったけれど、今の成長した彼に告白されたらきっと。
彼の頭をふんわり優しく撫でた。
「あなたの髪、柔らかいのね」
時折苦しそうにする彼に手に汗を握りながらも、布を水に濡らして絞って彼の頭にのせた。
柔らかい手触りで心地よい彼の頭をもう一度片手で撫でると、彼の大きな手をもう片方の手で握った。ずっと包んでみたかった大きな手は、ゴツゴツしていて鍛錬をつんでいるのが分かった。
この鍛錬を、私のためにしていると朗らか微笑み言ってくれた彼。
「嬉しかったのよ、あなたが冗談でも私のために鍛錬したと言ってくれて」
慈しむように言うと、たまに彼は手を握り返してくれた。それは意識があることを示していており、私の心を幾分か鎮めてくれた。
でも、こんなになってまで私を助けてくれる彼には、感謝よりも“なぜ”ということだけが引っかかった。
「あなたはなぜ、こんな私を救ってくれたの」
どうか目を覚まして、その答えを直接言葉にして教えてほしい。
傷が早く治るようにと、おまじないの子守唄を歌った。亡き母がよく歌ってくれた歌だ。
母から教わった歌はメロディーだけのもので、そこにのせるのはその時々で変化し続ける歌言葉。
幼い頃からこのメロディーを聞くと、不思議とどの国にも存在し得ない言語が頭の中に思い浮かんだ。
言語は、歌うたびにまるで生きているかのように毎度違うものになった。
私はただ彼が治って欲しいという一心で、その不思議な言葉を、外にいるチリリという虫の音と共に旋律にのせた。
洞穴にくぐもるような優しい響きがこだまするよう編み出されていく歌言葉。
柔らかく、撫でるような滑らかな歌言葉は、口からスルスルと出されていった。
歌言葉の節々で、私の体から集中の糸のようなものが、彼の傷口へと集積しているような感じがした。
集中の糸で魔物を探知することはあっても、このように人に対して、それも傷口に対しての感覚は今までになく、小さく喫驚した。
でも、歌によって伸びた集中の糸は傷を早く治すためのものだと、本能のようなものから悟った。
「あなたが、助かりますように」
手を確りと握りしめ、彼が眠るまで辺りの静謐さを壊さぬように、私はただひたすらに歌い続けた。