渇望
□月□日
なぜここまでしてくれるの?
それから十日歩き続け、あと七日で国境を超えられることを、彼は教えてくれた。
公爵からの騎士には、あれから遭遇していなかった。
馬の調子も良く、安心して進んでよさそうに思えた。
夜になり、薪を取りに行くと彼が言って立ち上がった。
いつもこうして彼が働いて私は何もできないままだ。この十日間の間にだって、私のために薬草を摘みながら、私の分まで料理を作ってくれた彼。
迷惑をかけてしまうだけではいけない、何か役に立ちたいと思い、焚き火から離れる彼を見届けてから私も立ち上がった。
ここから離れるなと言われているから、密かに役立てることをしよう。
暗い森に十日間も生活すれば少しは慣れてくる。
土を踏み、焚き火の方角を見失わないようにしながら少し奥に歩けば、草がいっぱい生えているところに出た。
月光に照らされて、昼間は鮮やかに咲くであろう小さな花も、今晩は大人しくまばらに咲いていた。鬱蒼とした木々が続いていたのに、ここらへんは開けた場所であった。
「これって、あの人が言っていた薬草かしら」
一つの茎に四枚くらい広い葉がついている。
ちぎると、その香りはかぎ覚えのあるものだった。
あちらこちらにある草花を見て、他にも食べれそうなものはないものかと探してみた。かがみ込んで探していると、不意に何かが擦れるのが聞こえた。
薪を取りに行った彼がこちらに来たのかもしれないと思い、すぐに焚き火の方に引き返す。離れるなと、じっとして待つように言われているのに、こうして焚き火から離れているのを見られては叱られると思ったからだ。
歩き出そうとしたが、大きな影によって妨げられてしまった。
「お嬢さん、私と帰りましょう」
焚き火に引き返そうとした私の目の前には、大柄の齢四十くらいの男が、腕を組んで仁王立ちしていた。
男の左目は閉じていた。額から頬にかけて大きな傷跡があるためだ。それは見覚えのある傷跡で、男は公爵家の鎧を纏っていた。
…フリーガー!?
そいつは私が知っている人物だった。
お父様の側に仕える騎士であり、騎士団長である人だ。
柔和な笑みは明らかに演技のものであって、明らかに私を油断させるものであった。
フリーガーは、若い頃に、騎士ニ十名で倒す魔物を一人で討伐しに行った経験のある人だ。
平民出だからなかなか昇進できないのに悩んでいたとき、お父様が見込んでフリーガーを公爵家に招き入れた。普段はお父様の側を絶対に離れず、誠心誠意に護衛を何十年つとめていた。
だが、ここにいるということはやはり、この人もお父様に命令されて来たのだろう。
その命令はおそらく、私に関してだろう。
「さあ、大人しく」
フリーガーは腰を低くして、私に手を差し出した。黒い革手袋は、月光で冷たく嫌に光った。
「嫌よ!!」
「こんなこと、私もしたくないのですが…」
そう言うと、フリーガーは急に私の左手首を掴んできた。
「離して!」
振りほどこうとするも、強く握り返されて痛いだけだ。左手首はアザができそうなくらいに締め付けられた。
「お前が一人になる機会を待っていた」
先程まで繕われていた笑顔は消え去り、化け物のような形相になるのが分かった。それは、一つの確信へと繋がった。
フリーガーはお父様に私を取り返せと命令されてこちらに来たのではない。殺しに来たのだ。
「これで公爵様の悩みも消える」
「いや!!やめて!!!」
フリーガーは右手で私の手首を掴みながらも、左手で剣を抜いた。
二刀流であるフリーガーは私の手首を離さぬまま強引に引き寄せ、私の首に冷たい剣先を押しつけた。首から血が一滴流れた。
少しでも動いたら、喉元が刺されるだろう。
怖い。私は、まだ死にたくないの!
