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38.混乱

 「なんだって? 夫人、よく聞こえなかった」


 恐ろしい真実へ辿り着く予感――指差した私の手がかすかに震えている。


 (ありえないわ。なのに、あの瞳から救いを求めていると感じてしまうのは、なぜ?)


 アベル様は目を細めて、指差した方をじっと見つめた。


 「ん? あの魔物に何かあるのかい? 見慣れた魔物にしか見えないけどな……」


 「あの瞳から感じませんか?」


 「何を?」


 「怒り、悲しみ……。つまり、感情ですわ」


 「夫人、魔物に感情はない……。もし、夫人の言う通りだとしたら……魔物は……いや、まさか……」


 「あなた、魔物は人が変異した姿ではないでしょうか!」


 確信を込めて見つめ返すと、アベル様の表情にかすかな動揺が浮かんだ。


 「そんなはずがあるわけ……」


 ――ドン、ドォーン。


 突然の轟音に、私とアベル様は何が起こったか理解できないでいた。


 周りを見渡すと、辺りは砂埃のように白く粉塵が舞っている。


 「なんてことだ!」


 アベル様の鋭い声に私はビクッとなった。


 「ア、アベル様……何が起こったの?」


 「落ち着いて聞いてくれ。どうやら舞台の天井が崩れて、檻を直撃したようだ」


 「なんですって! 魔物は? まさか……ロベル様もあの下敷きに……」


 「ここからでは瓦礫と粉塵でよく見えない。僕は魔物とロベル卿を確かめて来るから、ユージェニーは早く逃げるんだ。ルディは……くそっ、どこにいる!」


 「私は大丈夫ですわ。自分のことは何とかします。それより魔物を……もし逃げたりしていたら大変なことになりますわ」


 客たちは出口へとなだれ込み、悲鳴と怒声が入り乱れて会場は大混乱に陥っていた。

 

 「すまない。身の危険を感じたら……これを使うんだ。躊躇わないで、いいね?」


 鞘に入った小さな短剣を私に握らせた。


 そして、アベル様は腰の剣に手を当て、周囲の客たちをかわしながら舞台へと駆けていく。


 「お気をつけて……」


 私の声にアベル様が一瞬振り返ったが、逃げ惑う人波と粉塵の中にその姿はすぐに見えなくなってしまった。


 (そうだわ、マリーズはどこ? ルディ様と一緒だから、きっと無事よね)


 ◇


 ユージェニーたちとは別行動でオークション会場に潜入していたマリーズとルディ――時を同じくして、この混乱の渦に巻き込まれていた。

 

 「レディ、大丈夫かい?」


 「ええ、私は大丈夫よ。それより、二人が心配だわ」


 「きっと大丈夫だろう。俺たちを見くびってもらっちゃぁ困るな」


 こんな時でも自信家のルディを、マリーズは呆れたような目つきで見上げた。


 「ゴホッ、ゴホ。何が起こったのかしら? ひどい粉塵だわ」


 「舞台の天井が落ちたんだ。魔物が逃げたりしてなきゃいいけど」


 (マリーズ嬢は落ち着いているように見えて、怖いんだな)


