秘密
□月□日
互いの秘密の力。
「エンリル……起きたか…」
馬の背に乗りながら目覚めるかと思いきや、私が寝転んでいたのは、毛布の上だった。
彼の毛布を下敷きにして、上には私の毛布がかけられていた。慌てて下の毛布から身を起こして砂を払った。
「ここは?」
「魔物の森の……手前だ…」
もうそんなところに。
一晩中馬を走らせ、途中の宿で馬を二回くらい替えたらしい。
公爵邸からこの魔物の森まではかなりの距離があるのだが。そこを移動した記憶もないという私は、彼が慎重に運んだおかげだろう。
一晩でここまで来れてしまう彼の体力は恐るべき獣人の力を浮き彫りにしていた。
目を閉じ、耳をそばたてて辺りに注意を向けた。集中の糸のようなものを、自分から放射状に張り巡らせる感覚で、私は確認した。
「魔物は近くにはいないみたいね」
「……分かるのか?」
彼は少し驚いたように言った。
「私が魔力持ちなのは知っているでしょう」
聞けば、彼は頷いた。
この話を打ち明けたのはサリーと彼だけだろう。魔力持ちというのは、魔物を操ることさえできてしまう能力なのだ。
判明したのはほんの小さな出来事だった。
幼い頃、窓にやってきた小さな鳥に私は話しかけた。私が飛んでるところを見たいと思っただけ。そしたら、小鳥は部屋の中で一周だけ飛んでみせた。
おもしろいので、サリーに見せびらかして小鳥に指示すると、何でもやってみせてくれた。
サリーがその時顔を青くしていたのことはまだ、記憶に残っている。
あのとき、サリーは私に魔力持ちの存在を詳しく教えてくれた。
魔力持ちは昔、人間にとって迫害の対象であった。魔力持ちの最大の特徴は、赤色を宿すと言われていることだ。
徹底的に魔力持ちを排除する運動もあり、魔力持ちはその時代で激減してしまったが、私は赤い髪と瞳を持ち、魔力が特別に強いらしい。
魔を操るのだから、人類にとっては魔力持ちは凶悪なものだ。もし公になれば、格好の獲物になってしまう。
だからこそ、サリーと彼にしかこの能力のことを話せなかった。
彼は思い出すように、青い空をその目に映して言った。
「知っている。エンリルが…操って……いたからな……」
学園の頃、彼は私から魔物の匂いがすることを不思議に思っていたらしい。
私は、後をつけられていることにも気づかず、小鳥の魔物と話していたところを何度か見られていた。
ある時になって彼が私に魔力持ちであるのかと聞いてきたので、打ち明けたのだ。
事情が明るみになってしまったからではなく、私は彼を信用していたから話したのだ。学園のとき、彼は私の最高の友達であったから。
昔の思い出を思い出しながら、目の前に出されたパンを頬張った。彼が渡してくれたパンを、水で胃に流し込んだ。
一通り落ち着くと、私は彼に力のことを話した。
「魔物の気配を感知できるようになったのは、つい最近のことよ」
自然と使えるようになっていくこの能力。お母様が昔に、遊びとして教えてくれた方法によく似ていたから使いやすいのかもしれない。
「…そうなのか」
彼はそれだけ言うと立ち上がった。会話が終わってしまいそうで、私は言葉を繋げた。
「あなたは、獣化の能力が上がったのかしら」
獣化の能力は獣人の中でも力がある人でないと開花しない能力だ。
自分の先祖の姿にもどることができる。先祖の姿というのは獣人の力の源のようなもので、その能力を使えば力は倍増する。
彼の先祖の姿の場合は、クマの姿に近い。
「訓練はした……だが暴走は…………どうにも」
獣化の恐ろしいところは、力に溺れてしまうと本能に抗うことができなくなるところだ。
暴走は力に溺れてしまうことで、本能への抵抗力を失うと、本当の獣になってしまう。
それも、ただの獣ではなく、魔物に近い厄介なものになる。しかし、この能力は獣人にとって喜ばしい力で、彼は獣王国で力の強いものとして認められていた。
