32.近づいては離れ
「陛下、お待ちください! ユージェニーはごく普通の貴族令嬢として育ち、任務に耐えられるはずがありません」
アベルは珍しく声を荒げ、反発した。
「アベル、落ち着けよ。陛下は協力と言ったんだ。夫人に危険な任務をさせろとは仰ってないだろ?」
興奮しているアベルを落ち着けようと、ルディが言葉を挟んだ。
「ルディ副隊長は黙ってろ。陛下、一般人のユージェニーを巻き込むのは賛成できません。それに、秘密を知る人間が増えれば計画に不確実性をはらみます」
レオン皇帝の顔から笑顔が消えた。
「アベル隊長、すでに今のお前が不確実性要素だ。何を恐れている? それに、協力者の娼婦も一般人だ。お前が優先すべきは、『影狼』として私の命じた任務を成し遂げることではないか?」
「仰る通りです。しかし、ユージェニーを守るのも任務だったはず。それに、お父上であるサレット宰相が許すはずがありません」
互いに一歩も譲る気配がない様子に、ルディはハラハラしながら固唾を呑んで見守っている。
「宰相は人の親である前に、帝国の宰相だ。民を守る大義の方が上であろう。宰相は……フィリップは必ず首を縦に振るだろう。私が、ユージェニー夫人がこの件に無関係だと証明できるまで、皇宮で軟禁すると言えばな」
「何を仰っているのですか! ユージェニーは無関係です! 皇宮で軟禁などすれば、夫人の名誉に傷がつきます。なぜそこまで、ユージェニーにこだわるのですか?」
立ち上がって抗議するアベルを、レオン皇帝はソファの肘掛けに肘をついたまま、冷たく見上げた。
「夫人が地下オークションと無関係だと、どうやって私に証明するのだ? 守れとは言ったが、肩入れしろとは言っていないぞ」
部屋の中が、しんと静まり返る。
レオン皇帝の言葉に、アベルもルディも、これ以上反発することは、かえってユージェニーの立場を悪くすると悟った。
「……はい。出過ぎたことを申しました……申し訳ありません。陛下のお心のままに従います」
「分かればいいのだ」
ひとまず、その場が収まったのを見計らって、ルディがおずおずと小さく片手を挙げながら尋ねた。
「あのぉ、陛下、夫人にはどんな協力を仰ぐおつもりですか?」
「オークションは違う娼館の地下で、すぐに開催されるだろう? 魔物をそう長く留め置いておくことはできないからな。だから、夫人にはオークションに潜入してもらおう」
アベルの顔から血の気が引いた。
「潜入とは……一体? まさか、また娼館に娼婦として潜入しろと仰るのですか!」
「ハハハハッ、アベル、ここでそうだと答えたら、飛びかかりでもしそうな勢いだ。心配するな。私が侯爵令嬢にそのようなことをさせるわけがないだろう? まったく」
(いつもの陛下とどこか違うな。まるで、アベルを煽って夫人への気持ちを自覚させようとしているみたいだ。陛下が何かを企んでいるとは思いたくはないが……)
ルディの目には、レオン皇帝は自分の言葉に翻弄されているアベルを楽しんでいるように見えたのだ。
そして、ルディはアベルほどレオン皇帝に忠誠心があるわけでもなかった。
「では、何を夫人にさせるおつもりですか?」
警戒して言葉を繰り出せないアベルに代わり、ルディが口を開いた。
「そうだな。夫人には……」
◇
私は倦怠感のせいで、夕食は寝室へ運ぶようニナに頼んだのだが、食事を持って現れたのはアベル様だった。
(珍しいわね……。昨日のことがあったから、早く帰ってきてくれたのかしら?)
