彼女の名は
「よし、こんなもんかな」
綺麗に片付いた台所を見て、理央は一つ頷いた。
あの後。
誰かのーーというか少女のお腹がなって、微妙な沈黙がリビングに落ちた後。
『うん、とりあえずご飯にしようか』
という結論に至り、理央が(美咲さんの家事スキルは、大変アレなレベルなので)料理を作ることになった。
だがそもそも、理央は食材が足りなくて買い出しに行っていたのだ。
その買い出しの袋は、ビニール傘と共にあの路地に放置されたままになっている。
それで、冷蔵庫にあった冷や飯と、その他適当な具材をぶち込み、良い感じに味を調えた特製チャーハンを作ったのだが。
ーなぜか以外においしかったんだよなー
そして三人でペロリと平らげた皿を、理央が一人で(美咲さんの家事スキルは以下略)洗い終わって、今に至る。
「お疲れー、理央」
台所に入ってきた美咲さんが、理央にそう声をかける。
「あれ、美咲さん。どうしたんですか?」
「いや。この後話をするなら、コーヒーでもと思って」
そう言いながらも、美咲さんは手際よく戸棚から道具を用意していく。
「美咲さんの淹れるコーヒー、やたらとおいしいですよね」
「そうね、コーヒーだけは得意なのよ」
「…………」
「だけはの所を、少しは否定してくれてもいいのよ。まあこの淹れ方も、知り合いの話の受け売りなんだけど」
話している間も手は止まらず、すぐにコーヒーの香ばしい匂いが漂ってくる。
「ーそれで……この後、あの子に話を聞くのよね」
「はい。事情を知らないと、どうすることも出来ないので」
「……私がやりましょうか?」
「いえ、大丈夫です。」
実は美咲さんには、少女が最初に魔法を使ったということを話していなかった。
そのタイミングがなかったというのもあるが、それ以上にー
「よし、出来たわよ」
あっという間に、湯気を立てる3つのコーヒーカップが出来上がる。
カップを手早くトレイに乗せ、リビングへ。
ご飯のときテーブルに座っていた少女は、今はソファに腰かけていた。
「はい、どうぞ」
机にコーヒーカップが並べられて、理央は少女の向かいに、美咲さんはその間に座る。
ただ、誰も机に置かれたコーヒーカップに手を伸ばそうとしない。
ーそれで……何から聞こうかー
少女も何かを察しているのか、場には少し緊迫した空気が漂っている。
でも、まずは。
カップに手を伸ばしてコーヒーを一口。
美咲さんと目線を交わしてから、理央は口を開いた。
「とりあえず、君の名前を聞いてもいいかな。さっきは聞きそびれちゃったから」
少し躊躇った後、少女は固い声で答えた。
「私は、私の名前はサーシャ。サーシャ・クロマトフィー」
ーサーシャ・クロマトフィー。クロマトフィー?どこかで聞いたことがあるような……ー
その理央の思考は、美咲の言葉で断ち切られる。
「そういえば私も、ちゃんとは名乗ってなかったわね。私は柳原美咲よ。美咲でいいわ。よろしくね、サーシャ」
「さっきも言ったかもしれないけど、僕は理央。篠宮理央。よろしく、サーシャ」
「…………よろしく?」
疑問形ながらも、少女ーサーシャは短くそう答えた。
さて。
ここからが本題だ。
「……今から聞くことは、答えたくなかったら答えなくていいんだけど」
内心を押し隠し、何でもないことのように。
そう前置きして、理央は言葉をつづけた。
「君はどこから来て、どうしてあの路地に倒れていたの?」
長い、沈黙があった。
サーシャは何度も口を開きかけては閉じ、言葉を探すように視線を彷徨わせる。
それを、理央は辛抱強く待った。
「ー私は」
絞り出すように、サーシャが言葉を発する。
「私は、逃げてきた。あなたたちにとっての、異世界から。…………逃げて、ここに来た。だから。だから私は…………」
段々と声は萎んでいき、その先が言葉にされることはなかった。
俯いたサーシャの、その唇は固く結ばれている。
何か、言うべきことがあるはずだった。
けれどその意に反して、理央の唇は凍り付いたかのように動かない。
その姿は、あまりにもーーーーの自分に似ていて。
パン、と手を叩く音が響いて、理央とサーシャは同時に顔を上げる。
その音を鳴らした本人である美咲は、柔らかい笑みを浮かべてサーシャに向き直った。
「あなたに、どんな事情があるのかは分からない。けど私は、私たちはあなたの味方よ。……とりあえず、今日はここに泊っていきなさい。理央、二階は使えるわよね?」