それでも、暴走されたらこちらも打つ手がない。
「お互い、力はできるだけ使わないほうがいいわ」
「そうだといいが……」
再び移動の準備をした。毛布をくるんで荷を馬に乗せ、私も歩くことにした。
彼は馬に乗ってほしそうだったけど、彼に休んでもらいたくて馬の席を譲ったら拒まれてしまった。
だから隣同士で歩くことにした。
地面の土は肌色で、踏み込めば力が跳ね返ってくる。
空は雲ひとつなく、木々が日を遮ってくれた。
「そういえば、あなたは私のことまだ好きでいてくれてるの?」
まだら模様の木漏れ日が降り注ぐ中、唐突に聞いたことだった。
冗談に近いものであり、誰かと会話をしていたいという気持ちからよるものでもあった。
「……」
彼は顔をそむけて、頭の上の獣の耳をへたりとたたんだ。
「っっ……冗談よ冗談」
聞いたことに恥ずかしさを覚えながら、相変わらず耳はすごく正直なんだなと私は失笑してしまう。
学園のときだって、彼の耳は正直に動いていた。獣人は成人すると感情が現れないように耳や尻尾を制御するのがマナーだから、笑うのは彼に悪いかと思った。
そのとき、彼が急に手を出した。
「え?」
何?と聞く前に、彼は私を腕の中に引くと、そのままギュッと力強く抱きしめてきた。
大胆すぎやしないかと、思わず思い上がっていたら、足音が聞こえた。
彼が外套に包むように私を抱いてくれているというのに、その足音は耳につくように大きく聞響いた。それも、複数人によるものだ。
「その娘は……おいっ!。お前、エンリル・ラモンではないか!?公爵から命じられているっ!今すぐその娘を引き渡せ!」
騎士の言葉に私は震えた。
先回りされていたかと思うと、一気に体が冷めてきたのだ。
鋭利な刃物のような男の声が木にこだまするように続いた。
「貴様は何者だ!!離さないのなら、お前も共に殺してやる!」
お父様が遣わせた騎士の声が頭についた。
何度も私の頭に響いた金属のように冷たい罵声は、お父様の意志を告げていた。
その声は、一昨日目覚めるときに見た悪夢の声と似ていた。
お父様は傷物になった私を、恥にならないようにと、殺す命令を下した。そして今、公爵家の騎士は私を攫った彼までも、殺そうというのだ。
たとえ父親でも、貴族の社会でやっていくには、私が邪魔な存在になったのだ。
娘だというのに愛もなく、ただ権力を守るために、彼をも巻き込んで私を殺しておきたい。その事実が一層私を恐怖に包んだ。
さらに、相手は複数人であり、戦えるのは彼だけだ。多勢に打ち勝てるのだろうか。
もし助けてくれた彼が傷ついてしまったら…死んでしまったら…
考えれば考えるほど不安と恐怖が混ざって私を身震いさせた。
震えていると、彼が腕を強く引き締めてくれた。一瞬だけ頭を撫でられた気がして、震えていた手がほんの少し和らいだ。同時に彼は私の耳元で一言呟いたあと、抱く力を緩めて、その騎士の元へ真っ直ぐ行く音を立てた。
ジャリジャリジャリ
乾いた土を踏みしめる音だけが聞こえた。
彼の言うとおり、私は目を瞑っていた。
これから彼が何をするのかわからなかったが、彼の言う通りにしておこうと思ったからだ。
ただ風が凪いで、揺れた髪が頬を撫でた。歩いていく彼の足音が遠くなった後は、物音一つしなかった。
しばらくすると、また彼の足音が戻ってくる。
ジャリジャリジャリ
彼がいいよ、と言った。言う通りに目を開くと、そこには誰もいなかった。
彼から呟かれたことはひとつ。
いいよと言うまで、目を閉じておいてくれと。
「まさか、殺したの?」
「いや……気絶しているだけだ………」
何もなかったかのように彼は馬の手綱を再び取った。
隣りにいる彼はどれほど強いのか、想像がついた。あの場には血や暴れた痕跡もなく、あるのは自然の姿だけだった。
