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序章:笑みのある日常

 ガラガラ、と横開きの扉を開けると、夕陽の赤が廊下の板張りを照らした。

 油の匂いと味噌汁の香りが混ざり、どこか懐かしい夕餉の気配が漂っていた。遠くの中庭のししおどしがコーンと鳴る。

 ロビーは時計の揺れる音と、ラジオのかすかな声で満たされていた。


「あ! しずくちゃん! おかえり!」


 たまたま玄関にいたその宿の看板娘、渡田エミがこちらに駆け寄ってきた。

 エミの太陽のような笑顔をみて、自然としずくの肩の力が抜けた。


「ただいま。寺子屋はもう終わったのでござるか?」

「今日はお休みの日だよ。この後ナミネさんが来るけど」

「そうでござったか」


 草履を脱いで下駄箱に入れながらそんな会話をした。


「それで、どうだった? 政府の依頼って」

「……」

「しずくちゃん?」

「師匠が残して行ってしまった問題を拙者が引き受けることになっただけでござるよ。そう大変なものでもない」

「そうなんだ。でも大切な仕事なんでしょ? 頑張ってね」

「うむ」


 ……わざとその依頼内容に触れることを避けた。もちろん機密保持のためもあるが、他にも理由がある。

 赤いまつり事変の前に起きていた、前回の連続した子どもの失踪事件。その犯行グループたるジンマ教団の殲滅に繋がった、たった1人の生き残り、それがエミだ。

 しずくの師匠によって助け出されたのだが、拷問にも似たひどい仕打ちを受けていたようだ。救出にしずくが立ち会うことはなかったものの、その時の様子は見るに堪えなかったと聞いている。

 実際、救出され家に戻ってきた直後のエミは、以前の明るさが一切なくなっていた。物音ひとつに怯え、食事もほとんど喉を通らなかった。

 それでも女将さん、師匠、そしてしずくの支えで、少しずつ外に出られるようになった。

 あの頃のエミの姿は、今もふとした瞬間に脳裏をよぎる。思い出すとしずくは、胸の奥がわずかに締めつけられるのを感じる。

 今ではようやく、あの太陽のような笑顔を取り戻しつつある。そんなエミのトラウマを掘り返すようなことはしたくなかったのだ。


「これからどうするの?」

「部屋に戻って、今回の任務に必要な資料を確認するでござるよ」


 抱えていた資料の束を指しながら言った。


「そっか……。ねえ! ナミネさんが来るまでの間、宿題一緒にやってもいい?」

「もちろん」

「やった!じゃあ取ってくるね!」


 言うなり、エミはタタタタッと廊下を駆けていった。

 外では風鈴が揺れていた。そろそろ夏が来るなと思った。

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