第一話
浮遊霊や地縛霊、怨霊といった幽霊の存在に気づくことができる人間のことを、日本では「霊感がある」と言う。
科学が発展し、世界の殆どが科学的法則に則って説明可能であるともされている現代において、そのような存在は所謂オカルト――現実には存在しない、物語の中の存在とされていた。同時に「霊感」も眉唾物扱いだ。
しかし、彼――並尾龍太は幽霊の存在を確信していた。否、確信するようになった。
それは彼が特別そういったものを信じているからではない。彼は実際にそれらを目で視、耳で聴いている。――そう、丁度今、人とも動物ともつかない奇怪な姿をした〝ナニカ〟に追われているように。
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並尾が〝ソレ〟を知覚するようになったのは三ヶ月前のことだ。
幼い頃から並尾を可愛がってくれていた祖母が不慮の事故によって突然世を去った。
看取ってやれなかったと並尾(と彼の母)は泣いたし、朝起きてリビングに行っても祖母がいないことを認識してまた泣いた。祖母好みの駄菓子を見つけてはもう彼女がそれを食すことはないのだと思って泣いたし、祖母の好きな古い歌謡曲が耳については泣いた。泣いて泣いて、一週間後に並尾は祖母を喪った悲しみを消化した。
並尾が〝ソレ〟を認識するようになったのはその時からのことである。
〝ソレ〟は時には人の姿をしており、時には動物に似た姿をとり、時には名状し難き姿で現れ、時には生理的嫌悪を引き起こす醜悪な姿をとっていた。
全て共通するのは、並尾以外には視えも聴こえもしていない様子であるということ。
とうとう精神を病んで幻覚を見るようになってしまったのでは、と並尾は恐怖した。こんなことは母にだって相談できない。なので並尾は図書館に通いネットを彷徨い、〝ソレ〟はいわゆる幽霊という存在で、自身に霊感が目覚めたからそれらが見えるようになったのだと結論づけた。
そうして、並尾は幽霊の存在を確信するようになったのだ。
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「ちょっ、マジで、勘弁しろっての!」
並尾は走った。息が切れ、喉から血の味がするように感じる程走った。先程吹っ飛ばされたせいで身体中が痛い。全身から疲労だけではない汗が流れたが、それでも足を止めることはなかった。
理由は彼の後ろで彼を追っている〝ナニカ〟である。〝ナニカ〟は四足人面獣のような外見の癖して前足はそれぞれサイズや肌の色が異なる人間の腕、後ろ足は妙に太い鳥の足。全体的にやけに湿っているし、頭ではなく体の方から呻き声が聴こえていた。体躯も2mは優に超えていて、荒々しく足を地面につける度に何の音もしないことが嫌に不気味だ。
こんなことになるなら深夜に神社になんか来るんじゃなかった。そう嘆いたところでもう後の祭りである。
事の始まりは昨日の晩。
並尾は友人達と幽霊、妖怪、超常現象について話していた。まあざっくり言えばオカルト談議だ。昔から友人はそう言ったものに興味を示していて、〝そういうモノ〟が見えるようになり自身のオカルト観に変化があった並尾は、うっかり幽霊に呪われないような知識を少しでも得るために、とより一層友人の話に付き合うようになったのである。
そうしてその中で話題に挙がったのが、近所の✕✕神社には祟り神がいる、なんて話だ。
友人曰く、ある時間に✕✕神社に向かうと、昔自分が遊んでいた人形を持った手が闇の中から現れて、「これはお前の物か」と何処からか尋ねられる。「そうだ」と答えると、昔自分がその人形にやっていたようなこと――四肢を引っ張られたり捻られたり、その他諸々――をされて、最後は闇の中に一人ぼっちにされてしまう。「違う」と答えると、「嘘をつくな」と舌を引っこ抜かれて最後には首を切られる。そう言う話だ。
都市伝説によくある、デッドオアデッド。遭遇=死であるのに誰がそんな噂話を広げたんだと首を傾げたくなるような類いの話だった。
それを実際に調査してみよう、と友人は言い放った。メッセージアプリを介してでの会話なので友人の表情はわからなかったが、絶対目はわっくわくに輝いていたのだろう。中学三年間を共に過ごした友人だ。それくらいはわかる。
