33.父と夫の密談
――コンコン。
もう夜更けだというのに、フィリップ・サレット侯爵の執務室の灯りは点いたままだ。
「お義父様……宰相、少々よろしいでしょうか?」
「入りたまえ、アベル卿」
静かに扉を開けると、疲れたように目頭を押さえ、執務机に座るフィリップの姿があった。
「お疲れのようですね」
手に持っていた眼鏡をかけ直し、フィリップは呆れたように薄い笑みを浮かべた。
「誰のせいだと思っているんだ」
「……僕のせいです」
「ハァー、君のせいではないだろう? 私の娘のせいだと、はっきり言えばいい。君にも迷惑をかけた……すまない」
「いえ、ユージェニー……嬢を守るのも僕の任務です。それを危険にさらしてしまいました。謝らなければならないのは、僕の方です」
フィリップは、アベルを見極めようとするような視線を向けていたが、パッと視線を逸らすと立ち上がった。
「まぁ、君も座りなさい。すでに起こってしまったことを後悔しても始まらない。もう、私にはやり直す術がないのだからな……」
(やり直す術がない? 宰相にしては弱気の発言だな。やはり、ユージェニーが関わっているからか……?)
二人は向かい合ってソファに腰掛けると、アベルはテーブルにこれまでの内偵の資料を並べた。
「宰相は、どこまで陛下からこの件について聞いておられますか?」
「突然……動物が変異した――君たちは魔物と報告していたが、ブルボン辺境伯領に現れ被害が拡大しつつあり、このままでは帝都にも被害が及ぶと。そして最近になって、帝都で魔物を取引している形跡があるとな。まさか娼館が関係してるとは思いもよらなかったが」
「やはり、陛下に信頼されているのですね、宰相は。『影狼』の存在も把握されていたのも驚きでしたが、魔物のことは最高機密です。父と兄、そして『影狼』に籍を置く数名しか知り得ません」
「ハハハッ、これでも帝国の宰相だからな。と言っても、私は、ここに書かれている君の報告書を読ませてもらっただけだ。それに君だけが持っている情報は知りようがないがね」
フィリップは、手にしていた資料をアベルの前に差し出した。
『ブルボン辺境伯領の異変について』
アベルは資料を手に取ったまま、しばらくブルボン辺境伯領の現状を思い浮かべていた。
――ブルボン辺境伯家が、初めて領地の異変について陛下へ報告をしたのは、一年ほど前のことだった。
辺境伯領はいくつかの隣国との境界線に位置している。
領主であるブルボン家は、長い歴史の中で帝国の領土を守るため、幾度となく隣国と剣を交えてきた。
時代が進み、ようやく各国との協調路線が確立され、領地にも平穏な日々が多くなっていたのだが……。
突如として領地内に、魔物なるものが現れるようになった。
その存在は、書物の中の話。
はるか昔に存在したであろう程度であったが、森に現れた凶暴な生き物を一目見たブルボン辺境伯は、それが魔物であると確信した。
それから、領地の山や森に魔物が住みつくようになり、個体数がみるみるうちに増え、領民の生活を脅かすまでになった。
「父上、このままでは辺境伯騎士団の騎士たちが魔物退治で疲弊してしまいます。狩っても、狩っても、終わりが見えません」
アベルの兄であるカイゼル・ブルボンは、父ブルボン辺境伯に詰め寄っていた。
ブルボン辺境伯は黙って、一冊の古文書をカイゼルとアベルの前に置いた。
「これは……? 『蒼杯秘録――そうはいひろく――』?」
「そうだ。わが家の代々当主が、戦利品として手にしたものや好んで収集した、神話や歴史の古文書の一冊だ。この状況を打開する策がないか調べていてな、偶然、目に留まったのだが……」
カイゼルは古文書を手に取ると、パラパラとめくりながら目を通していく。
「バムア帝国建国の神話のようですね。この『蒼杯』――夜空の星の輝きを宿す神の杯――というのは、どこかサレット侯爵家の『ラピスラズリの杯』を思わせますが……」
