序章《契約成立》(1)
序章《契約成立》
目を醒ます。
朝、暖かな寝床で、大きく伸びをする。
まどろみを振り払い、制服に着替えると、一階のリビングへ。
家族におはようと言って、朝食を取ると、すぐに家を出る。
通学の電車の中、揺られる人の群。
並木道の、学生やサラリーマンたちの喧騒。
授業中の、板書とノートに走るシャープペンの音。
放課後の黄昏。教室の窓は、やけに寂しげに見えて、白昼夢を見ている様。
日常の、瞬く間に流れる時間は、まるで走馬灯みたいだった。
あぁ。
そのどれもが、今は懐かしく、遠い。
暖かなまどろみは既に過去。
この世界は、戦争で満ちていた。
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気が付くと、俺は暗闇の中でひざまづいていた。
何の脈絡もなく、まるで記憶が飛んでいる。
確か、放課後の教室にいたはずなのだけれど、いつのまにか寝ていたのだろうか?
そう思い、顔をあげると、目の前には男が立っていた。
「水無月、晶。男性、年齢18歳。職業、学生」
よく響く、中性的な声。
白いタキシードは装飾華美で、紫がかった髪が右目のモノクルにかかっている。気障で幻想めいた風貌は、童話にでてくる貴族のようで、暗闇が男の周りだけ晴れているのも不思議と気にならなかった。
そんな非現実的な光景に思わず、はぁ、と曖昧な返事をしてしまう。
男はそんな俺の様子に苦笑した。
「はぁって、気が抜けているなぁ。これから契約してもらうのに、大丈夫かい、水無月晶くん?」
名前を呼ばれ、我に返って、俺の中に疑問が浮かび上がる。
何で名前を知ってる?いや、そもそもここはどこで、こいつは誰なんだ?
状況を飲み込めず混乱している俺は、見覚えもない男に、浮かぶままの言葉をぶつけた。
「ちょっと待て、契約って何の話だよ?そもそもあんたは誰なんだ?それに、ここは一体…?」
まくし立てる俺に、男はふっと笑う。
「私の名は、そうだな…アランと呼んでくれ。うん、代理人アランだ」
男…アランは気障な仕草で髪をかきあげる。
「ここは箱庭。君にはこれから、契約し、駒として、箱庭で戦争をしてもらう」
「箱庭…?戦、争?」
意味が解らない。
まるで、外国語を聞かされているみたいだった。
「訳が解らないだろうね。当然だ。何故なら、君はつい先程“生まれたばかり”なのだから」
アランは何も言えない俺を見て、肩をすくめる。
「まぁ、君に選択肢は無い。契約して、箱庭で戦争をしてもらうよ」
そう言うと、アランは懐から一通の手紙を差し出してくる。
目の前に差し出されたそれを、一瞬躊躇してから、受けとる。
羊皮紙の手紙。
蝋の封には、蛇のような、竜の刻印。
それを、開ける。
瞬間。
「おめでとう、契約成立だ」
封が空いた手紙、それと同じように、足元が開けた。
暗闇が、消え去る。
驚く間もなく、支えを失った身体は、ゆっくりと自由落下を始める。
眼下に広がるは、四方を尽きぬ壁に覆われた世界。
即ち”箱庭”。
それを知覚して、アランの声が流れる。
「フリーフォールの準備は良いかな?」
重力を実感する。
暗闇の空間から吸い出されるように、破滅的に加速する感覚。
返事をする前に、その声は遠く、届かない高みへと消えていた。