The past story--first episode--
おぼろげな世界だ。仮想世界よりも、もっと。
◆◇ ◆◇ ◆◇
「奏私のお菓子とってない?」
「いや、とってないよ」
あれ、ここは……どこだ?
「嘘はだめよ、奏。わたし、ここにおいてたんだから」
あれ、あれは、優香姉さんじゃないか。ということは、ここは暁研究所、か。
「え、紅じゃないの?」
「ぼ、僕じゃないよ!」
あれは、俺か。いつのことだろう、これ。なんか、遠い、昔の思い出。
「紅がそんなことするわけないじゃない。奏、あなたしかいないの」
「だから~、知るかって。だって俺、とってないし。絶対取ってないし」
「まさか、もう『だって食べたんだもん』とか言わないでしょうね?」
「え、ああ。そ、そんなわけないじゃん。あはは~」
「奏兄さん。図星?」
「う、うるさい!」
「か~な~で~。食べ物の恨みは怖いわよ?」
思わず、笑ってしまった。追い回される奏兄さん。追いかける優香姉さん、そして、それを黙ってみている、俺。
久しぶりだね、奏兄さん。優香姉さん。けどあとの四人はどうしたんだろ。
そうやって何も思わずに成り行きをぼんやりと眺めていると、突然視界は暗くなった。
しばらくして、再び光が強くなる。今度は、なんだろう。
――――えっ。
優香姉さんが、泣いていた。どうしてだろう。理由は、分からない。
俺は、ただじっと、そんな姉さんの近くに立っているだけだった。
「私のせいだ……私が……私が弱いからだ…………」
姉さんは泣いていた。何をしているんだ、俺。何か、言えよ。優香姉さんを慰めろよ。なんで泣いてるのかわからないけど、何をしなくちゃいけないのかはわからないのかもしれないけど、何か、せめて一言。何か言ってあげろよ。姉さんを、悲しませるなよ。
「ごめんね、奏……結局姉ちゃん、何もしてあげられなかったよ……」
嗚咽交じりのその言葉に、小さな俺は、何もできずに突っ立ていた。
暗転。明転。また、舞台が移った。
「姉さん。俺は、反対だよ」
今度は、俺がしゃべっていた。向かい合ってるのは、優香姉さんだった。
「こんなのは、無茶苦茶だ。訓練じゃない。実験だ。それに、これ以上姉さんの悲しむ顔見たくない」
「でもね、紅。こうするしかないの……」
「……それは、僕たちが実験体だから?」
「紅……話を聞いて」
「それとも、俺だけが魔法を使えないから?」
ああ、そうだ。奏兄さんも、優香姉さんも。それに、ほかのみんなも、とても有能な、すばらしい魔法師だった。
「いくら姉さんがすごくても、他人に魔法力を渡すことはできない。無理なんだよ!」
そう、それに、なんとなくだけど気づきかけていたんだ。自分には魔法の素質じゃなくて、まったく別の何か入っているんだってこと。たぶん、そいつのせいで魔法が使えないんじゃないかってこと。今になってみれば、それは大きな勘違いだったけど。
「だけどね、もし一握りでも希望があるなら、それにかけて見たいの。開発局の人も言ってたでしょ。可能性は低くないんだって」
「でも……」
「でもじゃないわよ。そうしなくちゃいけないの」
優香姉さんの顔は笑っていた。まるで、自分の弟をなだめるように。
そしてまた、あたりが暗くなった。どうしてかな。一度あったこと。わかってる。次に来るのは、きっと……。
ここは、俺の部屋だな。真っ白な部屋。言えば好きなものが手に入ったけど、好きなものはあまりなかったから、この部屋には家具がほとんどない。そんな数少ない家具であるベットの上に、小さな俺と優香さんが座っていた。
「紅、分かってくれた?」
「姉さん。本気なの?」
「ええ、本気よ。紅に、私の力を上げたいもの。どんなに苦しくてもね。だって、私がいなくなったら、紅は一人ぼっちだもん。このままじゃあ、ここでは生きていけないかもしれない」
「僕らは死ぬまで実験体だよ。そもそも、ここで僕が生きている時点で、研究の価値がある。この暁研究所がどれだけ合理主義だといっても、馬鹿じゃない。データをとれるのら、一切の取りこぼしもしないように行うと思うよ」
「そうかな?」
姉さんの表情はあっけらかんとしていた。けれど、それは、無理に平然を保とうともしているようにも見えた。
「もし、中学生に入るような年になっても、高校生になるような年になっても、魔法が使えなかったら、ただの人だってなったら、もうその時、紅はここにはいれないかもしれない」
「…………」
小さな俺の、困った顔が見えた。
「…………わかった」
「そう、よかった」
優香姉さんの顔は明るかった。安心したようだった。
「けど!」
「ん?」
「けど、無理はしないで……絶対に」
にっこりと、笑った。脳裏に焼き付いた。
「わかってるわよ」
そこに、一つ時の闇が差し込まれているのも。
視界はだんだんと薄く、遠くなっていった。
そして、訓練という名目で、実験は始まっていた。もうすでに、数か月は経っているだろう。
