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39.さらわれた私

 私はアベル様に言われた通り、出口へ向かって走り出したのだけれど……逃げ惑う人々の中にロベル様の姿が見えた。


 ロベル様が壁の一部を慣れた手つきで押すと、押戸のように人ひとり通れるほどの隙間が開き、ロベル様は迷いなくその中へ身を滑り込ませた。


 咄嗟に私も後を追い、壁の隙間をすり抜けた。


 すると、まるで待ち伏せしていたかのように、ロベル様がそこに立っていた。

 

 「やはり、あなたでしたか……」


 手を伸ばしたロベル様は、そっと私のマスクを取った。


 「あの、これには……。う、嘘でしょ……ロ、ロベル様……う、うしろ……!」


 ロベル様の肩越しに、爛々と赤く光る目が浮かび上がる。


 その異様な光に息を呑み、私は震える声をなんとか絞り出した。


 「はい、分かっていますよ。卑しい魔物が私を狙っているのでしょう?」


 ロベル様は落ち着き払った声でそう言うと、振り向きざまに剣を抜きつつ身を横へ翻した。


 閃いた刃が魔物を捉え、肉片と血が宙を舞う。


 ドサッ――。


 切り落とされた魔物の前脚が、私の足元に転がってきた。

 


 ――きゃーっ。


 (どうして、こんなことになってしまったの?)



 「ハッ、ぞっとするほど醜いな。ユージェニー嬢、早く行きましょう」


 ロベル卿が私の手首を掴み、引きずるようにして先へ進もうとしたのだが、傷ついてもなお魔物は私たちの行く手を阻むように立ち塞がった。


 でも、不思議とその瞳に敵意は感じられない。


 「ロベル様、この魔物は……」

 

 私の言葉など無視して、ロベル様は一瞬の迷いもなく、魔物の喉元へ短剣を投げ放った。

 

 刃は一直線に飛び、喉を貫かれた魔物は息を詰まらせたまま崩れ落ちる。

 

 ロベル様は倒れ苦悶する魔物に歩み寄り、喉元の短剣を引き抜くと魔物の心臓を目がけて深々と突き立てた。


 「これでいい。ハハッ、私にもやっとツキが回ってきたようだ」


 「なんて酷いことを……」


 「何をおっしゃっているのです? こいつは、おぞましい魔物ですよ」


 (私の知っているロベル様ではないわ……)


 優しげなのに、どこか狂気を孕んだ表情で微笑むロベル様――私の頭の中で警鐘がうるさいほど鳴り響いた。


 魔物の体からは血が流れ出ているが、もうピクリとも動かない。


 「ロベル様、これがあなたの本性なのですね! 私に近づいたのも、愛を囁いたのも、わが家の権力と財産……爵位が目当てだったのでしょう!」


 「そう言うあなたこそ、結局は私を捨てて政略結婚を選んだではありませんか? まぁ、もうそのことは責めませんよ。今度こそ、私を夫に迎えてくれさえすればね」


 「なにを……ちょっと、いやよ、放して!」


 ロベル様が嫌がる私を抱え、走り出した。


 (このままじゃ、何をされるか分からないわ。隙を見て逃げないと)


 暗闇の中をロベル様は慣れた様子で進んでいく。


 「もうすぐ外に出ますが、叫んでも無駄ですからね。ちょうど夜明けで人一人通りにもいないでしょう」


 (外に出た時が勝負よ。噛みついてでも逃げるんだから!)


 そう心に決めて、神経を集中させていたのだけれど――突然、強い衝撃とともに、地面に体を打ちつけた。


 「痛っ!」


 体を起こすと、ロベル様が大量の血を流して倒れている。


 ロベル様の背中につけられた大きな傷が目に入った。


 (鋭い爪の跡……まさか……)


 暗闇に目を凝らし、恐る恐る大きな影を下から上へ視線をたどった。


 (ああ……生きていたの?)