 ルディは、マリーズがずっと自分の袖口を離さないのをチラッと見遣った。


 「と、とにかく二人を探さないと。それに、計画はどうなるの?」


 「こうなった以上、計画は中止だ。俺はこの状況を調べてから地上に逃げる。だから、レディは……」


 「私も一緒に行くわ」


 「なんだって? 危険すぎる!」


 「あなたのそばを離れる方が危険だわ。私の勘がそう言っているの」


 絶対に離すまいとするマリーズの強い意志が、ルディの袖を掴む手に込められていた。


 「きゃっ」


 「おっと」


 そうしている間にも、逃げ惑う人々がマリーズを庇うルディの肩や腕にぶつかっていく。


 「仕方ないな。俺から絶対離れないでくださいよ」


 ルディはマリーズの手をしっかりと握り、出口へと急ぐ人波とは逆の方向に急いだ。


 「アベル! これは一体……魔物の姿は見えないが? ロベル卿はどうした?」


 やっと舞台の上にたどり着いたルディとマリーズが目にしたのは、天井の石材や木材に押しつぶされ、ぐにゃりと曲がった鉄の檻だった。


 「ルディ! マリーズ嬢、お怪我はありませんか?」


 「ええ、それよりユージェニーはどこですの?」

 「アベル、魔物がいないじゃないか!」


 二人から同時に質問をぶつけられたアベルは、制止するように軽く手をあげた。


 「ユージェニーはひとりで地上へと逃げてもらったよ。ロベル卿の姿もないが、とにかく魔物の行方を探さないと。ルディ、この血の跡をたどるぞ」


 「そんな、ユージェニーをひとりにするなんてひど過ぎますわ」


 「……僕は魔物を帝都で野放しにするわけにはいきません。だから、他の客たちに紛れて地上へ逃げる方が安全なんです。上では僕の隊が控えていますから」


 「そうだ。マリーズ嬢の言い分も分かるが、アベルの言う通りさ。俺たちは大義がある。その妻になったからには、覚悟が必要ってことだ」


 マリーズは納得のいかない表情のまま、ぐっと口をつぐんだ。


 「アベル、檻から魔物が逃げたのか? この先のどこかにつながる通路があるようだな」


 魔物のものと思われる少し赤紫がかった血痕が、舞台横から先の暗闇に続いている。


 「先を急ごう。怖いだろうが、マリーズ嬢はあの出口から地上へ戻って下さい」


 白い粉塵に包まれた視界の中、出口付近に群がった人影だけはかろうじて分かった。


 「そんな……」


 マリーズが縋るようにルディを見つめた。


 (いつもは冷静沈着なお嬢様でも、さすがにこの状況は怖いよな……。ユージェニー夫人は、どうやら怖いもの知らずなようだ。まぁ、娼館に乗り込むくらいだ……それもそうか)


 「アベル、すまないが俺はマリーズ嬢を上へ送り届けてから、お前の後を追う」


 「分かったよ。相手も手負いだ。そう遠くへは行けないだろう。魔物一匹を狩るくらい、僕一人で十分さ」


 アベルが駆け出そうとしたその時、女性の緊迫した叫び声がその動きを止めた。


 

 ――きゃーっ。

 

 

 「ユージェニー?」


 アベルの思考がすべて止まり、頭が真っ白になる。


 「アベル様! ユージェニーの声ですわ!」


 マリーズの声がアベルを正気へと呼び戻した。


 「どうして、この先から叫び声が聞こえてくるんだ? 魔物と遭遇したのか!」


 「ユージェニー! 地上へ向かったはずなのに、どうしてだ?」


 魔物の血痕を踏みつけながら、アベルたちは声のする方へ急いだ。


 「嘘だろ……粉塵で視界が……くそ、アベル、ユージェニー夫人は出口を間違えたんじゃないか?」


 「ユージェニーならあり得ますわ。落ち着いて見える時ほど、突っ走るところがありますから」


 「二人とも……僕の妻を見くびりすぎだ。きっと……別の女性だ。僕たちの聞き間違いだよ」

 


 マリーズは何かを蹴り飛ばした感覚に驚いて足を止めた。


 「ル……ルディ様……アベル様……」


 「どうした急に立ち止まって?」


 アベルとルディがマリーズの視線の先にある()()を見た。


 「アベル、これは魔物の前脚?」


 「どうやら、そうみたいだね」


 「それなら、この刺さっている剣はロベル卿のものか?」


 ルディがひょいと剣の刺さった魔物の前脚を持ち上げると、アベルの目の前に差し出した。


 マリーズは耐え切れず顔を背けた。


 「ユージェニー……ルディ、マリーズ嬢、僕は先に行く!」


 そう言い残すと、アベルは疾風のように去ってしまった。


 「おい、アベル! 待て……って、まったく、いつもの冷静さはどうしたんだよ」


 ググッ、グッ。


 ルディは仕方なく、魔物の前脚に刺さった剣を引き抜いた。


 「ん? この紋章は……ドット公爵家? オイ、オイ、やはりドット公爵が黒幕だったのか。これはヤツの悪事の証拠になるな」


 「それなら、どういう状況なのでしょう?」


 「それもそうだな。魔物に遭遇したユージェニー夫人をドット公爵が助けた……? ロベル卿はどこへ行ったんだ?」


 「ユージェニー……どうか無事でいて」

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