この研究所の初めの目的は「透明人間の作製」
けれど、予想外に有能な人材が生まれてきてしまったこと。そして、ほぼ同じ遺伝子にも関わらず、まったく魔法の使えない魔級Zがうまれてきたことで、一時的に別の企画を発動させた。
今は、実験室の中。たくさんの電子機器に包まれた小さな俺と優香姉さん。
定期的に絶叫が聞こえる。そんなことはなかったけれど、優香姉さん歯を食いしばっていた。ときに、小さな嗚咽が耳を抉る。表情はだいぶやつれていた。
「今日は、ここで終わりだ」
「わかりました」
身に着けた電子機器を取って、優香姉さんは立ち上がった。けれど、一歩踏み出したところでふらっと、揺れた。
「ねえさん!」
それを、同じく起き上がっていた小さな俺が抱き留めていた。
「紅、ありがとね」
「ねえさん、無理しちゃダメだって、言ったじゃん」
「いやいや、まだ大丈夫だって。ずっと座ってたからすぐには歩けなかっただけよ。ほら、もう歩ける」
たしかに、優香姉さんはもう普通に立っていた。とくに、危なっかしげな部分はない。
「まったく、人騒がせなんだからさ」
小さな俺も、その様子を見て笑った。無理をしているとしか言えない笑みで。
「優香、紅だけじゃなく、俺たちも心配してるんだぞ。最近、すこしやりすぎじゃあないか?」
そういったのは、あの男だった。暁研究所所長、結城正博。俺たちを生んだ、地球上に存在たらしめた、この研究所のトップ。
「いえ、大丈夫ですよ」
優香姉さんは笑っていた。でも、それが強がりで、仮面であることはすぐにわかる。
「それじゃ、紅。行きましょう」
優香姉さんは歩いて行った。後ろに、小さな俺がついて行った。後ろをついて行ったのが研究員じゃなくて俺だったというは、これが日常化していたというのは、所長である結城の考えに基づくものだったのだろう。
――俺を、優香姉さんを、安心させようという
当然それは、実験データを取りやすくするという事にもつながるのだから。
こんどは、視界は暗くならなかった。ただ、二人の後ろを追いかけていた。
そして、優香姉さんの部屋についた。
二人で、またベットの上で横に座っていた。
「紅……私ね……」
「うん」
「もう、だめかもしれない」
「なにが?」
「もう、死んじゃうかもしれない」
小さな僕は、はっとした。そして、急いで口を開いた。
「やめてよ。そんなわけないじゃん。だって、姉さんは僕よりもずっと強いんだよ。すごい魔法師なんだもん」
「そうね。だけど、そんなことは関係ない。私は作られた人間だから」
「そんなこと、言わないでよ」
「さすがにわかるわよ。私たちの存在自体に問題があるの。だから、これは寿命。悪いのは研究所じゃない。でもね、もし私がいなくなったとしても、どうか、生きて。絶対に、自分から死ぬようなまねはしないでね」
そこには、悲しい響きがあった。
「これは、約束よ?」
優香姉さん自身が、もう死んでしまうというような。けど、だからこそ、小さな俺は、こう答えるしかなかった。
「わかった。絶対に、生きる」
と。
「よかった、それじゃあ、もうひとつだけ、言っておきたいことがあるんだけど、聞いてくれる?」
「うん」
「それはね……私が、紅のことが好きだってこと。大好きだってこと」
「それって……」
「うん。告白に、なっちゃうのかな?」
優香姉さんは笑っていた。ささやかな、笑みだった。
「ぼ、僕も、姉さんのこと好きだよ!!大好きだよ!!」
「ありがとね」
俯いた。今度は打って変って、絞り出すような声だった。
「ずっとね、みんなを守ってあげなきゃって思ってたんだよ。みんな、私の妹で、弟だったから。けどね、やっぱりだめだったの。みんな、みんな――――」
「…………」
「みんな死んでいっちゃった。わたしが。私が守ってあげなくちゃいけなかったったのに」
悲痛だった。優香姉さんが自分で自分に課していたことを知っていたから。ひとり。ひとりといなくなっていくときに、どれだけ悲しんでいたのか。苦しんでいたのかを覚えていたから。
「だって、だって。…………わたし、お姉ちゃんだから」
滴が、零れ落ちた。真っ白な頬を伝って、膝の上でギュッと握りしめた両手の上に。今までずっと我慢してきたこと。絶対に吐き出したくなかった、自分が抱えてきたもの。耐えて、耐えて、堰き止めてきたものが、ついにあふれ出した。それは、止まることを知らず、一つ、また一つ零れ落ちていく。
「でもね、紅がいてくれたから。甘えんぼさんで、いつも私と一緒にいてくれたから。こんな私を頼ってくれたから。頑張ってこれたんだよ」
「姉さん」
涙を拭った、真っ赤になった顔を、必死になって幸せで染め上げた。ぎこちないけれど、嘘でも、強がりでも、何でもない。きっとその時にできた、最高の笑顔だった。
「だからね、紅、大好きだよ。これまでも、これからも、永遠に」
――――そこで、真っ暗になった。