31.アベルの事情
――「こんな朝早くに出かけてしまわれるの? 昨日の今日だというのに?」
アベルは、朝のユージェニーの言葉を頭の中で反すうしていた。
(陛下への報告を後回しにできるわけがない。頭では分かっているさ。だけど、不安そうにしていたユージェニーを一人にしてしまった……)
「楽にするがよい」
バムア帝国の皇帝レオン・ピアフは、赤い瞳に微かな笑みを浮かべ、目の前のアベルとルディに声をかけた。
「ハッ!」
ルディの威勢のいい声が部屋に響いた。
「おい、アベル……アベル! なにぼんやりしてる!? 陛下の前だぞ」
ルディが小さな声で注意しながら、うわの空のアベルを肘でつついた。
「えっ……あっ、申し訳ありません、陛下」
アベルは慌てて胸に手をやり、頭を深く下げた。
「ハッハッハッ。よほど疲れているようだな、アベル。さぁ、二人とも座りなさい」
アベルとルディは返事をすると、レオン皇帝と向かい合う形でソファに腰を落とした。
ここは皇帝の私室。
足を踏み入れることを許されているのは、限られた者たちだけだ。
この部屋の主――豊かな黄金の髪と血のように赤い瞳を持つ男は、皇帝という名にふさわしい美しさと気高さをまとっていた。
若い時から、容姿のせいで色恋沙汰には少々難があるものの、優れた政治手腕で民の信頼を集め、「賢帝」と称されて久しい。
十年前、三十五歳の若さで帝位に就いた彼は、即座に貴族の既得権益を改革し、平民の税を軽減するなど、民を第一に据えた改革を断行したからだった。
それゆえ、敵対心を抱いている貴族は多く、アベルたち『影狼』は皇帝の命を狙う者の芽を摘むというのも大切な任務だ。
アベルはソファに座っても、まだ心ここにあらずといった様子だったが……。
「それで、アベル、今朝の朝刊に目を通したが……これはどういうことだ? 数日後には、娼館の地下で行われる魔物のオークションを君たちが掃討すると聞いていたはずだ」
柔和な笑顔に似つかわしくないレオン皇帝の鋭い視線が向けられ、アベルの背筋に緊張が走った。
「それは……」
いつもは、淀みなく答えるアベルが口ごもる。
(どう答える? 予想外の事態が起こったことを話すか? でも、陛下がユージェニーに猜疑心を抱いたら? 彼女を危険なことに巻き込んでしまうかもしれない)
「アベル、なぜ答えない」
静かな声音だが、言い逃れを許さない圧を感じた。
――帝国には、表舞台で皇帝を支える2大騎士団と裏で暗躍する騎士団が1つある。
2大騎士団は、言わずもがな、皇室騎士団と辺境伯騎士団だ。
そして、裏の騎士団は『影狼』だ。
2大騎士団が表舞台で活躍する光とすれば、『影狼』は決して表舞台で活躍することのない影だ。
決して、人に知られてはならない皇帝の影の存在、それが今のアベルの真の姿。
「どうやら、協力者の娼婦が僕に恋心を抱いたらしく、それが小さな引き金となって計画に狂いが生じました。しかし、それはすべて僕の失態です、陛下。いかなる罰も甘んじて受ける覚悟です」
アベルはとっくに、ユージェニーを守るという任務を最優先すると心に決めていた。
(もとはと言えば、ユージェニーとの結婚も陛下が下された命令だしね)
これで幕を引こうと、アベルが口を閉じたというのに……。
「隊長、何を言って……俺たちは頑張りましたよ! 細心の注意を払って計画を進め、協力者の娼婦だって織り込み済みの範囲でした。それを……あのじゃじゃ馬で世間知らずの嬢ちゃんが俺たちを振り回したから……」
「コラッ! ルディ副隊長、口を慎め」
アベルはルディの発言に肝を冷やしながら、じろりと睨みを利かせた。
「ほほう、じゃじゃ馬で世間知らずの嬢ちゃん……。それは、フィリップの娘、ユージェニーのことだろう? 何があったのだ?」
レオン皇帝はどこか興味をそそられた表情になり、話の続きを待っている。
「いえ、その……、夫人がその協力者の娼婦と関わる機会がありまして……」
「宰相の娘が娼婦と!? ますますわからん。どういうことだ?」
歯切れの悪いアベルに痺れを切らしたルディが、まるで告げ口でもするように話し始めた。
「話は簡単ですよ、陛下。ユージェニー夫人がアベルと協力者の娼婦の仲を疑って、『セクレ』に乗り込んだんですよ。新婚ホヤホヤだというのに、悪い夫ですよ。アベルは」
ますますレオン皇帝は好奇心がくすぐられたのか、先ほどより前のめりになっている。
「ほう……アベル、なかなか良い度胸じゃないか。私の親友の娘を娶りながら、協力者と浮気とは……」
おまけに、楽し気にルディの悪ノリに乗ってくるではないか。
(陛下まで……。くそっ、ルディのやつ、後で覚えておけよ!)
