出陣
「先輩……紅先輩……」
「え、ああ。うん」
よく見えない。
目を擦って、何度か瞬きをして、ようやくぼんやりとしか見えていなかった美咲の顔がはっきりと見えるようになった。ついでに、自分が泣いていたことにも気づかされた。
「大丈夫ですか?」
美咲の顔は、あいも変わらず、心配そうにしていた。
「泣いてたみたいだな……でも、心配しなくってもいい。夢の中で、お姉ちゃんに会ってただけだから」
とは言ったものの、美咲が心配そうな顔をやめないのは、たぶん俺が泣いていたからだろう。あの夢は、俺の後悔の全てでもあった。
「そんな顔しなくていいよ。美咲」
「でも……」
「そんなに俺が心配?」
言ってから、自分で意地の悪い質問だったかなと思った。だが、美咲は素直にはいといった。
「だって、先輩は、今日に近づくにつれて、憂鬱になっていくんですもん。先輩がそんなのじゃ、私は困ります」
「そうか……そうだな」
別に、現時点では弱気になっているつもりはないのだが、やっぱり、心の底ではまだ緊張が解けていないのかもしれい。
「それじゃあ、これから大事な話をしよう」
「作戦のことですか?」
「ああっと、それもあるけど、これはもっと大事な話。どうして俺が研究所を叩き潰したいのか。なんでそれを思い立ったのかっていう話だよ」
それを告げると、美咲の顔は、さらに曇ったようにみえた。
「美咲。変な心配はしなくていいよ。俺が話したいから話すんだからさ」
「いや、そういうわけじゃなくって……」
美咲は、暗い顔で、ぽつぽつと捻り出すように言葉を続けた。
「今まで、先輩がそのことを言わなかったのは、不安だったからではないのですか?
先輩がそれを話したら、私が先輩のこと嫌いになると思ったから話さないんじゃないかと思ってたので……私が話を聞いて、万が一にも共感できなかったら……どうしようかと思って……だから、話さなかったんじゃないかと思って」
金槌で頭を殴られたような気持ちになった。
自分のせいで、また美咲にくだらない心配をさせていたのだと思うと、それに、思い返すとその心配があながち間違っていないということに気がついて、自分が恥ずかしくなった。
「美咲、ごめん」
口から出てきたのは謝罪の言葉だった。
「俺は確かに、俺が見切られと思ってビビってたんだと思う。でも、それだけじゃないんだ。俺は、自分が自分でこの話をするのが怖かったんだ。押しつぶされてしまいそうだったんだ。自分に負けていたんだ。
けど、だから話すよ。今日勝つために、俺は生きてきたんだ。自分に負けている場合じゃない。それに、俺が見切られたからって、それは美咲のせいじゃないから。そんな過去を今まで引きずってた挙句、勝手に助けた美咲に、恩着せがましく戦いを強いてる俺が悪いんだから」
美咲はやっぱり困った顔をしていたが、やがて頷いて、そして笑顔で、口を開いた。
「わかりました。覚悟は今、しました。お話を聞かせてください」
手に汗が滲んだ。
「わかった」
他人に優香姉さんたちのことを話すのは初めてのことだ。伝わるかどうかはわからない。けれど、ここで俺のことを知ってもらわなければ、彼女は俺の事を、俺のしようとしていることを信じられないかもしれない。それに、美咲には俺の知っている全てを知っておいて欲しかった。
「じゃあ話すよ」
そして俺は、自分の過去のことを話した。自分の出生について。優香姉さんや、他の兄弟と仲良く暮らしていたこと。だけどそれは一人づつ減っていって、最後に優香姉さん一人になって、その大好きだった優香姉さんには、俺自身が死の引き金を引いてしまったこと。
それら全てを話し終えると、二人ともなんとなく押し黙った。俺はそれ以上何を言えばいいかわからなくなってしまったし、美咲は何か言おうとしているみたいだけど、それを素直に表せる言葉が出ないみたいだった。
そうして、しばらく沈黙が続いて、結局先に口を開いたのは美咲だった。
「優香さんは、本当に先輩のことを愛していたんですね」
「うん」
「それなのに、先輩は死にに行くのですか? せっかく優香さんが助けてくれた命を、無駄にするのですか?」
美咲の様子は、いたって静かだった。
でも、分からない。それは分からない。
それについては自分でも考えた。考えに考えて、それでもまだ考えた。俺が今こうして生きているのは、間違いないく、優香姉さんのおかげだ。姉さんが、自分の命を犠牲にしてまで俺を生かしてくれたからだ。
でもじゃあ、それは何のために?
