第1話
「皆さん、お早うございます。今日も神樹の祝福に感謝の祈りを捧げましょう。今日もまた、この街に平和があらん事を…」
早朝。聖堂には涼やかで澄み切った空気が包み込む。
そんな厳かな雰囲気が辺りを支配する中、ミトネの可憐な声が響き渡った。
聖堂では毎朝祈りを捧げるのが定例となっており、そこにはすでに大勢のシスターや司祭が集まって祈りを捧げていた。
そして、その中央には聖女であるミトネの姿。
暫くシンと静まり返った空間と、そこで一心不乱に祈りを捧げる人々の姿があるばかり。
一定の時間が経った後、ゆっくりと瞼を開いたミトネが一同へ微笑みかける。
「…さぁ、今日も頑張りましょう。わたくしはこの辺で失礼しますわね」
ミトネは一同に朗らかな微笑みを浮かべながら深々と一礼すれば、その場を立ち去ろうとする。
廊下へ差し掛かった時、不意に背後から声を掛けられた。
「…聖女様」
「……? あら…貴方は確か、ジニーク司祭でしたわね。お早うございます」
ミトネが振り返った先には、ピーコックグリーンの絹糸のような繊細な髪が特徴的な、中性的な雰囲気を纏った1人の男性の姿が映り込む。
彼の着ているローブからも、彼がこの聖堂に仕える司祭である事を示唆していた。
互いに軽く会釈をすると、ジニークはミトネにこう切り出す。
「朝のお祈りは済んだようですね。いつも聖女様にも参加して頂いて、感謝しております。聖女様がいらっしゃった方が、皆もやる気が出ますから」
「いえ、このくらい聖女の務めとしては当然の事ですわ。これがわたくしの責務ですもの」
──ったく、朝っぱらから祈りとか怠いに決まってんだろうがこっちは昨夜男と遊んでたせいで眠いんだよ!
…とミトネは心の中で悪態をつきつつも、決して相手に悟られないように努めて笑顔で振舞う。
そんなミトネの内心には全く気付かないようで、ジニークも穏やかな微笑みを浮かべた。
「それより、そちらも朝早くからお疲れ様ですわ。枢機卿の元にはもういらしたんですの?」
「ええ…枢機卿殿から今日一日の予定と指示は受けております」
「貴方も大変ですわね、枢機卿に仕えるにも苦労も多い事でしょう?」
「いえ、そんな…聖女様に比べたらこのくらい大した事は無いですよ。聖女様は教会だけでなく…この街の希望そのものなのですから。貴方にはずっと、聖女様であり続けて欲しいのですよ」
「わたくしが希望? いやですわ、そんなに褒めても何も出ませんわよ?」
ミトネは照れ臭そうにはにかむものの、その仮面の裏には憂いを秘めた本当の顔が隠されていて。
勝手に周りが祀り上げているだけで、自分はそんなものにはなりたくなかった。
自分はそんなんじゃない、周りが見ているのは都合の良い“聖女”という偶像だけ。
そんな思いをぶちまけられたらどんなにか楽な事だろう。
しかし、それは彼女には許されていない。
それをミトネ自身痛い程分かっているからこそ、そんな本当の顔を必死に胸の奥に押し込めて聖女を演じ続ける。街の人々が聖女という偶像を求め続ける限り。
「聖女様の人気は素晴らしいですよ。それも聖女様の日々の務めがあってこそ…」
「……あら、ソルじゃありませんの。お早うございます」
ジニークの言葉を遮るように声を発したミトネの視線の先には、たまたま廊下を通りがかったソルマの姿。
一方、ソルマといえばミトネとジニークの顔を交互に見遣ると、ぶっきらぼうに小さく会釈をするだけ。
「…ん? あぁ…おはよう。何だ、あの王子の所にでも居るのかと思ったが」
「こんな朝早くには行きませんわよ。……あら、もしかしてヤキモチ妬いてるんですの?」
「なっ…!? 何で俺がヤキモチなんか妬かなきゃいけないんだ」
「あら、そうかしら? ロゼルタ王子がこの街に滞在してから随分気にしてらっしゃるように見えましたわよ?」
「まさか…気のせいだろ。そういえばこの後何処か行くのか?」
「そうですわね…朝食の時間までまだありますし、少し近くを散歩しようかと思っていますわ」
「そうか…俺もちょっと外の空気でも吸おうと思ってたし、どうせだから一緒に行くか」
「あら、そうなんですの? わたくしも構いませんわよ。それでは、ジニーク司祭…失礼しますわね」
ジニークが居る手前、どちらも本当の顔を出す事は無かったが、それでも幼馴染という長い付き合いの為かその会話はやけにスムーズなもので。
何だかんだでこれから一緒に外に向かう事にしたようで、廊下を立ち去ろうとする前にふと何か気づいたらしいミトネがジニークへと向き直ってぺこりとお辞儀をしてみせた。
その場に残されたジニークはただただ遠ざかる2人の背中を見送るばかり。
彼の顔つきはまるで能面のように無表情で、それが逆に不気味にも思えた。
「…そう、聖女という絶対的な存在はこの街に居なくてはならないのですよ…。聖女という肩書さえあれば、別に貴方でなくても構わないのですがね…」
ジニークの口から放たれた言葉は、誰に聞こえるでもなく冷え切った廊下に溶けていった。