再会
□月□日
また“彼”と出会った。
手紙を送った次の日。
朝起こしてくれたのは、サリーではなかった。
彼女は昨日、急遽休暇を取りたいと申し出て今日は休みを取っていた。
彼女には確か旦那さんとお子さんもいるから、大変なのだろう。
特に疑念も持たずに朝食を済ませたあと、馬のいななきが外から聞こえてくるのを耳にした。窓から見れば見覚えのある紋章の馬車だった。
「お嬢様」
ただいま帰りました、とサリーが部屋に駆け込んできたのは馬を眺めて呆けていたのとほぼ同時だった。
「休みをとっていたのじゃないの?」
「はい、お嬢様が心配で…。だから私、お願いしに行ったんです」
サリーの後ろから大きな影が見えた。
彼女が横へ退くと、私はその男に納得した。肩幅が広く、まるで熊のような体格の男。
「やっぱり、あなただったのね。あの馬車は」
クルクルとはねた焦げ茶色の髪。
切れ長で垂れた目には、美しい金色の瞳。
頭の上には丸い獣のような耳が生えている。
「エンリル……聞いてくれ。これから……俺に…ついてきてくれないか」
穏やかで低い声は聞いていると、眠くなる速度の話し声。その金の瞳と目が合うと、私は笑みを取り繕った。
「どういうことかしら?私は、獣王国に行く気などないわよ」
獣人が作った国、獣王国。
彼のように獣の耳が頭の上に生え、尻尾が尾てい骨から伸びている種族こそが獣人だ。
彼の出身地であるその国は、私の国とは昔対立関係であった。それを治めようと近年の取り組みが功をなして、交換留学生が人間の貴族学園に来るようになった。
私が学園にいたとき彼と出会ったキッカケでもあった。
「獣王国に…来てほしい…」
「どうして?」
「理由は……わかるだろう」
彼の美しい金の瞳は、鋭くも温かく私を射抜いて離さなかった。
分かってはいた。
学園のとき、私は彼から告白されたことがあったから。
その気があった女性が今、どん底の状況にいるからと少しは助けたい気持ちになって、ここに来たのか。
私を本気で心配してくれていることもあるかもしれないが、最も恐れているのは私のお父様が私を見限ることであるだろう。
私に愛も向けず、ただ手駒としてしか見てくれなかったお父様。傷物で役立たずになり、身分をもなくした私を、公爵家の恥にならないようにと、殺してしまうだろうから。
そうなる前にと、彼は私を連れ出して逃げてしまおうと誘っているのだ。
取り繕った笑みが、少しだけ剥がれそうになった。それでも、私は彼だけには、絶対に迷惑をかけたくなかった。
「私は、逃げはしないわ」
「……なぜ」
「生きる希望がないもの」
誘いを断るのは、彼に迷惑をかけたくないのもある。しかし、それ以前にもう私の心は壊れてしまっているのが原因だった。
人生をかけて捧げたのは、全てはあの王子のため。この国の未来のため。今はもう、未来を照らしていた夢は闇へと葬られた。
夢がなくなってしまえば、やることがなくなる。やることがなければ、生きる気力も沸かない。
私の心は完全に生きる渇望が欠けていた。
「なら…俺が」
彼が大きな手を、私の胸の前へと差し出してきた。
「エンリルに………希望を与えよう」
一歩踏み出してきた彼の背は、学園にいたときよりもはるかに成長しているように思えた。
いつの間に、彼との目線に差ができてしまったのだろう。
星を宿したような金の瞳は、私を真剣に捕らえていた。
「生きろ…簡単に死ぬな……」
ゆっくりとした低い声は、学園にいたときと同じように私の心を揺さぶった。
信じるのはもう嫌なのに。
彼にだけは、絶対に迷惑をかけたくないと、ずっと思っていたのに。
彼の指先から私へと、それはまるで蜘蛛の糸のように伸びて私の手を誘った。
亡者のような生白い手は導かれて、死してなお慮る彼の温かな手に委ねられていた。
あなたが死ぬなというのなら。
あなたから私に託された最後の願いだとそれを受け取ろう。あなたのためになるのなら、叶えてあげてあげようと思った。
「そうと決まりましたら、準備しましょう。荷物は運びやすい程度しか持てませんが、逃亡のためです」
それから小さめのトランクケースを用意した。
サリーのお古の服と最低限の生活必需品。詰めてしまえば、ここから出ていくのだという気が実感になってきた。
この屋敷から今晩中に出て行く。彼が手を引いてくれるにしても、上手くいくかはわからない。
獣王国はそれこそ隣国ではあるが、平坦な道は遠回りだ。一番の近道としては、危険な森を超えなければならない。魔物の住まう森だ。
「俺は…馬小屋にいる……エンリル………気をつけろ」
朝のうちにそう言い残した彼の言葉を頼りに、サリーのお古に着替えた私は部屋をぬけだした。
今晩は使用人の人数も少ない日だ。蝋燭の火もない廊下を、足音を立てぬように裸足で抜けて、私は厨房の裏口へと走った。暗い厨房は昼間とは違い、道具が片付けてあって何もなく物寂しかった。
裏口の取手に手をかけて、音を立てないよう慎重に戸を開けた。外はひんやりとした風の冷たさが肌に心地よく、蛍の光がぼんやりと、淡い灯火のように弱く輝いていた。靴を履いて足を踏みしめた。
彼の待つ、馬小屋はすぐ近くにある。
本当に抜け出してしまっても大丈夫なのだろうか。
私の専属使用人であるサリーは罰せられないだろうか、お父様は私を殺しに来ないだろうか。
悩みは一つ思い浮かべば、数珠のように連鎖することを止めなかった。
それでも、彼が手を差し伸べてくれたことに変わりない。サリーが背中を押してくれたことにも。
夜のおぼろげさに見とれながら、私は確実に彼の方へと向かっていた。
素早く馬小屋のところまで駆け出すと、彼はすでに、馬の手綱を握っていた。荷物を渡すとくくりつけてくれて、私を馬の背に乗せあげてくれた。朝のときと変わらぬ彼の瞳は、闇の中でも金色に光を反射しているようだった。
「いいか…?行くぞ」
彼もまた私の後ろに乗ると、馬が駆けた。
屋敷の方から足音が響いてきたのは、ちょうど私達が門を抜ける時だった。
使用人たちが、私がいないことに大慌てになっているのだろう。サリーはうまくやってくれるだろうか。私を逃したとバレずにいてくれるだろうか。
公爵の屋敷の門を出れば、夜風が打って変わって生ぬるく思えた。
ただ、後ろにいる彼の体温を感じて、私は頭上にある彼の顔を見上げた。
「大丈夫……守るから…」
彼は私の心を見透かしたように、その一言で私の不安をかき消してくれた。
彼に不思議と、身を委ねると蛍の微光も、日のない静けさも、こころなしか良く思えた。
月がきれいで、馬の足音だけが響く、夜の出来事だった。