こっちにおいで
子供の頃に幼馴染のみーちゃんが川で亡くなった。
お互いの家族と共に旅行に出かけた時の話だ。大人達が食事の支度をしている間に、禁止されているのにも関わらず二人で川に行ったのだ。
その時の事は正直よく覚えていない。僕とみーちゃんが溺れた事や、目が覚めた時に両親が泣いていた事は記憶にある。そしてみーちゃんにはもう会うことが出来ないと感じた事も。
でもみーちゃんの家族がどうなっていったか、僕がその後両親とどのように過ごしていったかは、全く覚えていない。とにかく生きていくという事に必死だったのだ。それが一緒に溺れたのに、僕だけが生き残ってしまった事に対する責任だと思ったからだ。
その声が聞こえ始めたのは子供心にもうみーちゃんに会うことが出来ないと感じた時だった。
「こっちにおいで」
そうみーちゃんの声が聞こえた。でも僕にはそれでみーちゃんが生きているとは思えなかった。なんとなくだけど僕のいる世界からではない声に聞こえたからだ。
「こっちにおいで。いっしょにあそぼう」そんな誘いに僕の心は揺らいだ。
「うん」
そう返事をしたかった。
「助けることができなくてごめんね」
そう謝りたかった。でもできなかった。
僕にはそんな資格がないように思えたからだ。今思えばきっと怖かったのだろう。
会って謝れば優しいみーちゃんはきっと許してもらえる。許されるのが怖かった。何もできないまま許されて、終わりになるのは駄目だと感じた。
「こっちにおいで」
みーちゃんの声がただ僕の耳を通り過ぎていった。
その後もみーちゃんの声は僕を遊びに誘いにきた。
僕の一人称が俺に変わり、私となりまた僕に戻った間ずっと。
進学をして就職をし、定年を迎えた間ずっと。
恋愛をして結婚をして子供が生まれ、その子供にも子が生まれたその間ずっと。
「こっちにおいで」
その声はずっと僕に聞こえている。
明日は久しぶりに家族全員が集まるという日。
僕は孫に会えるのを楽しみに窓辺を眺めていた。
僕の誕生日に会わせて遠くに住んでいるのに、わざわざ来てくれるというのだ。
「楽しみですね」
ベッドに横たわる僕に呼びかける妻の声に僕は頷く。本当に楽しみだ。
息子は会う度に太っているように思える。明日会う時は少しは瘦せているだろうか、それともまた太っているだろうか。
孫たちはきっとだいぶ大きくなっているのだろう。何人もいるから名前を間違えないか心配だ。
明日になったら沢山皆と喋りたいと思う。しかし退屈になった孫たちがこの病室で騒いで怒られないだろうか。まぁそれはそれで楽しい思い出になるのかもしれない。
「こっちにおいで」
そんな時にまたあの声が聞こえてきた。
まだだよ。もう少しだけ待っててほしい。
それ程遠くない月日、それでたぶん僕は君の元に行けるはずだから。
「うん。行くよ」
僕の口からは思っていた事とは別の言葉がでていた。
明日の事は本当に楽しみだ。でももういいのかもしれない。
いや、だからなのかな。楽しい事よりずっと待たせている相手を優先しないと駄目なんだと思う。
「そっちに行くよ。一緒に遊ぼう」
僕の意識はその呟きと共に消えていった。
「大丈夫?気が付いたの?」
懐かしい声がする。でもすぐに僕はそれがお母さんの声だとわかった。
周りをみわたす。
隣でミーちゃんが心配そうにみつめている。
僕は何をしていたのだろう。何か夢を見ていた気がする。もうどんな夢か思い出せないがみーちゃんの声が聞こえていたのは覚えている。
僕は今まで何をしていたのか思い出そうとした。確かみんなで旅行に来てみーちゃんと川で遊ぼうとしていた。それでみーちゃんが溺れてしまったのだ。
「みーちゃんが溺れちゃって。大丈夫?」
僕はさっき姿を見た事すら忘れてそう言った。
「溺れたのはあなたの方なのよ」
お母さんはそう言った。
みーちゃんは岩辺から足を滑らせて川に落ちた。それを見た僕は急いで川に飛び込んだ。でも急に深くなって流れも急で苦しくなって。
そこまではなんとか思い出せた。
助けようと思ってそのまま溺れてしまったのだ。その直後川に様子を見に来た大人たちによって助け出されたそうだ。
みーちゃんはといえばそのまま自分で立ち上がったらしい。そこまで深くない水位で流れも穏やかな場所だったのが幸いしたらしい。
そして今お父さんが救急車を呼んでいるみたいだ。この後きっと怒られるのかと思ったら気分が沈んだ。
旅行から戻って後に詳しい話を聞いた。僕が溺れて意識が戻らない時にみーちゃんが急に言い出したらしい。
「こっちにおいで」 と。
後からみーちゃんに聞くと、どうやら僕が何処か遠くに行くように思えたらしいんだ。だから必死で「こっちにおいで。いっしょにあそぼう」と僕を誘っていたらしい。
気を失っていた僕にはそんな声は聞こえていないのだけど両親もみーちゃんもそのおかげで僕の意識が戻ったと思っているらしい。ただ夢の中でみーちゃんの声がしたような気が今でもしているのでもしかしたらそれが本当なのかもしれないなと僕は思った。