並尾は全力で却下を唱えたが、しかし友人は折れなかった。寧ろ霊感に目覚めた並尾がいれば何か色々わかるんじゃないか。そう言われた時は人の気も知らないでと相手の顔を助走つけて殴ってやろうかという程の怒りが湧いた程だ。その時隣の部屋にいた母が壁を殴るなと並尾に抗議して来たが、 全くの無罪であると並尾は思っている。
そして結局、友人に根負けした並尾は二人で深夜に✕✕神社を訪れることになったのだった。
深夜の神社は薄暗く人気がない。しかも件の神社は遠の昔に宮司が死んで誰も管理しなくなった荒れ神社。伸び放題の草木が余計に恐ろしさを感じさせた。
友人は昼間に買ったのだという懐中電灯とカメラを持ち、並尾も家の押し入れから引っ張り出した単一乾電池を四つも使う重たい豆電球式懐中電灯を持つ。普段なら重いしLEDよりも明るくないので絶対に使わないそれをわざわざ持ち出して来たのは何かあった際にはこれで殴りつけようという考えの下だ。幽霊等に物理攻撃が効くのかどうかなんてことは考えていない。
時刻は午前一時五十分過ぎ。もうすぐ丑三つ時になるという時間だった。
友人を先頭に、二人は神社に足を踏み入れる。
並尾は今すぐにでも引き返して帰りたかった。だって普段ならそこら中に漂っている小さいお化けの姿が全く視えないのだ。暗くて見えないとかそういう次元ではない。存在が全く感じられない。空間が異質過ぎて吐きそうだった。そんな並尾の心中など露知らず、友人は先に進む。
先に〝ソレ〟に気づいたのは並尾の方であった。
神社の敷地内を歩いて暫く。友人の更に前に、何かの存在を感じた。同時に微かな呻き声も。
友人は全く気づいていないようで、そのまま歩みを進める。チラチラと〝ソレ〟に明かりが当たっているのに何故気づかないのか。
そこで、並尾はそれが普通の人には見えない幽霊のような存在、件の〝祟り神〟だと気づいたのだ。
並尾は友人の肩を掴む。友人は不思議そうに並尾を振り返った。その向こうで差し出される人形と思しき物。
「逃げよう」そう叫んで、 並尾は友人の腕を引っ掴んで踵を返して走り出した。最初は〝ソレ〟に気づいていなかった友人も、振り返ってしまったのか「何だよアレ!」と喚いている。
〝ソレ〟は並尾たちが自身に気づいたことを勘づいたのか、真っ直ぐに二人を追って来ていた。ああいう手合は自身を認識する奴らにやたらと構うと友人から聞いたのは並尾が霊感に目覚めてすぐのこと。かまちょかよ、なんて言葉で笑ったあの日が懐かしかった。
何か気配を感じ、 並尾が後ろを振り向くと、〝ソレ〟が友人を捕まえようと両腕を振りかぶっていた。並尾は先程よりも強い力で友人の肩を掴み、そして自分と彼の位置を入れ替えるように腕を引く。
眼前には数cmもない程の距離に迫った腕。友人が並尾を呼ぶ声が聞こえたが、走れ、と並尾は叫ぶ。
次の瞬間、並尾は草と土の味を感じた。
どうやらその腕で吹っ飛ばされたらしい。〝ソレ〟から数m離れた所に並尾は転がっていた。
〝ソレ〟は並尾に狙いを定めたようで、ゆっくりと一歩ずつ踏みしめるように並尾に近づいて来る。その手には、何処か見覚えのあるテディベアが。
並尾は痛む身体に鞭打って立ち上がる。そして〝ソレ〟から逃げるように駆け出した。
いつの間にか、 景色は林へと変わっている。この辺りに林はないはずだし、神社の敷地を囲むように木が生えていたがすぐ向こうに町の景色が見える程度だったはずだ。何故か、走っても走っても林を抜けることができなかった。
ここで、冒頭に戻る。
並尾は走り続けたが、彼は霊感に目覚めただけの運動部所属でもない普通の男子。そのうち疲労によって足がもつれ、そして地面へと倒れ伏した。その後ろから、〝ソレ〟が近づくのがわかる。
〝ソレ〟は並尾の足元から、腕をぐぐいと伸ばして並尾の目の前にテディベアを差し出した。「これはお前の物か」とおどろおどろしい、しかし何処か荘厳な声が聴こえる。
身体を引きちぎられ闇に取り残された一人ぼっちか、舌を引っこ抜かれ首を切られて死ぬか。
並尾は「そうだ」と答えた。 首を切られて死ぬよりも、死ぬかどうか明言されていない方が生き延びる可能性があると思ったからだ。彼は単純に死にたくなかった。
