30.衝動の代償
寝室に入ると、アベルは労わるようにして私をベッドに寝かせた。
「ニナ、騒がないで。……誰にも知られたくないの」
「でも、旦那様に……」
「ニナ、お義父様には僕から話すから。まずは、ユージェニーの入浴を手伝ってくれるかな」
「……かしこまりました」
ニナは、私が見たことのないドレスを身につけていることや、ひどい有様なのを見て何か言いたそうにしたが、黙々と準備してくれた。
ゆっくりバスタブに身を沈め、湯船に漂うラベンダーの香油の香りを一気に吸い込んだ。
「ああ、気持ちいい……。今日は、とても疲れたわ」
「お嬢様、髪を洗いますね」
ニナは普段通りに接してくれている。
「ナタリーは面倒見の良い、気さくな人だった。結局、何も聞くことはできなかったけれど」
(今夜のアベル様の言葉や行動が、私の頭を混乱させているわ。だって、アベル様はナタリーより私を優先したように感じたもの)
「ナタリー様? どちらのご令嬢ですか?」
「何でもないわ。ねぇ、ニナは恋人が浮気しているかもしれない、って思ったらどうする?」
「突然何を仰るかと思えば……」
私が顔を上げて真剣な視線をニナに向けたからか、ニナは黙ってしばらく考え込んだ。
「そうですねぇ、やっぱりまずは恋人に私の思っていることを話しますね」
「えっ? 浮気をしていないか調べるのではなくて?」
「ええ。浮気をしたかどうかよりも、疑ってしまう二人の気持ちに問題があると思うので……」
ニナの言葉の意味がわからず、私は眉をひそめ難しい顔をした。
「ふふっ、そんなに難しい話ではありませんよ、お嬢様。浮気に限らず、人の噂や目にしたことだけで思い込んでしまうこともありますでしょう? でも、ちゃんと二人の間に信頼があれば関係ありませんわ」
「そんな考え方もあるのね……」
「お嬢様のお気持ちをお伝えすることで解決するかもしれませんよ」
そう話すニナの頰がゆるんでいる。
「なんだかニナ嬉しそうね」
「申し訳ありません! でも……お小さい頃のように、そうやって何でも話してくださるのが嬉しくて……」
「うん……そうね。ニナが言う通り、お話してみるわ」
私は少しはにかみながら答えた。
ニナが私の髪を慣れた手つきで洗い、お湯で泡が流されるたびに、嫌な記憶まできれいさっぱり流されていくような気がした。
(ナタリーはあのままセクレに残るのかしら……。買収した娼婦は何の役にも立たなかったわ。みんなが良い人というわけでもなさそうね)
「あの青い髪の支配人……ルディ……」
「青い髪と言えば、ルディ・コルマン小伯爵様ですね。結婚式にも来られていましたわ。北の方は、帝都とは違って珍しい髪色の方が多いですわね」
ニナは楽しそうにおしゃべりを続けている。
(ルディ様が、なぜセクレの支配人に? アベル様はナタリーに会いに来て、偶然私を助けてくれたのかしら? なんだか大事なことを忘れているような……)
体が温まるにつれて、私の意識はまどろみに溶けていった。
◇
翌朝の早朝、アベル様はベッドから起きると素早く身支度を始めた。
「ん……アベル様?」
「すまない、ユージェニー。起こしてしまったね」
「こんな朝早くに出かけてしまわれるの? 昨日の今日だというのに?」
アベル様は私の傍らに来て、ためらいもなく額に口づけをした。
「今日はそばにいたいが、どうしても皇宮に行かないといけなくなったんだ。しばらくは、帰りが遅くなると思う」
寝室を出ていくアベル様の背中に、私は言いようのない寂しさを覚えた。
――「お嬢様、マリーズお嬢様がお越しになりましたが、今日はお帰りいただきますか?」
ダンが心配そうにマリーズの来訪を告げに来た。
昨夜の娼館での騒動もあり、私は体調が悪いと朝から自室に閉じこもっていたのだ。