頭の中で、ぼんやりと彼の姿が思い浮かんだ。
私のペースに合わせてずっとここまで守ってくれた彼。
必死に騎士から守ってくれたときはかっこよかった。
料理が上手くて、私にも教えながら作ってくれた。
馬の扱い方を伝授すると言って、彼のおかげで馬に乗れるようになった。
私がドジをすると、くすりと笑って。少しムカついたけど、後で見せてくれるふとした笑顔があどけなくて。
私の胸が少し寂しいときは、彼は私を甘えさせてくれた。夜の寂しさに、彼はいつも寄り添ってくれた。
彼の知らない表情はきっとまだある。それを知りたいと、彼と一緒に、まだいたいと思い始めているのに、こんなところで。
私はフリーガーを睨みつけた。
「私は…こんなところで死ねない。死んだら、お前も父上も呪ってやる」
赤い瞳は妖艶に輝く。不吉に輝く突きつけられた剣に怯みもせずに、鋭い視線が剣豪を射抜いた。
これにはフリーガーも少しばかり感心した。
令嬢であるのに、怯まずに歯向かう精神を心のなかで称えながらも笑わずにはいられなかった。
「ハハハ!公爵様に早くその首を渡すのが楽しみだ!!」
恩師である公爵の娘とはいえ、慈悲などフリーガーはくれないだろう。
この人は、自分を救ってくれた公爵の悩みを払拭することだけが生きがいだから。
フリーガーが剣を上に振りかざすその瞬間、近くから悲鳴が聞こえてきた。
何事だとフリーガーがそちらを見ると、一人の男の影が見えた。
彼だった。
私達より距離にして二十メートルは離れている位置に、片手には剣を、片手には人の生首を持っていた。私は驚きを隠せなかった。
生首を持つ彼の姿にもそうだが、何より私を助けに来てくれたことにだ。
「エンリルを…離せ」
彼から投げられた生首は、フリーガーの足元に転がってきた。
まだ新鮮に血の溜まりをつくるそれは、公爵の騎士のものだった。
「お前っ」
「騎士は殺した……まだ仲間が…いるんだろう?」
彼の言葉にフリーガーは舌打ちすると、叫んだ。
「おい!!やつを殺せ!!」
唐突に木の影から一気に人の影が飛びかかった。
枯れ葉が落ちる速度よりも早く動いているその人影達は、王妃教育で習った隠密部隊と呼ばれるものだ。
身を潜めて奇襲が得意な部隊が彼一人に刃を向けた。しかし、彼は一つの剣だけで斬っていった。
四方八方からの攻撃を防ぐことよりも速く。
力強さに長けていた彼は剣で敵を薙いでいった。
「これだけか」
まだ余裕そうな彼に対して、フリーガーは再び舌をうった。
「ちっ……。だがな、近づいてきたらこいつを殺す」
再び私の首に押し当てる剣先に力が入った。剣は月の光で青白く、今にも私に突き刺さり、喉元を貫通しそうだった。
明らかに私が足手まといになっていた。動揺した彼は剣を捨てると、フリーガーに、彼にとって珍しくも声を荒げた。
「離せ…と言っているっ。離さないなら……お前を殺す」
淡々と低い声が続いた。
「いいや、殺せないだろう。お前の力は俺よりも確実に弱くなる」
フリーガーは彼の方をニヤリとみやったので、何か裏があるらしかった。
一体何が。
すると、何かが彼にめがけて当たった。ヒュッと風を切る音もなかった。静かに、その線の影が彼に向かい、それで彼はよろめいた。
「っ!何をしたの!?」
彼が膝をつくのも一瞬の出来事で、私は混乱してしまった。
「毒矢さ。これでやつは弱ったはずだ」
足に力が入らないらしく、彼は体をフラフラとしていた。
毒矢は彼の胸元を射ていた。速効性の毒でないとしても、彼の身が…危ない。
「さ、皆の者、かかれ!!」
フリーガーの一言で、騎士がゾロゾロと出てきた。
こんなに大人数だなんて知らなかった。
私は目を見開いていた。
「魔物から身を隠すより簡単だったよ、お前たちを付け回すのは。ここまで簡単だったなら、用意周到にやる必要もなかったな」
嘲笑っているフリーガー。
一驚が自分の中で憤怒に変わることを覚えて、フリーガーを睨んだ。
「そんなに睨んでも、ヤツもお前も死ぬんだ。生憎、俺は呪いなどは信じないたちでな。さ、お前はヤツの首が取れるところを見届けるんだな」
嫌悪を抱かせるほどの会心の笑みを浮かべたフリーガーは、騎士たちの動向に充足しているようだった。何十人の騎士たちは、倒れ込んだ彼を囲い、髪を掴んだ。
やめて。お願い。
柔らかなくせ毛を彼らは乱暴に鷲掴んだ。弱った彼を乱暴に仰向けにして、彼の四肢を押さえつけた。
だめ…いやだ…
一人が、剣を持ち、彼の横へと立った。白銅色の生白い刃が彼へ。