そう口にしたものの、ただの建国神話と魔物の因果関係が結び付かず、困惑気味にカイゼルは父の顔を見た。
「兄上、ちょっと僕にも見せてくれますか?」
アベルも手に取り、古文書に目を通した。
「うーん、単なる神話ですね。ただ……この部分が気にかかります。――杯に捧げた女神の力によって、男の寿命は永遠のものとなった。しかし、二人は神々の大きな力を使った代償を払わねばならなかった……」
「アベル、それを言うなら、私はこの部分が引っかかる。『崩れた自然の摂理との長い戦い』――この魔物が現れた状況を指す、と考えられなくもないかと。父上はいかがですか?」
息子たちの意見に、辺境伯は満足そうにうなずいた。
「二人とも、なかなか良い見解だ。それに、どうしても『ラピスラズリの杯』が無関係とは思えないのだ」
「父上、私も調べる価値はあると思います。かなり厳重に管理され、当主以外は触れることすらできないと聞きます。希少石とはいえ、サレット家ほどの大貴族がいささか大げさではありませんか?」
「そこでだ……ちょうど、『ラピスラズリの杯』を探る機会を得られそうなのだ。陛下の提案で、サレット家令嬢ユージェニー嬢の結婚相手として、アベルに白羽の矢が立った」
「父上! アベルは、すでにモンフォール侯爵家のキャロライン嬢との縁談が進んでいるではありませんか」
「カイゼル、その縁談はまだ内定の段階だ。今なら破談という形ではなく、ただ白紙に戻すということに過ぎない。侯爵家との縁よりも、陛下の命令が上であるのは明白だ」
「いや、しかし、モンフォール家は帝都で力のある家門です。辺境の地にあるわが家の強固な地盤固めには必要な縁では……。それを、別の侯爵家に乗り換えたとあっては、味方を敵に回すようなものです!」
「カイゼル、忘れているわけではあるまいな。サレット家は侯爵家であり、当主は宰相だ。そして、陛下の親友でもある」
「ですが、キャロライン嬢の気持ちを考えると……。それに、なぜ今、陛下がそのようなことを口にされたのか……」
「わが家門は、代々、皇帝の信を得て国を守ることに誇りを持っている。陛下への不信感を口にするのか? カイゼル」
規律を重んじる兄カイゼルと、皇帝への忠誠心の強い父ブルボン辺境伯との応酬を、当の本人であるアベルは、まるで他人事のように涼しい顔で眺めていた。
「父上、兄上、僕は『影狼』ですよ。陛下の命令は絶対です。なぜその令嬢と結婚しなければならないのか、陛下の真意は理解できませんが。でも、魔物のことも何か分かるかもしれませんし。次男の政略結婚など、誰としても大して変わりませんよ」
一番冷静なアベルの言葉に、思わず二人はアベルの方を見た。
アベルは、なぜ二人が揉めているのか理解できないと言いたげな顔をしている。
「とにかく、カイゼル、アベルよ。帝都に行けば分かることもあるだろう。他の貴族たちを刺激したり、勘ぐられないためにも、アベルが適任だ。頼んだぞ」
そう父に任され、帝都に出てきたアベルは、フィリップ皇帝からサレット家の縁談が動き出すまで待つように命じられた。
帝都に行けばすぐに縁を結ぶと思っていたのが、思わぬ時間ができたアベルは、独自に魔物について調べることにしたのだった。
そこで、偶然出会ったのが、泣きボクロの女――ナタリーだった。
――「アベル卿……アベル卿!」
フィリップ・サレット侯爵に名前を呼ばれ、アベルはハッとして意識を戻した。
「申し訳ありません、宰相。もう一度、仰ってください」
「君も疲れているようだな。『影狼』はドット公爵の内偵もしているのだな? それは謀反を疑っているのか? それとも魔物騒ぎと関係があるのか?」
アベルは説明しようと口を開いたが、フィリップの続く問いに返す言葉を失った。
「この状況で……本当にユージェニーを守り抜けるのか?」
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