「うん、まぁ」
「じゃあ決まりね。今日は遅いから、もう寝ましょう。理央、案内してあげてくれる」
あっという間に、全てが決まってしまう。
正面に座る少女を見ると、まだ事態を呑み込めていないのか、驚いたような表情のまま固まっている。
確かにその裁定に、不満はないのだが…………
「じゃあ、行こうか」
理央の言葉に、少女はぎこちない動きで、席を立った。
後ろをついてきていることを確認しつつ、二階へ。
階段を上がった後、木製の、廊下の一番手前のドアを開ける。
中に入ると、部屋の中央にはダブルベッド、壁際には小さな机。
奥の押し入れからシーツと枕と毛布を取り出してセットすれば、あっという間に寝床が完成する。
ベッドの横に落ち着かなさげに立つ少女に、電気の消し方など一通りのことを説明して、理央は部屋を出ようとした。
そのときサーシャが言葉を発して、理央は振り返る。
「どうして、あなたは…………ううん、何でもない」
それは様々な疑問を含んだ『どうして』だったが、彼女はすぐにそれを呑み込んだ。
その代わりのように、サーシャは姿勢を正して告げる。
「さっきは、いきなり魔法を使ってごめんなさい」
そのことに驚きながらも、理央はその言葉に首を振ってこたえた。
「気にしてないよ、いきなりでビックリしただけだろうし。ーおやすみ、サーシャ」
「うん、おやすみ、りお」
リビングに戻ると、そこにはソファでコーヒーを飲む美咲さんの姿があった。
「ーお疲れー、理央。どうだった?」
こちらに気づいた美咲さんが、そう声をかけてくる。
「とりあえずは、大丈夫そうでした」
向かいの席に座りながら、理央は答えた。
「それにしても、逃げてきたって言ってたけど……」
どこからなのか、何からなのか。
そういった具体的な情報は、全くないままだ。
「まあどんな形であれこっちに来たのなら、門の記録にも残ってるでしょうし、調べれば身元は分かると思うけど」
門を通した出入りの全ては、厳重に管理されている。だから確かに、あの子が異世界から来たのならその記録も、データベースには残っているはずだ。
「美咲さんは、明日も仕事ですか?」
「ええ。朝には出ちゃうから、サーシャちゃんのことよろしくね。多分、6時くらいには帰れると思うけど」
「それはもちろん、大丈夫です」
そう言って、大分ぬるくなったコーヒーをすする。
「ーあら、もう12時じゃない。そろそろ寝ないとだめよ」
壁に掛けられた時計を見て、美咲さんが言った。
確かに時計の針は12時を指していて、言われてみれば眠い気もする。
ー今日は、というか今日の夜は色々あったしー
「美咲さんはーー」
「私も、もうちょっとしたら寝るわ。じゃあ、おやすみなさい、理央」
「おやすみなさい、美咲さん」
「はぁ~」
理央がリビングからいなくなった後、美咲はおもむろにため息をついた。
それを打ち消すように、カップに残ったコーヒーを流し込む。
異世界からやってきたという、あの少女。
ー本当に、あれでよかったのだろうかー
状況からみても、本人の言葉からしても、少女がーサーシャが厄介ごとを抱え込んでいるのは明らかだ。
自分は、理央を守らなくてはならない。
それは、何としてでも。
ただ。
あんな様子の少女を、放ってはおけないのも確かで。
「あーー、もう」
すでに、自分はあの少女に約束してしまったのだ。
ならば、出来ることをするしかない。
ー大丈夫、きっと何とかなるわー
そう適当に結論づけ、面倒ごとは明日の自分に任せて、美咲はとっとと寝ることにした。
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視界を覆う白に、目を細める。
どことも知れぬ、平坦な大地。
その真ん中に、自分は立っている。
ただひたすらに広いその世界に、理央は一人でいた。
ふと、人の気配を感じて後ろを振り返る。
そしてーそこに立つ人影を一目見た瞬間、これが夢だとはっきり分かった。
白衣を着た女性と、かっちりしたスーツに身を包んだ男性。
「「理央」」
とても、懐かしい声。
でも自分を呼ぶその声は、もう。
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