生きることがいいことだなんて、証明されたわけじゃない。
もしかしたら、自分が愛する人のために死ぬことは、素晴らしいことかもしれない。
そして、愛する人によって守られた弱者の生は、いかほどに価値のあるものなのか。その命は、何のために使うべきなのか。守ってくれた者の分まで幸せに生きるべきなのか。それとも、守ってくれた者が本当にしたかったことを、自分が代わりに行うのか。それとも、それとも……だけど、俺はこう考えた。
「俺は、優香姉さんに命をもらった。もっと言えば、ほかの兄弟からも命をもらった。だからこの命は、そう、なんていうんだろう。強すぎるんだ。いろんな、僕の大切な人の命が俺の中に詰まってるんだ。そのなかには、内気な人も、強気な人も、優しい人も、ちょっと怖い人もいて、どうすればいい? って聞いても全然違う答えが返ってくるんだ」
俺の言葉を、美咲は静かに。まっすぐに聞いてくれた。
「だから俺は、俺の思うように。俺の願いが叶うように、残された俺の命を使おうと思った。
そして、俺の願いは、これ以上の無駄な実験をやめさせて、無駄に命が浪費されることを防ぐことだ。だから、俺は暁研究所を……ぶっ壊す」
自然と拳が握られていた。なんとなく、動悸も激しくなっていた。ああ、熱くなっていたのだろうか。すこし、激しかっただろうか。けれど、どうしても、これは俺の中の気持だった。
「いや、もしかすると、これは本心じゃないのかもしれないんだけれど。俺はただただ単純に、復讐がしたいだけなのかも知れない。大好きだった人たちを殺していったあいつ等に、死が何なのかを分からせたいだけなのかもしれない」
「それは、それは違うと思います」
「美咲?」
「先輩は、暗い過去を抱えています。けど、間違いなく私を救ってくれました。死にかけた私を、そして、普通で、一般的で、少し辛いかもしれないけれど、それでも、この国で多くの人が送っているような生活を放り出して、私を救ってくれました。私を助けてくれました。先輩は、復讐がしたいだけの人ではないと思います」
「俺が、美咲を助けたのが、君を使って研究所を壊すためだけの理由だという可能性だって考えられるだろ? そうすれば、俺は史上最大のクズだよ?」
「兄弟の愛情を受けて育った人が、その人のことを今でも思っているような人が、そんなことを考えるわけありません」
「愛は憎悪になり、憎悪は人格を蝕んでいく」
「それでも今は、私がいます」
「…………」
さすがにこの言葉には、俺は何も返すことができなかった。美咲がそういう理由がわからなかった。
「先輩は、責任感が強い人です。少なくとも、私が見ているところで、私を裏切るようなことをできるはずがありません。そして私の思いは、先輩のそれと同じです。先輩は、自分の思いを裏切るための勇気も、その理由も、持ち合わせていません」
「…………」
「先輩は優しいですから」
何かが、頬を伝って流れてきたような気がした。そのまま、だれのものかわからない嗚咽が聞こえた。すこしずつ、美咲が近づいてきて、気が付くと背中に手が回っていた。
そうか、この嗚咽は俺のものか。また、年下の女の子の前で俺は泣いているのか。しかも今度は声をあげて。
恥ずかしいじゃねえか。
けれど、涙は止まらなかった。なんでこんなに涙を流しているのか、それすらもわからなかった。さっきの、言いたいことだけを言って、何の論理性もなかったあの会話に、俺は何を感じたのか。いや、何かを感じたのだ。そういえば、あんな自分の黒い部分を、奥深くの部分をさらけ出すのはいつぶりだろうか。
家族なんているはずがない。学校の友人も、担任の先生も、心を開けるほどの仲ではない。研究所に行った時も、相談相手の先生の所まで行っても、俺はただただ、自分に有利な条件を引き出せるように、会話を組み立ててそれを音に乗せて発していただけだった。
だから今日、こうやってすべてをさらけ出すのは、そう。初めてかも知れない。
その初めてが美咲で、心底よかった。
彼女には、面倒な役回りを任せてしまった。助けられた男の本音を聞くだなんて、しかもそいつが突然泣き出してしまうだなんて。
そうだ。彼女のためにも、こんなところで泣いているわけにはいかない。それに大事な話が一つ、残っている。俺は、もういいよと声をかけた。静かに涙をぬぐって、正面の彼女に顔を向けた。
「美咲。もう一つ大事な話をしてもいいか?」
「もちろんです」
「は美咲の太ももについてる紅い三日月のマーク」
「先輩が解いてくれた、呪いでしたよね」
美咲は、静かにスカートの裾を上げてそのマークを見せた。
さっきまで泣いておいて、しかも、抱かれといてなんだけど、その行為は男子を誘っているとしかいえなからやめてほしい。見る分には嬉しいけど。だなんて考えている場合ではない。ことは、少し深刻だった。
「実は、今の俺じゃ、完全にその呪いを解くことはできないんだ」
「で、では、私は死ぬんですか?」
「そんなことはさせない! 俺がその呪いを止めている。だから、俺が死ぬまでは、その呪いは進まないし、絶対に美咲は死なせない。
ただ、俺の力を美咲のために使っているわけだから、もしかすると、美咲は普段通り魔法が使えないかもしれない」
「いえ、それについてはきっと大丈夫です。私は自分の体を再定義できますし、実際それである程度の魔法が使えることは検証できました」
さすが、そのあたりは魔級Bだ。俺みたいなやつとは素質が違うということか。
「それじゃあ、もう話はやめだ。もう、あとはあの研究所に飛び込んで、俺の目標を達成するだけだ」
「そうですね」
そういって、美咲はまた笑った。
◆◇ ◆◇ ◆◇
そして、俺たちは、家を出た。