足音
頬に当たる空気は冷たいが、パリッとした朝。
きれいな黄緑色のダッフルコート姿のマキは、足取りも軽く職場のあるダウンタウンまで歩いていた。
彼女のアパートから徒歩通勤に要する時間は片道二十五分。
この街特有の、典型的な天気である曇りの日であったが、灰色の空に気が滅入ることはなかった。
クリスマスが終了し、本日は御用納めの日。
今日が終われば一週間の休暇となる。
それに加えて、十二月に入ってからずっと気分がよい。
道行く人に素晴らしい笑顔を向けられたり、店員との会話が弾んで楽しい気になったり、なにがなんだかよくわからないが、とにかく自分は今よい流れに乗っているという感じがしていた。
安定した仕事、居心地のよい住処に素晴らしい友人達。
ぜいたくをいうなら本当に欲しいものが欠けているのだが、まあ、よい。
とりあえず今の自分にあるもの全てに感謝したい気分だった。
当たり前のものなんて、一つもないのだから。
ダウンタウンを通り抜けるハイウェイ上にある公園を通り抜け、彼女が働くオフィスのあるビルへとつながるコンベンション・センターを通るのが彼女のとる毎日の通勤路であった。
公園に入る前、横断歩道を歩きながら、後ろに黒いコートを着た男が道路を横切るのを目の端で捉えた。
公園への階段を歩いて昇り、気配を感じたのでチラリと後ろに目をやると、先ほどの黒いコートの男は完全な白髪で、彼女の後ろにいて、同じく階段を昇り歩いていた。
コツコツと音を立てて。
革靴がコンクリートを軽やかに踏むその音がだんだんと近くなった。
「ここからコンベンション・センターを通り抜けられるかな?」
まさか声をかけられると思わなかったので、少々驚いたが、マキは応えた。
「ええ」
「いつもは下を通るんだけど、なぜだか今日はドアが閉まっててね」
男が言うのを聞いて、
(そういえば数日前、そんな風に書いてあった張り紙を見たな)
と、マキは思った。
男は彼女の横に並んで歩き始めた。
よく見るとさっき見えた時は白髪なのでオヤジだろうと思ったが、違った。
限りなく白に近い見事な金髪。プラチナ・ブロンドなのだ。年齢は同年代くらいだろう。いくつか年上にも見える。
「あなた、このスクエア内で働いてるの?」
「そうだよ。四十一階の法律事務所。そういうキミは?」
「五階にある外国政府のオフィスよ」
「へー、あのビルの中にそんなのがあったんだ。初耳だね。
そんなところに働いているなんてかっこいい(slick)な」
かっこいい(slick)という言葉が、なぜかマキの印象に残った。きっと誰かがこういう風に使うのを初めて聞いた単語だったような気がする。こういう場合、たいてい使われる言葉はクール(cool)だからだろうか。
「あなたのオフィスは大晦日まで営業してるの?」
「そうだよ」
「まあ、それは残念ね。あたしは今日が御用納めで、明日から一週間お休みなの」
「そいつはいいな。どこかへ行くのかい?」
「年が明けてからだけど、つまりその休暇後ならね。ハワイへ行くのよ」
「それはうらやましいな。どの島に行くんだい?」
「ハワイ島よ」
彼女がそう言ったかと思ったら、すぐに彼はリズム感よく、
「コナ、だね」
と、言った。マキは驚いていた。
(なぜコナだと解ったのだろう。ヒロということもありうるのに。
きっとこの人も行ったことがあって、お気に入りの場所なのかもね)
と、すぐに思う。
彼女にとってハワイへ行くのはこれが初めてであった。
日本人にとって海外といえばハワイ、というのは六十年代からまだあまり変わっておらず、海外旅行経験の少ない彼女の両親さえ行ったことのある観光地だ。
八十年代、バブル期に二度目のブームが到来し、猫も杓子もハワイといっている時代、彼女は子供であったこともあり、まったく興味が湧かなかった。
大学生になってもそれは変わらず、卒業旅行はタイへ行ったし、三十代になった今になってやっと行ってみようと思い立ったのだ。
コンベンション・センターへ入る直前、自分のオフィスにも日系人弁護士がいるという話を彼がしていた。
歩き進む二人の前にガラスのドアがやってきて、彼が数歩前に進み、彼女のためにドアを開けた。
マキは礼を言う。
「どういたしまして」
エスカレーターに乗り、彼が隣に立つと、初めてマキは彼をまじまじと見た。きれいな空色の瞳は信じられないほどの光をたたえていた。
こんな目をした人には出会ったことがない。
いや、光どころの騒ぎではない。
例えるなら星。
そう、大空に瞬くキラキラした星を宿した瞳をしている。
「キミに会えてよかったよ。ハワイから帰ってきたら話を聞かせて」
彼は、そう言って、にこやかな笑顔で手を振りながら歩いて行った。
叫びたいほどの歓喜に胸を締めつけられながら、マキはエレベーターに乗り込んだ。
ついにこの時が来たのかも知れない。
(あの人かも。あの人があたしの王子様かも!?でも、一体、いつ、どうやって旅行のことを話せばいいのよ?ミスター・ローヤー《弁護士》。しかも、あなた、自分の名を名乗ってないじゃない)
◆◇◆
数時間が経過。
昼食の時間となった。
手作り弁当を持参してきたものの、外で食べたくなり、マキはオフィスから出ることにした。
(今日は御用納めだし、ちょっとの贅沢くらい構わないわよね)
「かなめ」というチャイナタウンにある和食店に行くことにした。
この店でもまた、うれしい気分となる出来事が起きた。
年配の母娘らしい日本人女性二人が隣のテーブルで静かにおしゃべりしながら食事をしていた。マキはそれとなく会話を聞きながら店内を観察し、注文した幕の内弁当を食べていた。
母娘が食事を済ませたようで、席を立った。すると、娘のほうがマキの側に寄ってきて、
「日本の方かしら。姿勢がよろしくて、食べ方もおきれいだと母と話しておりましたの」
と、さりげなく日本語で言って店を出て行った。
マキは恐縮する前に誉められたことが嬉しくて、ありがとうございます、と返しただけに終わったのだが・・・。
(ほんとに最近、こういうのが多い。
今のあたしのオーラって、もしかしてピンクなのかも)
マキはそう思った。
朝にも増してウキウキした気分でオフィスへと戻ろうとしていると、ロビーにて三人の男女が立ち話をしているのが見えた。
説明できないが、どうしてもその三人組が気になった。一人はマキに背中を向けているため顔が見えず、あとの男性一人と女性一人の横顔は見えた。
が、すぐに、ピンと来た。
(ミスター・ローヤーだわ、きっと)
ゆっくりとすれ違いざま顔を見ると、果たしてそうであった。
彼もすぐ彼女に気付き、驚いた表情を見せ、他の二人と何か話している最中にもかかわらず、大きな声で、
「ヘーーーーーーイ」
と、応えた。
なんたる偶然。
同じ日に二回も。
(もしかしたら、やっぱりそうなのかも!)
というマキの考えは大きくなった。
そして、興奮はもっと大きくなった。
(この次また偶然に会ったりして)
そう、思いながらほくそ笑んだ彼女であった。