後編
父との一件は、驚くほど事務的に終わった。ぼくは母さんと妹が暮らすアパートに移り、近所の書店でアルバイトを始めた。
紙の本の匂いに囲まれる日常は、皮肉なほど穏やかだった。
ぼくが作り出したあの悪意に満ちたブログは、裁判の開始と共に閉鎖し、その存在はネットの奔流の中に消えたはずだった。
そう、思っていた。
ある日の深夜、アルバイトを終えて自室のベッドに寝転がり、何気なくスマートフォンを眺めていた時のことだ。海外のテック系ニュースサイトの片隅に、奇妙な単語を見つけたのだ。『Zeus's Hand』『Red Bean Bun Geezer』『Sister Poppo』
見間違えようのない、あの名前。ぼくが、あの狂ったブログのためにでっち上げた、架空のライターたちの英語名だった。
胸がざわついた。
ぼくはベッドから跳ね起き、ノートパソコンを開いた。検索窓に打ち込むと、現れたのは、ぼくが作ったサイトの粗雑なコピーだった。
それだけではない。リンクを辿っていくと、同様のサイトが、まるで悪性の細胞分裂のように、様々な言語で増殖しているのが見つかった。
タイ語、ベトナム語、スペイン語、ロシア語……。ぼくが父から逃れるために編み出した、他人の記事をAIで翻案し、扇動的なペルソナを被せて廉価で売りさばくというビジネスモデル。その手法そのものが、国境を越えてコピーされていたのだ。
それは、ぼくが愛した文学とは似ても似つかぬ、『新しい文学』のグロテスクな世界展開だった。心がざわつくのを感じながら、ぼくはその動向をしばらく追い続けることにした。
多くの模倣サイトは、金儲けという露骨な目的で立ち上げられ、そして数ヶ月も経たずに更新が途絶えていた。
マーケットで生き残るには、支持されるだけの「正しさ」が必要だ。その国の文化的な土壌に、ぼくの作った悪意の種子が根付くとは限らなかった。
皮肉なことに、女性の権利がもともと低いとされる国々では、このビジネスはほとんど流行らなかった。
考えてみれば当然だ。奢り奢られ論だの、女性専用車両だのといったテーマは、男女がある程度対等な社会で競い合っているからこそ燃え上がる火種なのだ。
そもそも異性と対等に渡り合うという土俵が存在しない場所では、そんな議論は響かないのだろう。彼らにとっては、ぼくの記事は魅力的な夢《仮想現実》にすらなり得なかった。
一方で、ある特定の国々では、ぼくの模倣サイトは熱狂的な支持を集めた。
韓国では「十放世代」と呼ばれる、恋愛も結婚も就職も諦めた若者たちが、そのはけ口を求めるように記事を貪り読んだ。
そして、最も爆発的な広がりを見せたのが、中国だった。過酷な競争社会に疲れ果て、最低限の労働で無気力に生きることを選んだ「寝そべり族」と呼ばれる若者たちの間で、ゼウスハンドたちの言葉は、まるで預言のように受け入れられたのだ。
彼らにとって、それは単なる異性の悪口ではなかった。自分たちの満たされない現状、努力しても報われない社会構造、その全ての原因を「女」というわかりやすい敵に押し付け、溜飲を下げるための安価な鎮痛剤だった。
ぼくが父という一個人のために調合した毒は、より巨大なシステムへの不満を抱える何百万もの魂を侵し始めた。
ソーシャルゲームがそうであるように、熱狂は加熱し、やがて制御不能な領域へと突入する。
中国のSNSでは、模倣ブログの記事を根拠にした過激な言説が飛び交い、現実世界でのトラブルも頻発したらしい。そうなれば、国家が黙っているはずがなかった。
ある朝、国際ニュースをチェックしていたぼくの目に、信じられない見出しが飛び込んできた。
『社会秩序を乱す扇動の疑い 中国当局、悪質ブロガーを逮捕』
記事を開くと、そこには手錠をかけられ、うなだれて連行される若い男の写真があった。彼が運営していたのは、ぼくのブログの最も忠実なコピーサイトだった。
記事を読み進めていく。そして、ぼくは最後の数行で凍りついた。
『……容疑者は取り調べに対し、「日本の有名なブログを参考にしただけだ。自分はオリジナルの作者ではない」などと供述している模様。当局は、国外のオリジナルサイトについても調査を進める方針……』
国際的な、恥だった。
ぼくが、父というたった一人を繭から引きずり出すためだけに仕掛けた、個人的な戦争。
そのために生み出した醜悪なコピー品が、海を渡り、見知らぬ国の若者の人生を破滅させ、そして今、国家間の問題にまで発展しようとしている。
父のクレジットカードで契約したサーバー。父の口座に振り込まれた僅かな収益。それらは全て、父を被告席に座らせるための舞台装置だったはずだ。
だが、その舞台の上で演じられた滑稽な茶番劇は、いつの間にか世界中へと広がり、無数の観客が真に受けてしまった。
ぼくはパソコンを閉じた。
隣の部屋からは、母さんと妹の楽しそうな話し声が聞こえてくる。穏やかで、守られるべき日常。ぼくがこの手で勝ち取った、平穏。
手錠をかけられ、うなだれる見知らぬ中国人の若者の姿が脳裏をよぎった。
ぼくが父という個人のために調合した毒は、彼を捕らえ、その人生を破壊した。
その予想もできなかった結果が、胸をざわつかせる。
罪悪感がないわけじゃない……でも制御できない事態への恐怖が勝った。
ぼくは、きっと大丈夫。
多分大丈夫……きっと無傷でいられる。
父は……どうでもいいか。
捜査が来ても、すでに判決は出ている。
……毒の源流は?