「いいえ、ここへお通してちょうだい」
しばらくすると、マリーズが新聞を片手に血相を変えてやって来た。
「ユージェニー、体調は大丈夫なの?」
「ええ、マリーズこそ大丈夫? ただ、何もする気になれなくて……」
「ああ、こんな時にユージェニーに知らせるべきではなかったかも。でも、この記事を見てちょうだい!」
マリーズがテーブルに持ってきた朝刊を広げた。
「マドラ通りに新しいティールームがオープン。老舗『ブロン』とは一線を画す、令嬢たちが気軽に集える……面白そうね」
「その記事じゃないわ。ここを読んで」
トントンとマリーズが指で差し示した記事に目をやると、“セクレ”という文字が飛び込んできた。
「昨夜未明、高級宿屋“セクレ”は、宿泊客の火の不始末から全焼。宿泊客は一人を除いて、全員無事に避難……これは……どういうこと?」
記事の中で娼館は宿屋に変えられ、しかも何かの証拠を隠すように全て燃え尽きてしまった。
「ユージェニー、驚かずに聞いてね。この犠牲になった宿泊客は、『ハート・ストア』を訪れた時に絡んできたあのクズの令息よ」
(なんですって? つまり……娼館で私を襲った男)
私はどこか不気味さを感じて、ぞっとした。
「何もかもおかしいわ。娼館を宿屋に変えて記事にするなんて、普通ではできないことよ。娼館“セクレ”は、私たちが後にするまで確かに存在したわ。そして、その後すぐに焼失してしまっただなんて」
「ねぇ、ユージェニー、“セクレ”のことは忘れましょう。もう関わらない方がいいわ」
「マリーズ、まさかアベル様が火を放った……? 私が娼館であんなクズに襲われたから」
「そんなわけないでしょう? あなたを助けた後、片時も離れずあなたを抱えていたじゃない」
「そ、そうよね。でも、ルディ様が支配人に扮していたり、アベル様が踏み込んできたり、偶然なはずがないわ。それから……」
落ち着きを取り戻していた私は、“セクレ”で視界の端に映った人物のことをはっきり思い出していた。
「マリーズ、落ち着いて聞いてね。“セクレ”には大勢の貴族がいたのだけど、その中に……ドット公爵様がいたの」
「……っ、なんですって……」
みるみるマリーズの顔色が青ざめていく。
(過去に妻だった私が、夫の顔を見間違えるはずがないわ。愛されようと必死だった私はジョセフしか見ていなかったのだから……)
私は自分を嘲笑するように口元を震わせた。
「ねぇ、ユージェニー。私たち、何か危ないことに巻き込まれてる気がして怖いわ。実は皇室図書館を訪れた日、『ラピスラズリの杯』の神話について司書に聞いていたの。“バムア帝国建国史”という古文書に載っているのだけれど、貴重すぎて持ち出せないの。それでここで読ませてほしいと頼んだら……盗まれて今は読めないって」
「それならブルボン辺境伯家でアベル様が目にした古文書が、盗まれたものだと言うの?」
「それは分からないわ。古文書が複数存在しているかもしれないでしょう? それに、私と同じことを尋ねていた人物が、他にも二人いたのよ」
そう聞いた私は直感的に気づいた。
「ジョセフ様と泣きボクロ……いえ、ナタリーの二人ね」
マリーズは黙ってコクリと頷いた。
手に入るのはバラバラな情報ばかりで、それがどう繋がるのか分からず、私たちは混乱していた。
「とにかく、ユージェニー、今はおとなしくしましょう。いいわね」
――マリーズは、絶対に勝手に行動しないよう私を諭すと、早々に帰っていった。
この時の私は知らなかった。
娼館に乗り込むという私の衝動的な行動が、アベル様の大事な任務の邪魔をしてしまったことを。
感想やリアクションをいただけましたら、とても励みになります。
感想へのお返事は控えさせて頂きますが、大切に読ませていただきます。
よろしくお願いします。