「やめてっ!!」
叫んだ声は嗚咽と共に出た。
「お願いっ。私、あなたたちに何でもするからっ。彼だけは……彼だけは………」
希望を持たせてくれた。
守ってくれた彼に死んでほしくはなかった。
彼だけは生きてほしいと、心からそう思った。
彼が死んでしまうなんて、頭に思い浮かんだだけでも痛哭でむせびあがり、涙が溢れた。
裏切られてもいい…後で私に興味などないって言われたって構わない。それでも、今まで私を守ってくれた彼のためなら、私は喜んで命を差し出そう。
むせび嘆いた私に、奴は冷笑を浮かべて反応した。
「ほぉう。なら、身でも売ってくれるのか?毎晩複数人の相手をしてくれるというのか?」
下劣な願いに、それでも私は言った。
「いいわ。彼の命が助かるなら」
奴はニヤリと気持ちの悪い笑みを生み出した。
「それは面白い。元公爵の娘なんだ。それはそれはいい体をしているんだろうな」
フリーガーの右手が私の胸を強く触った。
涙が何度も頬を伝った。
それでも、彼が助かるなら、私は生き地獄を味わってもいい。
仰向けになった彼の方を見ると、右の胸に黒い線として見える矢が、深くまで刺さっていて痛々しかった。先程自分の首元にできた傷より、裏切られて心にできた傷よりも痛く感じた。
「彼を助けてっ」
振り絞った声は、容易に笑い声に掻き消された。
「ガハハハ。嫌だね」
奴の言葉で、先程の騎士が再び剣を振り上げた。
「いやっ!!やだっ!!!」
見ていられなくなり、私は目を閉じた。
キーンっと、耳鳴りのような、鉄がぶつかり合う音がした。
もう、彼は…彼は……
私は彼を守ってやれなかったのか。
彼は私をたくさんたくさん庇護してくれたというのに。
冷たい音がいつまでも頭に張り付いて、鳴り響いた。
冷たい音に続いたのはフリーガーの言葉だった。
「バケ…モノ」
愕然とするような声色に、目を開ければ彼が倒れていた場所に獣が立ち上がっていた。
皓月に煌々と照らされ、毛皮は温かい金色に照り輝いていた。大きな口に、手足に備わる長い爪。
照らされた輪郭が、彼が今、クマの姿となっていることを示した。
獣…いや、彼は大きな体で騎士の剣を二つに割っていた。
その毛皮のなんと丈夫なこと。剣を弾くぐらいに硬い毛質。
その奇怪な獣化の能力は、彼の先祖の姿を刻々と現していた。
「グルヴァアアアア!」
一度叫んだ後に、周りの騎士を次々とその太い腕の力と鋭く長い爪で倒し、引き裂いた。
地に四足をついて蹴り上げれば、群衆に突進して人を跳ね飛ばした。
彼の変貌に呆気に取られているフリーガーの足を、思いっきり私は踏みつけて、その腕から逃れた。
「っクソ」
フリーガーは足を痛めながらも、私の方を追いかけようとしたが、遅かった。
群衆を倒した彼が来たからだ。
彼は二本足で立ち上がると、フリーガーの2倍はあろう巨体だった。
「俺はお前みたいな魔物を何度も倒してきたんだっ!!俺を舐めるなああああ!」
自らを鼓舞するように言い放ったフリーガーは、二つの剣を構えると、彼を斬ろうとした。彼もまた大きく手を振りかざした。
フリーガーはそれをかわしつつ、間合いを攻めては攻撃を繰り返すも、一向に彼の毛皮には傷一つつかなかった。
それどころか、フリーガーの剣が刃こぼれを起こし始める程だった。
再び彼の方が腕を振りかざすと、長い爪でフリーガーの腕が一つ取れた。
「うわあああ!!!」
鮮血が鈍く飛び散った。
彼の毛皮に返り血がついて、再び彼が爪を振りかざすと、今度はゴトリと頭が取れた。
恐怖の形相をしたまま、フリーガーは呆気なく死んでいった。
「あなた……」
声をかけると、彼は四足歩行になって私の方を見た。金色の目が優しげに微笑んだ気がした。
彼はすぐに背を向けた。物寂しい背中を向けたのは、彼が私を怖がらせているのだと思ったのだ。
獣の姿をした彼の正面まで歩いて行くと、彼の顔がよく見えた。
凛々しい大きな口ある大きな犬歯に、星影を詰めたような金の瞳。学園では見せてくれなかった獣の姿は、本来の彼の姿だ。
「助けてくれてありがとう。その…かっこよかったわ」
クマは静かに目を閉じると、その体から金色の粒子のような光が出た。
みるみるうちに人の姿へと戻り、私の方へ倒れ込んできた。獣化の能力が、解かれたのだ。
暴走することもある獣化の力から戻れて良かったと思いつつも、肩に寄りかかった彼の息が荒いことに気がついた。
胸には折れた矢の先端のところが、まだ残っていた。
まさかと思い額に触れると、熱があるようだった。