父を蝕み、母さんを家から追いやり、ぼくたちの家族を壊したあのブロガーたちは、今も安穏とキーボードを叩いている。
ふつふつと、腹の底から何かがせり上がってくる。それは胸に残る罪悪感を押しのける、もっと黒く、熱い感情だった。
――このままでは、終わらせない。
これは馬鹿げた行いだ。危険を冒してまでやることじゃない。頭の片隅で冷静な自分が警告を発する。だが、もう手は止まらなかった。
ノートパソコンを、再び開く。かつてのサイト管理メニューにログインする。
ぼくは記事の新規作成ボタンを押す。
ぼくの手が、取り憑かれたようにキーボードの上で踊る。
タイトル:【重要なお知らせ】当ブログの運営に関するお詫びとご報告
本文:
かつて当ブログをご愛読いただいておりました皆様、ならびに関係各位へ。
管理人の〇〇と申します。
長らく沈黙しておりましたが、皆様に報告すべき重大な事実がございます。
当ブログで「ゼウスハンド」「あんまんジジイ」「シスターポッポ」の名で発表されてきた全記事は、実在しない架空のライターによるものであり、その全ては私一人が作成・投稿しておりました。
さらに、これらの記事の内容は、私の独創によるものではなく、日本国内で著名な以下の三名のライターの方々が発表された著作物を、私が無断で翻案・剽窃したものであることを告白いたします。
・「ゼウスハンド」の記事 → ゴッドハンド氏 の著作物
・「あんまんジジイ」の記事 → 肉まん小僧氏 の著作物
・「シスターポッポ」の記事 → ポッポちゃん氏 の著作物
私のこの行為は、著作権法及び不正競争防止法に抵触するものであり、上記三氏より訴訟を提起されました。裁判の結果、当然のことながら私は敗訴いたしました。(裁判番号:××⚪︎⚪︎⚪︎)
ゴッドハンド氏、肉まん小僧氏、ポッポちゃん氏に、私の浅はかで悪質な行為が多大なるご迷惑と損害を与えましたことを、心より深くお詫び申し上げます。誠に申し訳ございませんでした。
また、当ブログを信頼し、有料購読してくださった読者の皆様を欺く結果となりましたこと、重ねてお詫び申し上げます。
近年、当ブログの手法を模倣したウェブサイトが国内外で散見されるとの報告を受けております。
それらのサイトで発信される情報、及びそれによって生じた如何なる事態も、私及び上記の三氏とは一切関係がございません。
令和〇年〇月〇日 管理人 〇〇
投稿ボタンの上にマウスカーソルを置き、ぼくは息を詰めた。
おそらくこの謝罪記事を書かなかったとしても中国当局は彼らに辿り着き、非公式であっても日本政府へ問い合わせるだろう。だが、いかに中国共産党とは言え、他国のブロガーにいきなり何かするようなことはないはずだ。普通に推移すれば内々でお叱りがあって終わり、という程度……。
だがこの記事を世に出せば、一連の事件と彼らを繋ぐ線が誰の目にも明らかになる。インターネットには人の失敗が好きな連中だらけだ。謝罪記事は勝手に広まってくれるだろう。広まってしまえば、父を破滅させた裁判記録が、彼らがネタ元であることの動かしがたい証拠にもなる。
ゴッドハンド、肉まん小僧、ポッポちゃん。
彼らはただのネットの有名人から、「国際問題の火種」へと変わる。彼らが撒き散らしてきた悪意と同じくらい、あるいはそれ以上の巨大な悪意の視線に、今度は彼らが晒される番だ。
父を狂わせた仮想現実の元凶に、一矢報いることができる。いや、これは報復ですらない。ぼくが世界に解き放ってしまったプログラムの、最後の仕上げなのだ。
時間がゆっくりと粘度を持って停滞し、吸い込む空気がまるで固体のように喉を通る。
ぼくの指が、投稿ボタンを押した。
了