テディベアがその手から離れる。並尾は知らず、地に落ちるそれを抱きとめた。そして〝ソレ〟の腕は、手は、ゆっくりと並尾の身体に向かい、そして彼の両腕を掴む。
ぎしりと、その手に力が込められた。両腕が引きちぎられるのだろうか。恐怖に腕の中のテディベアをより強く抱きしめた時、彼はそのテディベアが何だったのか思い出した。同時に、〝ソレ〟の腕が彼を後ろから持ち上げ抱きしめる。
それは痛い程強い力であったが、しかし確かな優しさが感じられた。
――そうだ、このテディベアは、婆ちゃんの……。
突如、やたらに激しく、重みのあるギターが響く。
エレキギターのその音色は、ひたすらに乱暴で、暴力的な程に気持ちイイ。耳を傾けてはダメになってしまう。わかっているのに耳を傾けてしまう。それはまるで麻薬のようだ。
全てを塗りつぶすような快楽に並尾の理性までが蕩け始めた頃。〝ソレ〟の腕はゆるりと解かれ、そして消えていった。
抱き上げていた〝ソレ〟がいなくなったことで、彼は地面に落ちて尻もちをついたまま呆然とする。突然の快楽は彼から思考を奪うのに十分であった。ぼんやりと、口端から垂れる涎を拭うこともなく彼は茫と空を見つめていた。
ガサリガサリと草木を踏みしめる音が響く。しかしその音は彼には聞こえていなかった。
ただ惚ける並尾を、温かさの感じられないLEDの光が照らした。そして彼の目の前に一人の人影が現れる。
「……お前か、並尾と言うのは」
誰かが並尾にそう問いかけた。しかし並尾はそれに答えることはできない。未だ彼に思考能力は戻っていなかった。
誰かは並尾の身体をざっと見て目立つ怪我がないことを確認すると、彼を肩に担ぎ上げる。そして踵を返し、何処かに向けて「帰るぞ!」と声を張り上げた。
ヨッ、と、軽快な掛け声と共に新たな人物が現れる。その頃になると並尾の理性もある程度戻って来ており、彼を担ぎ上げているのが男であり、新たに現れた人物も男であると認識できるようになっていた。
「お、それがアイツの言ってた並尾って奴?良かった良かった、ギリギリでイってねー感じだな」
新たに現れた男は肩から提げていた変形エレキギターを何処からか出したソフトケースにしまって背負う。ギターケースを背負った男の言葉に、並尾を担いだ男は「すぐに攻撃するな」と返した。
「彼が絶頂しなかったから良かったものの、もし絶頂していたら彼の魂は消滅していたんだぞ」
「もっとちゃんと視とけって? ハハ、無理無理。アレなんか霊域展開してたから俺じゃ視えなかったしさ、それにアレの霊力しか感じなかったんだぜ」
「なら僕が発見するのを待てば良かっただろう」
「時は一刻を争う〜だなんて言ったのは何処のどいつだァ? ホラホラ、コイツも霊壁出してて無事だったから結果オーライってことで!」
「これが普通の人間だったら廃人になってるところだぞ……。まあとにかく、依存状態になってないと良いな」
そう言って二人は歩き出した。先程とは違い、すぐに林を抜ける。その間にも繰り返される二人の言葉の応酬は、並尾には半分も理解できなかった。並尾の思考能力の問題ではなく、二人の会話に含まれる用語らしきものの意味が全く理解できなかったからだ。コン? レイイキテンカイ? レイリョク? レイヘキ? 全くもってわからない。わからなさ過ぎて、並尾は小さく「何なんだよあんたたち……」と零した。
「何だ、お前パンピーだったのか?」と言って、ギターケースを背負った男は並尾の顔を覗き込む。並尾を担ぐ男の方はわからないが、どうやら並尾と同年代か、少し上の年頃の少年のようだった。街灯に照らされたその顔に輝くシルバーの口ピアス。見れば両耳にもバチバチにピアスを開けていた。
「俺らは祓除師だよ。やべー怪異をぶっ飛ばすだけの簡単なオシゴトのな」
少年は笑みを浮かべながらそう言った。その口内からはちらちらと舌ピアスが覗く。
少年の言葉に付け足すように並尾を担いだ男が「お前は本来祓われる方だがな」と言った。それに言い返すように少年が目線を上げてそのまま並尾の視界から外れる。視界の外から先程と同じように二人の会話が聞こえてきた。二人は変わらず駄弁り合っている。その声をバックに、並尾は意識を手放した。