いつも帰りの遅いアベル様が、珍しく夕食の時間に戻っていたことに驚いた。
わざと何も言わず、ただ黙ってアベル様を見つめる私に、アベル様はどこか居心地が悪そうにして口を開いた。
「気分が優れないらしいね……あまり無理しないほうがいい。今日は、そばについてあげられなくて悪かったよ」
アベル様の少ししょんぼりとした様子は、なぜか私の気分を弾ませ、もっと意地悪くしてやろうという気持ちにさせる。
「今日はお帰りが早かったですのね。てっきり、私のことなど気にも留めていないと思っていましたわ」
さらにアベル様の眉尻が下がり、申しわけなさが伝わってきた。
(もう、このくらいで許してあげようかしら……ふふっ)
ところが、アベル様の耳を疑うような話に、その気持ちは簡単に吹き飛ばされた。
「……なんですって? もう一度、おっしゃってください。どうして、私が娼館に行かなければいけないのですか!」
「ユージェニーが動揺して怒るのも無理はない。僕だって本当はそんなことさせたくはないさ」
(地下オークションに他の客に紛れて潜入しろだなんて……。でも、陛下の命令には逆らえない)
「だったら! なぜそんなことを……」
「陛下の耳に入ったんだよ。昨夜、全焼した娼館にいた君を、僕が助けに行ったってね」
「陛下……? で、でも、それがどうして、私が娼館へ行くことに繋がるのですか?」
「あの娼館は、ただの娼館じゃない。陛下の命令で、僕はあそこを密かに監視していたんだ。 それで……ユージェニーにも協力をお願いしたい。もちろん、娼婦としてじゃない。別の肩書きで、だ」
(監視? ……ただの娼館ではなかったの? でも、どうして私が?)
私の頭は混乱していたが、娼館の秘密もアベル様の秘密も、どうでもよかった。
そんなことよりも、私は漠然と抱いていた、アベル様への淡い期待を打ち砕かれたことに痛みを感じていた。
「もう、何もわかりません! でも……でも! 陛下の命だからといって、素直に従うのですか? 私がまた危険にさらされてもいいとお思いなのね」
「僕だって抵抗したさ。でも、君が自ら危険に飛び込んだせいで、陛下に疑念を抱かせてしまったんだ」
「もうけっこうです! お父様に言って――」
アベル様が私の言葉を遮り、冷たく言い放った。
「無駄だよ。その疑念は、サレット侯爵家にも向けられているんだ。その意味が分かるかい? 君の軽率な行動が、お義父様の立場も悪くしてしまったんだよ」
「そんな……どうして……。確かに、私も無茶をしたけれど、危ない目にも遭って……。そんなに私が悪いことをしたの? 元はといえば、アベル様が女性とコソコソと会っていたからじゃない……」
悔しくて、悲しくて……私の瞳からは大粒の涙が次から次へと溢れてくる。
それを拭いもせず、子どものように泣きじゃくった。
「ユージェニー……」
(地下オークションのことは、落ち着いてから話す方がいいだろう。その前に、お義父様と相談する必要がある。とにかく、ユージェニーを守らなければ……)
アベル様は私の名前を呼んだきり、ただ黙って頬を伝う涙を大きな手の平で拭い、背中を優しくさするばかりだった。
――私はひとしきり泣いた後、突然、お腹が大きく『グッ、グゥーッ』と鳴った。
その間抜けな音は、怒りに震え泣いている私と、沈痛な面持ちのアベル様の間に漂っていた緊張の糸を、あっけなくほどいてしまった。
「ぷっ。あっ、ごめん……」
アベル様は慌ててスープ皿を手に取り、スプーンでひとさじすくうと、『ふー、ふー』と息を吹きかけて冷まし始めた。
「わ、笑わなくてもいいじゃない……泣いたらお腹が減ってきたのだもの。仕方ないでしょう……」
私はというと、恥ずかしさに頬が熱くなり、冷やそうとペタペタと手を当てた。
アベル様はそんな私の様子を目を細めて見つめ、やるせなさと優しさが溶け合ったような――微笑みを浮かべていた。
「ユージェニー、僕が夫になるべきではなかったのかもな……ごめん」
「えっ?」
私が言葉を繰り出すより先に、アベル様はスプーンを口に運んだ。
ごくん――。
「……美味しい」
その言葉に満足したのか、アベル様はお皿が空っぽになるまで手を止めなかった。
「ごちそうさまでした」
問題は何も解決していないのに、お腹だけが満たされ、だんだんと瞼が重くなっていく。
「ユージェニー、少し休むといい。僕は、お義父様と話をしてくるよ」
「アベル様が……悪い……きらい……」
まどろみの中で、私は本当は心にもないのに、アベル様を責める言葉が止まらない。
――アベルは、ユージェニーの髪をそっと撫でながら、ぽつりと呟いた。
「ユージェニー、それって……嫉妬してくれてるのかな……。だけど……今の僕には、ちょっとだけ……こたえるな……」
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