アベルは、呼吸を整えると背筋を伸ばしたまま手を膝に置き、再び深く頭を下げた。
「申し訳ございません。浮気はユージェニー嬢の……いえ、夫人の誤解です。僕が屋敷の者に気取られず、協力者と密会できていれば、不要な誤解を生まずに済んだのです。夫人は、妻という立場の役目を果たしたに過ぎません」
必死にユージェニーを守ろうとするアベルの姿に、レオン皇帝は満足そうに笑った。
「ハハハッ、これはいい。仮初めの結婚とは思えないほど、お前たち二人に愛が芽生えていると感じるのは――私の気のせいか? この結婚が永続となるように、私がフィリップにかけあってもよいのだぞ?」
その言葉に、アベルは思わず口から願いが出そうになったのを、ぐっと飲み込んだ。
「それは……陛下の気のせいです。そう思われたのなら、僕が任務を上手くこなしているということでしょう」
(この結婚は任務だから受けたのです。影としての任務は覚悟がいる。時には愛さえも利用し、常に危険と隣り合わせの僕には――この結婚は分不相応なんだ)
アベルの隣でわざと音を立てて紅茶をすすりながら、ルディは横目で本心を隠す親友を呆れたように見やった。
(ふん、アベルのやつ、もう夫人に心を奪われているくせに。まーた、こじらせてるんだろな。そういうの、良くないぞ、アベル。お前はどうして最初から自分の人生を生きようとしないんだ?)
ルディは、今のアベルの生き方を虚飾と感じていたのだった。
――アベルは辺境伯家の次男という立場から、生まれた時から『影狼』として生きていく運命が決まっていた。
父であるブルボン辺境伯は帝国の軍事力の一翼を担っており、忠誠を疑われないためにも、息子の誰かが陛下の手足となる必要がある。
当然、差し出されるのは次男のアベルだった。
アベルは周囲からは、恵まれた血筋や環境、容姿と、すべてを手にしていると思われていた。
そして、家督を継ぐ優秀な兄と違って、期待されていない次男は自由気ままだと羨望の眼差しすら受けていた。
だが、実際のアベルは、幼い頃から主役が決まっている兄と比べられ、どこか自分が辺境伯家の脇役であるような寂しさを抱えていた。
「アベル、これからは『影狼』として、陛下の影となる人生を歩め」
そう、父から言い渡された時、アベルは心からほっとした。
(これで、僕は名家の次男という窮屈な人生から解放されて、大手を振って父上が認めた日陰の人生を生きられる)
少し歪んだ考えだが、結局、アベルの欲していたものは、自分をありのままに受け入れてくれる愛だったのかもしれない。
とにもかくにも、こうしてアベルは皇帝の影という名のもと、放蕩息子という自由気ままな表の人生と、血塗られた騎士という裏の人生の両方を手にした。
(この人生で満足なのに……また、僕の心がざわめきだしている。それは、たぶん……世間知らずで、気ままで、どこまでも自分に正直な僕のレディ――『ユージェニー』という存在が、僕のこの退屈で安穏な人生を崩そうとしているからだ)
アベルは思わず頬をゆるめそうになったのを、レオン皇帝のひと言で凍りつかせた。
「しかし、このまま地下オークションを野放しにするわけにもいくまい。そうだな……ユージェニー夫人に隠したままでは動きにくいだろう。どうせ、フィリップも知るところだ。夫人にも協力してもらおうじゃないか」
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