悪夢
□月□日
永遠の愛など…あるのだろうか
大好きな人が、私の目の前で声を荒らげた。
私を罵るような言葉だった。
その罵りの言葉は社交界のダンスパーティー会場で響き渡った。
自身に降り注ぐ大衆の目は、嘲笑、好奇、揶揄。多くの貴族たちが立ちはだかってできた不穏な影法師が、私の体に降り注いだ。
「………っっ!!」
勢いよくベッドから飛び出た。
いつの間にか、寝ていたらしかった。悪夢の目覚めに相応しく、かいた汗によって寝間着が肌についてきた。
日当たりの良い窓からは、憎らしいほどに温かな朝の日が差していた。
泣いて腫れた重い瞼を持ち上げて、私は部屋に入り込む日差しを睨みつけた。先程の悪夢でも出てきた、昨夜のダンスパーティーのことを思い出した。
この私は、齢十八にして、婚約破棄をされた。
私の婚約者であるエドワード・イフェンス第一王子にだ。彼が向けたあのときの言葉は、彼の声と全く同じ調子で頭に張り付いていた。
『元々、お前に興味はなかった』
侮辱されるよりも、辛辣に私ことエンリル・ラモンの心をえぐった言葉。
エドワード王子とお見合いしたとき、私は彼を生涯を捧げてお支えしようと誓った。
たとえこの婚約が、私の公爵家にとっての利益につながるからという理由であっても。
できうる限り、彼を愛し通そうという思いだった。王妃になるための教育も、周りからの嫉妬の目も全て受け止めてきた。
すべて、彼のために。
だが私は、私が尽くし愛した人に裏切られた。
今までの費やした時間は全て、昨日の彼からの一言でガラスのように粉々になってしまった。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
侍女のサリーが栗色の眼に不安の色を浮かばせてこちらを見ていた。
彼女はいつから、部屋に来ていたのか。
もはやそれを考えることも疲れていて、表情を取り繕うのに精一杯だった。
汗を拭うためにと、サリーの手には水桶とタオルがあった。彼女は私の寝間着を脱がしてくれると、私の肌を丁寧に丁寧に優しく拭いてくれた。
まるで、ワレモノを扱うように。
「そういえば……あなただけね、こんなに私を大切にしてくれるのは」
母様は私が幼いときに魔物に襲われて死んだ。父様はそれ以来、私を愛娘としては育てなかった。
優しさをくれるのはいつもサリーだけだ。
服を着替える間、姿見を覗き見た。自分の赤い瞳と目が合う。血のような目、と散々に言われてきた瞳。
これを褒めてくれたのはエドワードと…あとは…誰だっけ…
全くと言っていいほど、光を灯すことを忘れた瞳に投げかけた。
私は婚約破棄されることで、この世での生きがいを失った。光を灯さぬ瞳は、私の人生を語るに似つかわしいだろう。
誰かを愛した挙げ句、その人に裏切られた人生。エドワードは、私以外の女性と結婚するために、婚約破棄をしてきた。
私のどこがいけなかったのか。
サリーは私に服を着せたあと、ブラシを取って、髪を梳いてくれた。
「お嬢様はいつもお美しい赤髪ですね」
血のように真っ赤な髪だというのに。
女性らしい細い指が、私の髪を糸を解くように優しくすくった。
「…死にたい」
褒めてくれるサリーに対して出た言葉はあまりに淡白なもので、髪を撫でてくれていた手が止まった。
汗も拭いて、着替えもして、清々しいはずなのに。
明日の生きる目的を失った心持ちは、最悪だった。
「私の……どこがいけなかったの……」
「婚約者様のエドワード様のことは忘れましょう」
「そんなこと、できないわ」
視界がぐらつき、ぼんやりと自身の足元を見た。
王妃になるためにと施された習慣の一つに、目線は少し上を向くと身体に叩き込まれている。
だがその時だけは、それを忘れるほど気落ちしていた。
ただ呆然と、自分の生白い足が亡者のように思えてならなかった。
「みんなが私を悪者だと言ったわ」
ぽつりぽつりと紡ぐ言葉は、普段から相談相手になってくれるサリーにしか言えないことであった。
婚約者のエドワードはこの国の第一王子である。彼との婚約は、親の政略結婚であった。
しかし、彼の金髪碧眼の美しい顔立ちが朗らかな笑みを浮かべると、胸がドキドキする。そんな毎日が新鮮な気持ちで楽しかった。今思えば、確かにそこには幸せがあったのだ。
彼のためにと、身を粉にして王妃教育を受けてきた。だが、私が勉学に励んでいる間、彼は他の女性と密通していた。
最後は、邪魔者を排除するかのようだった。彼はその女性と正式に付き合うためにと、私とのおよそ十八年間の婚約を破棄した。
それは幼少期と、青春時代を、彼のためにと王妃教育に捧げた、あまりに色濃く長い年月を全て打ち壊されたということだ。
全ての事実と思い出を蒸し返して、話し終える頃には、サリーが涙を流していた。ブラシを握る手が震えていた。
「やっぱり……、お嬢様がこんな仕打ちを受けるなんてあんまりです…」
私が愛した人は、愛人の手を取った。
私が全く知らない愛人のことを傷つけたと、身に覚えのない濡れ衣を着させて。そうして言い放たれたのは婚約破棄と、私一人だけの爵位剥奪。
ただ一人の男の思い上がりだけで、この公爵の屋敷に、私はいられなくなる。
「お嬢様…」
そう言って、彼女は私を抱いた。
曇りのない温かな胸に、力無く身を任せた。
そうしたら、幾分かここに生きてることを、思い出せたから。
「お嬢様は頑張ってこられたのに。ラモン公爵の一人娘だからと、お産まれになったときから王族に引き込まれたあげく、彼らから傷物にされるんですよっ……」
彼女は私の言葉を代弁してくれるかのようだった。今はそれだけで幾分か心が、軽くなった。
「ねえ、手紙を送りたいの。エドワード様宛よ」
微笑んで言ってのけたら、サリーが眉尻を下げて私よりも悲しそうな顔をした。
その表情は、私の何をも感じなくなった心の本来あるべき姿を、見せてくれているようだった。
改めて自分の侍女が、自分に対して優しいことに気がついた。
でも、もうそれに感動を覚えられないのが現状だった。
躍動する仕方さえも忘れ、同時に生きる気力も失った今の私の心。
私はペンを取り、サリーから渡された手紙に書き込んだ。
手紙には一言。
さようなら
それだけだ。
愛していた彼をできるだけ早く忘れたかったから。
このような短文になってしまったのは、彼との人生と私の人生を完全に断ち切きるためだった。
これからどうすればいいか。
明確な処分が決まるまではここにいさせてもらえるはずだ。だが、いずれは公爵家から追放され、酷い生活をおくることになるのかもしれない。
自身の未来が曇って見えた。あれだけハッキリと未来が見えていたというのに。
お父様は私に愛情の欠片も感じていないのだから、これから先救われることはない。
私を手駒と捉えているお父様にとって、私は婚約破棄された傷物であり、身分もなくした役立たずだ。そうとしか認知しないだろう。私を簡単に追放するのは明白だった。
この手紙の短い言葉には、私の未来が隠されていた。
二日もすれば王子に届いているはずの手紙。私の遺言を、彼はどう受け取るのだろうか。
少しは悲しんでくれるのか。それとも、邪魔者がいなくなったと喜ぶのだろうか。
私は輝かしい夢に、手をのばすことをやめた。
目の前に黒い光が広がったからだ。
その赤い目は、いつまでも亡者のごとき白い足を見つめていた。