 恐怖で声もでない私の口から、荒い息遣いだけが吐き出される。


 グルルッ――。


 唸り声を上げながら、先ほどロベル様に絶命させられたはずの魔物が近づいてくる。


 失われた片方の前脚から血が流れていた。


 「い、痛いで……しょう?」


 咄嗟に私は魔物をなだめようと、消え入りそうな小さな声で問いかけた。


 次の瞬間、もう片方の前脚を大きく振りかぶったかと思えば、私に向かって容赦なく振り下ろされた。


 (アベル様……)


 私の意識はそこで途切れてしまった。


 ◇


 アベルは、ルディたちを残して暗闇の中を先へと急いだ。


 (くそっ、いくら夜目が利くといっても思うように進めないな)


 魔物の切り落とされた前脚を目にし、アベルの理性はほとんど消えていた。


 (ユージェニー、どこにいるんだ……。あの切り口は、手練れの者の仕業だ。まさか、ロベルと一緒なのか?)


 様々な憶測が頭をよぎり、アベルの喉元に嫌な感覚が込み上げる。


 どのくらい進んだだろうか、視線の先に思いがけない光景が目に飛び込んできた。


 (まさか、あれはロベル卿か?)


 「ロベル卿! 何があった? ユージェニーはどこだ?」


 アベルは大声で呼びかけながら、冷たくごつごつとした石床に倒れているロベルの上半身を抱き起こし、意識を戻そうと強く揺さぶった。


 「う……ううっ」


 背中からだけでなく小さなうめき声をあげる口からも血が流れ、血生臭い匂いがアベルの鼻を突く。


 「しっかりしろ! ユージェニーはどうした! ……頼む」


 「うっ……ま……魔物……が……か、彼女を……つれ……」


 混濁した様子で薄っすらと目を開け、ロベルが力なく暗闇の先を指した。


 「なんだと! 前脚を切り落とされたというのに、人間をさらった?」


 アベルは、辺境伯領に現れる魔物たちとはどこか違う、と違和感を覚えた。


 (魔物は動物が変異した存在。もっと単純で本能的な行動しかしないはずだ。それなのに、逃げるだけでなく人をさらうなど、まるで人間じゃないか)


 「奴は……ふ、ふつうの……魔物……ではない。ち、知能が……あ……る」


 そこまで言葉を絞り出すと、ロベルの意識は完全に途切れた。


 「この状況はどうなっているんだ? アベル、何が起こったんだ?」


 アベルに追いついたルディとマリーズが、血まみれのロベルを見て状況を呑み込めず動揺している。


 「どうやら、手負いの魔物がユージェニーをさらって逃げたらしい」


 「前脚を切り落とされたんだぞ。それで夫人を連れ去るなんて、おかしいだろ!」

 「そんな! ユージェニー……。どうしたらいいの?」


 「僕はこのままユージェニーの後を追う。ロベルを頼む。大事な証人だ、なんとか命を助けてくれ。今、彼に死なれては困るんだ」


 「後は俺に任せろ。この通路の壁を調べてみたんだが、どうやらいつでも建物を燃やせるようになっているようだ。アベル、気をつけろよ」


 「ああ、分かったよ、ルディ。よろしく頼んだぞ」


 駆け出したアベルの背にルディが叫んだ。


 「アベル! 前脚に刺さっていた剣はドット公爵家の紋章が入っていた!」


 (一体、何がどう絡んでいるんだ? ユージェニーの言っていた通り、あの魔物が人間の変異した姿だとしたら、人をさらう知性があってもおかしくはない)


 頭の中で情報を整理しながら走っていたアベルの前に、突然、小さな木の梯子が現れた。


 素早く梯子を上り、梁の走る石造りの天井にある小さな取っ手を押し上げる。


 煙突のように上へ伸びた円形の石造りの先に、夜空がのぞいていた。


 娼館の入り口の反対側――裏路地に作られた、水の枯れた小さな井戸の中だった。


 アベルはすぐに滑車のロープの強度を確かめ、井戸の側面に足をかけてロープを使ってよじ登り始めた。


 井戸から路地に這い出ると、周囲を素早く見回したが、魔物の姿はすでにどこにもない。

 

 さらに注意深く目を凝らすと、路地に連なる建物の壁に、血に染まった大きな足跡のような痕が上へ向かって続いていた。


 「くそっ、屋根を伝って逃げたのか」


 怒りと悔しさに駆られ、アベルは建物の壁を拳で打ちつけた。


 ◇


 アベル様が後を追ってくれていたとも知らず、魔物にさらわれ気を失った私は――思いもよらない場所で目を覚ました。

 

 「ここは……」

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