どうやって環境をそのままに、人を気絶させられるのか。その経緯は知る由もなかった。
「強くなりすぎよ」
「エンリルを……守るためだ」
「冗談はよして」
「冗談……ではない。守るために……強くなった」
いくら彼を信じていようとも、その言葉だけは鵜呑みにしないようにと自分に言い聞かせた。
自分のふくらむ思いを気づかないふりをしてひたすら歩いた。もうこんな気持ちをして、裏切られることなどしたくなかったから。
道中、薬草やキノコなど食べれるものを彼は教えてくれた。
そういえば、学園にいた頃、彼とはよく図書館で本を読んだ。その時彼が読んでいた本は、薬草の図鑑だったか。
兎に角、底を知らない薬草学に驚かされた。
「学者にでもなったほうがよかったんじゃないの」
実際、彼は学校の中でもトップクラスの成績だった。学も良いのに、彼が選んだのは獣王国の騎士になることであった。
彼は手にした薬草を眺めた。
「入学したとき……考えた。だが…エンリルがいた……からな」
聞けばまた私のためだと、そういう。
冗談だとしても、なぜこんな嘘をつくのか。
私を守るためだと言っても、私はあなたに何もしてあげられないというのに。
それでも、そういう彼の横顔は、学園で会ったときの幼い少年の姿とは違っていて、希望を持ったような明るい表情だった。口元を上げているのに気づき、不意に見せてきた笑みに、私は目を反らさずにはいられなかった。
また夜を迎えた。
魔物の気配は近く感じていた。
魔物は基本、人を襲うときは自分が傷を負っているときだ。傷を癒やすために人を襲う。だから、近くにその気配を感じていたとしても、それほど危険はないはずだ。
気づいたら随分と山奥に来たようだ。
お父様の騎士はさすがにここまで来てないだろうと思い、彼が組んだ焚き火を眺めながら、ぼんやりとしていた。
揺らめく炎は、消えかけては、風を送ると燃え上がる不安定な火だった。
「先に…寝るんだ……俺が見張る……」
まだ新しい倒木に座り、彼は強気に言った。
「あなた昨日も寝てないじゃない」
「…平気だ……」
「平気じゃないわ!少なくとも私がね。あなたが寝ないのなら私も寝ない」
思わず私は大きな声を出してしまった。
彼が寝ているところを見たことがないし、眠たそうにしているなとも感じさせられたこともなかった。だが、彼の体の疲労を考えると、心配して怒るのも当然だった。
「簡単に死ぬなと言ったのはあなたでしょ」
屋敷にいたとき、あなたはそう言った。
投げかけてくれた言葉は、勇気を与えてくれているのよ。
彼の背に毛布をかけて、私は彼の隣に座った。
焚き火の光を浴びた彼の焦げ茶色の髪は、赤みを帯びていて艷やかだった。
「このままじゃ、あなたの方が早く死んでしまうわ。そうなったら私………もう…」
生きることなど、本当に諦めてしまうだろう。
先程の戦闘も、本当は助からないんじゃないかとも思っていた。だから余計に、彼の身を案じずにはいられなかった。
「………わかった。俺も…寝るから………」
最後まで言わずともその思いは届いたらしい。
お互い別々の毛布に身を包んだ。
夜空は少し曇っていて、星はまだ見えない。近くで休んでいた馬も眠り始めていた。穏やかに焚き火の煙が天に昇っていた。
背を向けている彼に、少しだけ体を近づけた。私よりもずっと大きくなった背中だ。彼の鍛え上げられた体に手を触れると、安心できた。
「私、迷惑かけてばかりね」
「いいんだ………ゆっくり………寝るといい…」
彼は黙ったまま、私が体を寄せて触れることを許してくれた。
少しだけ、甘えていたかった。
お父様にも、婚約者のエドワードにも、サリーにだって、こんなことできなかったから。胸はいつも寂しくて。行き場のないこの心が、ようやく落ち着いた気がした。