白い腕
泡立つ海面。
そこからゆっくりと白い腕を伸ばして。
つかまえるのは――。
喉の奥から引き攣った音を発しながら、男は目覚めた。
あの事件から繰り返し見る夢。
「許してくれよ…」
当時男には恋人がいた。
彼女は普段から、些細なことで機嫌を損ねてヒステリックになりがちで、最近は男の方もそれに付き合うのに疲れを感じていた。
その日、ドライブの途中に寄ったのはちょっとした観光名所になっている、海に突き出した崖。
気持ち程度に整えられた遊歩道は彼女の靴では歩きにくく、そこからまた機嫌が悪くなり喧嘩が始まっていた。
彼女はそうなると、すぐ私のことなんてどうでもいいんでしょうだの、死んでやるだの言い出して泣いたり叫んだりするので、それをなだめるのもいい加減うんざりしていた。
本当に、たまたまだったのだ。
彼も前日仕事のミスで上司にしこたま怒られて、精神状態は最悪だった。
彼女のヒステリーを受け流せる余裕がなかったのだ。
だから、言ってしまった。
「なら死ねば?どうせ死ぬ気なんかないくせに」
激昂した彼女はもはや何を言ってるのか聞き取れなかったが、崖の先端の方に歩いて行った。
さすがにまずいんじゃ?と思って手を伸ばした時。
彼女はよろけて海へ落ちた。
警察やら救急やら駆けつけて捜索した結果、崖から少し離れた水中に沈んでいる彼女が発見された。
男も事情聴取はされたが、彼女が落ちた時現場には他にも人がいて、喧嘩して彼女が一人で歩いて行って落ちたことが証言され、事故として処理された。
「あれは事故だったんだ」
言い聞かせるように呟いて頭を抱える。
そう、事故だった。
だからといって平気な顔で、日常に戻れるはずもなく。
あれから繰り返し見る夢は、罪悪感からなのかアイツが見せているのか、男にはわからなかった。
(たとえ事故だとしても、忘れることは許さない。)
恋人が死んだからといって引き込もれるはずもなく、男はいつも通りに会社に向かう。
週末は、今までは彼女に連れ回されていたが、今はほぼ家で過ごしている。
(会社と家を往復するだけのつまらない毎日。)
(これといった趣味もない、つまらない男。)
繰り返される悪夢で、ここのところすっかり眠りが浅くなった男がうとうとしていると、遠くに波の音が聞こえた。
夢の中でまた海岸に立ち、男はその場から逃げようとした。
波の音は追いかけてくる。
岩に当たって砕ける音。
逃げろ、振り向くな。
くわっと目を見開いた。
いつもの、自分の寝室だった。
ああ、夢だった、と安堵する男の鼻に、突然磯の香りがした。
するはずのない潮の匂い。
ベッドの上に飛び起きて、辺りを見回す。
何もない。
キョロキョロと見渡すうち、潮の匂いは消えていた。
カーテンの隙間からは、外の街灯の灯りがほんのり差し込んでいるだけだった。
だがそれから、時折磯の臭いが鼻をつくようになった。
もちろん部屋には海に関係するものなど何もない。
眠りもますますひどくなってきて、事情を知る同僚に、受診を勧められて診察も受けた。
事故による精神的なストレスだかなんだか診察を受け、薬と睡眠薬も出された。
(事故のストレスなんて笑える。)
(そうじゃないことはよくわかっているくせに。)
薬を飲めばとりあえず眠れた。
しかし悪夢までは消せない。
その夜は、風呂に湯を張りつかっていた。
緊張でこりかたまった身体が、わずかだが楽になる気がした。
「はぁ〜」
深く息を吐いて目を閉じた。
そのままゆっくりと深呼吸を繰り返して。
ちゃぷん
反射的に目を開けると、目の前に女の手が迫っていた。
「うわぁあああああッ」
叫びながら立ち上がろうともがいて、浴槽の外に飛び出した。
そのまま浴室の外にまで逃げ、ポタポタと身体から雫を滴らせながら荒い息を繰り返す。
ようやくほんの少しだけ落ち着いて、恐る恐る浴室を覗いてみた。
ただ透明な湯が波打っているだけだった。
アレは見間違いなんかじゃない。
男は思った。
アイツが、俺を連れて行こうとしている。
一人で大人しく死ぬような女じゃなかった。
このまま怯えているだけじゃ、俺はアイツに捕まってしまう。
お祓いをしなければ。
それから信頼のおける友人に事情を話して――。
『死んだ彼女がどうも成仏できずに、俺の周りにいるような気がする』というようなことにして。
それから人づてに、霊能力者という人を紹介してもらい、男はその人に会いに行った。
県外まで車を走らせて、友達に付き添ってもらって、そこまで行った。
どこにでもいそうな中年女性といった風貌の人だったが、男を見るなり眉をひそめた。
そして男が事故のこと、その後の怪異のことを話すと、霊能力者はさも当然と言わんばかりの様子で話し始めた。
「とても念の強い女性が、あなたにしがみついています。これから除霊を試みますが、一度では無理かもしれません」
その後除霊を受けた。
お経のようなものを唱えながら、女性は何かで男の頭や背中をトントン叩いて回っていた。
唱え始めてすぐは、男の身体にはぎゅううっと締め付けるような圧迫感があった。
それが、終わる頃にはふっと軽くなっていた。
「除霊で、一旦女性は引き離しました。しかし、とても未練が強いので、一回で完全に引き離すのは無理でした」
除霊が何回か必要だと言われたが、それでアイツが離れるなら、拒否するはずはなかった。
帰り道、助手席で友達が遠慮がちに話し始めた。
「お前の彼女、結構激しい人だったけど、死んでからもすごいな…」
周りから見ても、そうだったんだな、と改めて思わされた。
なおさら、感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはないじゃないか。
生前あれだけ俺を振り回しておいて、死んでも許してくれないのか。
男は恐怖より腹ただしさを感じ始めていた。
それも、今日の除霊で女が離れたおかげなのかもしれない。
除霊は確かに効果があったようで、悪夢も磯の臭いからも離れて、久しぶりにまともな日常を過ごしている気がした。
しかしそうなると、一度では無理だと言われたのが恐ろしく感じられた。
それほどの悪霊なのか、彼女は。
平穏はひと月と保たなかった。
目が覚めると部屋中に立ち込める磯の香り。
ビショビショの床。
男は取り乱して霊能力者に連絡を取り、無理を言ってその日のうちに向かうことにした。
一人で車を運転して、目的地へ向かう。
その途中で雨がぱらついて来たと思ったら、あっという間に数メートル先も見えない土砂降りになった。
慣れぬ道で怖いので一旦路肩に停め、雨が通り過ぎるのを待つことにした。
ところが雨で、道脇の用水路が増水し溢れて道路が冠水し始めた。
仕方なく発進させてその場を抜けようとしたとき、助手席に彼女が座っていた。
「うわぁあああああ!」
運転席のドアを開け、雨と泥水の中へ転がり出た。
男はもう正気ではなかった。
車から離れようと、水たまりの中を走って、そして、落ちた。
男は用水路から海まで流されて、遺体で発見された。
警察は事故として処理したが、なぜ雨の中車から降りたのか、目撃者もなく分からないままだった。
(これでもうふたりはずっと一緒。)
(ねぇ、あなた。)




