43.変わるために
バムアと名付けた国を興した男は、自分の手元に残った唯一の女神の形見――神の力を媒介する役目を果たす『ラピスラズリの杯』を一人の功臣に授けた。
男は功臣に告げた。
「私は彼女のいない世界で生きることに疲れた。しかし、この命は尽きることができないのだ」
「主君よ、この杯を使って私が願いを叶えて差し上げましょう」
「お前にはできない。その杯の力は、命を対価として求めるのだ」
「主君よ、この命はあなた様に何度も戦地で救っていただきました。ですから、惜しくはありません」
功臣は、命を賭して自らの血を杯へと満たした。
そして、心から祈り願った。
「主君に永遠の眠りを与えたまえ」
そうして、バムアを興した男は永遠の眠りにつき、同じく功臣も命が尽きた。
天よりその光景を見下ろしていた神は、功臣の清らかな心に心を動かされ、『ラピスラズリの杯』の力を功臣の子孫に与えた。
『杯の偉大なる力を使う時――対価として自らの血をもって杯に命を捧げ、その力は愛する者のために捧げよ』
こうして神は、『ラピスラズリの杯』が正しく使われることをお望みになった――。
「これが、ドット公爵様からお聞きした内容ですわ」
私が話し終わっても、しばらくは誰も口を開かなかった。
「驚いた、『ラピスラズリの杯』とはっきり記されているとは……。ふむ、わが家の『蒼杯秘録』は偽物ではなく、帝国図書館の『蒼杯秘録』は後から書き足されたものではないかな?」
アベル様の言葉を受け、ルディ様が探るような声音で言葉を継いだ。
「神話から読み解くと、サレット侯爵家の家宝『ラピスラズリの杯』のことのようですね。宰相は何もご存じなかったのですか? サレット家の当主であれば知っていてもおかしくはないと思うのですが……」
「ハハハッ、ルディ卿は随分とロマンチストなようだな。サレット家の家宝にそのような力はない。この状況では無理にでも結び付けたくなるだろうが、所詮は神話だ」
お父様は、ありえないとでもいうように強い口調で答えた。
「そうですわね、お父様。ですが、現にドット公爵様は、女神に愛された男のように不老不死のような不思議な力を得ていますわ。『蒼杯秘録』をお読みになった陛下は、『ラピスラズリの杯』を思い浮かべたでしょうね」
私が言い終えるのを待って、ロベル様が悔しそうな表情でアベル様に言った。
「功臣の子孫……つまり、杯を発動できるのはサレット家の血だけ、……。なるほど、アベル卿が突然ユージェニー嬢と縁を結んだのもそれが目当てですか? 忠誠を誓った陛下にとっては、あなたも使い捨ての駒だというのに……」
「なんだと? ロベル、もう一度、言ってみろ!」
またもや一触即発の雰囲気に、とうとう私の我慢も限界にきた。
私はアベル様の腕にそっと手を添えると、ロベル様を鋭く見据えた。
「ロベル様、ご自分の立場をお分かりかしら? あなたは、客人ではないの。私たちは、あなたを罪人として捕らえているのよ」
「私が協力すれば、追放で見逃してくれると宰相は仰っていましたよ」
「それは、私の居場所と引き換えにした取引ですわ」
「アベル様より私の方が、陛下に信頼されていると思いますよ。私を利用する手はないでしょう。そうは思いませんか?」
ロベル様は大げさに手を広げ、鼻であしらうように不敵な笑みを浮かべた。
(本当に……自分の醜い姿を隠そうともしないのね。私は、危うく過去と同じ過ちを犯すところだったわ。アベル様を引き合わせてくれたお父様に感謝しなくちゃ)
場の空気を変えるように、お父様がパンッと手を叩いた。
「そこまでだ! ロベル卿、君の処遇は保留だ。ダン、ユージェニーを寝室へ。もう休ませてやりたい」
「それなら、僕が行きましょう。ユージェニー……お義父様の言う通り、今日はもう休んで」
アベル様が、私だけに向けるあの柔らかな微笑みを浮かべた。
温かいココアを口にした時のように、張りつめていた心がふわっとほどけていく。
私はそのまま素直に頷いた。
◇
「ああ……わが家が一番だわ」
仰向けのままベッドに倒れ込むと、アベル様も静かに私の隣に横たわった。
「ユージェニー」
心地よい声に誘われて顔を横に向けると、アベル様がじっとこちらを見つめている。
アベル様の澄んだサマーグリーンの瞳と目が合うと、急に後ろめたいような気がして慌てて顔を戻した。
「どうして、僕を見てくれないんだ? 守れなかったことを怒っているなら、僕を許さないでくれ」
「どうしてそんな! アベル様のせいじゃありませんわ」
くるりとアベル様の方へ体を傾けた。
「あっ……」
さっきよりアベル様との距離が近い。
「それじゃ、ドット公爵と何かあったのかな……」
先ほどの強い眼差しとは違い、アベル様の瞳はどこか不安げに揺れていた。
(私ったら、この方を不安にさせてはいけないのに。回帰のことを話したらどうなるかしら?)
言葉に詰まった私を気遣うように、アベル様の手がそっと頭に触れた。
「すまない。君を休ませるべきなのに……つまらないことを口にしてしまった。さぁ、目を閉じて。ゆっくり眠ろう」
「あの……アベル様。すべての根源は、わが家の『ラピスラズリの杯』だと思うのです。『蒼杯秘録』は、その力を伝えるための書……本来なら、人の目に触れてはならなかった」
「ユージェニー、目を閉じて」
「いいえ、アベル様。どうか、私の話を聞いてください。ドット公爵様が魔物と化したのも、私のせいかもしれません。私が杯の力を使ったから――」
「杯の力を使った……?」
長い一日を物語るように、窓の外は夕暮れに染まっていた。
昨日から続いた混乱と緊張で、互いに体の芯まで疲れ切っている。
でも、アベル様は私の言葉の続きを待つように黙っていた。
ふと、アベル様が何かを悟ったように目を細めた。
「ユージェニー……その話は、きちんと聞きたい」
低く落ち着いた声。
「でも……今日一日、君は何も口にしていない。お腹が満たされれば、少しは辛い記憶を話すのも楽になる……だろう?」
アベル様は軽くウィンクをすると侍女を呼び、努めて明るい声で軽食を運ぶよう命じた。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけゆるんだ気がした。
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