序章:たぬきが玉座に座ったのなら
襖が開き、風が紙を軽くめくった。香の匂いを纏って現れたのは、長い黒髪が美しい女性。そのまなざしは、誰よりも静かで、誰よりも鋭かった。
「おや、こちらにエミさんがいらっしゃると聞いて来てみれば、しずくさんが読み物をしていると言うのは珍しいですわね」
しずくと似た髪と目の色をした女性、ナミネだ。今年で20歳になる彼女は、現在エミの家庭教師をしている。2年前から師匠共々お世話になっており、しずく自身、こんな人になりたいと、師匠の次に憧れてしまう人物だ。
「冒険者でしょう? 依頼を探しに行かなくてもよろしいのですか?」
ナミネは部屋に入ってきてエミの前、しずくの隣の座布団に座りながら訊いてきた。
静かに香を置き、膝を折って座る仕草まで淀みがなかった。
「実は……」
「しずくちゃん今日ね、大内裏に呼ばれてたんだよ!」
しずくが言葉を探そうとしている間にエミが言った。
「大内裏に? なぜ?」
ナミネの目の色が変わったのをしずくは見た。
彼女は、わけあって今はやめてしまっているのだが、若くしてセキヤミと同じ等級の官僚にまで上り詰めていた正真正銘のエリートだ。また戦闘能力でもしずくに匹敵する。
そんな経歴もあり、政府からの呼び出しがあったとなると少し気になるのだろう。
「代理天皇の皆様方からの依頼でして……」
「あのたぬき共からのですか。どうせロクでもないものなのでしょうけど。……はあ、嫌ですわね。たぬきが玉座に座れば、国ごと森に迷い込むようなものですわ」
そう言いながら、ナミネの目だけは真剣だった。
「必要であれば、なんでもご相談くださいね。既に官僚を退いた身ではありますが、できる限りのお力にはなりますから」
彼女の言葉には、まだ官僚だった時期の重さがあった。
「その時は、ぜひ頼りにさせていただくでござるよ」
(聡いお方でござるし。おそらく様々な状況から、拙者が呼ばれた理由を察しているでござろう。エミ殿には伝えたくないと思うのは拙者同様か……)
やはり頼りになる方だ。そう思いながら、しずくは資料を閉じた。
外では、夜の虫の声がもう聞こえ始めていた。
その音に紛れるように、エミがぽつりと呟いた。
「夜は、嫌だなぁ……」
襖の隙間から入る風が、灯りをわずかに揺らした。
しずくは、エミの横顔に影が落ちたのを見た気がした。




