28.乗り掛かった舟
高級娼館セクレの正面の扉に明かりが灯った。
「ああ、娼館が開店してしまったわ!」
セクレの向かいの通りに、家紋を伏せた馬車が何台も停まっている。
そのうちの一台の馬車から、マリーズとノエルがセクレの様子を見守っていた。
「お嬢様……問題が起こりました」
「これ以上どんな問題が起こるっていうの!」
ノエルの指差した方向を見たマリーズは、全身から血の気が引いた。
「う、嘘でしょ……あの男は!」
◇
ナタリーは、手際よく私に濃い化粧を施していく。
瞬く間に胸元の開いたドレスを着せられ、後ろから羽根でも生えてきそうな金の装飾の椅子に座らされた。
「ジニー、すっごく綺麗よ! 素顔も美人だけど、映えるわね」
「あんた、スタイルも良いね。着てた野暮ったい服は捨てちまったよ」
「捨てた……」
ナタリーとクララの勢いに押され、思考が追い付かない。
(えーっと、どうして私はここに座っているの? それにしても生地の薄いドレスね……)
「はい、これ」
小間使いの少年から赤いベールを手渡された。
(男の子まで働いているの!?)
私が物珍しそうに見たからか、男の子はバツの悪そうな顔で走り去ってしまった。
「ここでは、そういう視線は蔑みよ。さぁ……このベールを被って」
ナタリーに言われるがまま、視界がギリギリ見えるベールを黙って被った。
娼館の客たちが応接間に入って、女性たちを舐めるように品定めしていく。
濃い化粧とベールのおかげで、誰も私がサレット侯爵令嬢とは気づかない。
(男性の視線をこんなに気持ち悪く感じるなんて……)
「怖い……。アベル様……」
無意識につぶやいてしまった。
ナタリーがその言葉に反応して、私の方を振り返った。
「アベル様を知ってるの? ハッ! あいつが来たわ! ジニー隠れて」
急にナタリーに手を引っ張られ、部屋にあった衝立の向こうに連れて行かれた。
「あいつ?」
「ええ、最近よく来る客よ。素行が悪くて、支配人も手を焼いているわ」
ベールと衝立で男の顔はよく見えない。
「オイ、支配人、とびっきりの上玉を紹介しろよ」
品のない大きな声を聞いてピーンときた。
「あの男!」
「ジニー、知ってるの?」
(知っているもなにも、『ハート・ストア』の前で私をさらおうとしたクズ男よ!)
「ちょっとね……」
「そう……あまり良い関係じゃなさそうね。会わなきゃ大丈夫よ。支配人があしらうまで、ここで待つといいわ」
やっと支配人らしき男が部屋に入って来た。
「あれが支配人? なんて言うか……あんなに分厚いレンズの眼鏡をかけて、想像とはずいぶん違うわね」
束ねられた青い髪、シャツの上からでも分かる鍛えられた腕や背中が目を引く。
その佇まいは、ここに似つかわしくないように感じた。
「どこかで会ったような……気のせいね」
「いつもの支配人と違うわ。あんなに背は高くないもの」
「えっ?」
(なんだか嫌な予感がするのだけれど……)
「お客様、騒がれては困ります」
「ハァ? 平民風情が俺に口応えするのか! 支配人は黙って女を紹介すりゃいいんだよ」
「あら、本当に根っからのクズね」
「ジニー、静かにしないと見つかっちゃう」
ナタリーに注意されて、口をグッと噤んだ。
「そうだ、あの女はどこだ?」
「どのレディでしょうか?」
「娼婦にレディ? 笑わせるな。あの女だよ。ナタリーだ」
私は驚いてナタリーを見た。
ナタリーの体が小刻みに震えている。
「大丈夫よ……大丈夫。今日はきっと、あの方も来てくださるわ」
自分に言い聞かせるようにナタリーは呟くと、クズ男の方へ行こうとした。
「だめ! 絶対にだめ! 危険な男よ、何をされるか分からないわ」
今度は私がナタリーの手を引っ張った。
「ありがとう、ジニー。あいつが危険なクズ男ってこと……知ってるの」
私はハッとした。
ここは娼館……客を拒むことはできないのだ。
ふいに、あの小さな酒場でのアベル様とナタリーの仲睦まじい姿が脳裏をよぎり、胸がギュッと締め付けられた。
(この気持ちは同情? それとも……嫉妬?)
「ナタリー、あなたはここにいて」
(大丈夫……ベールさえ取らなければ私とは分からないはず。隙を見て、マリーズたちに助けを求めるのよ)
平民が貴族に刃向かえば死罪。
だけど爵位が高い私は、逆にあいつを罰することができる。
「私がお相手しま……してあげてもいいわよ」
衝立から飛び出し、クズ男の前に仁王立ちしてやった。
クズ男は、品定めするように気味の悪い視線を向けてきた。
「へぇ、なかなかの上玉じゃねえか」
「当たり前よ」
舐められないように精一杯の虚勢を張った。
「フンッ、その澄ました態度がいつまで続くか楽しみだ」
乱暴に私の手を取ると、他の貴族を押し退けずかずかと階段を上っていく。
(他の貴族にまで横柄な態度ね。……バカなのかしら)
「ちょっと、お客様、勝手な行動は慎んで……って、おいおい、今のレディって……」
私を見て呆気に取られていた支配人が慌てて後を追って来たが、もう間に合わない。
連れて行かれた部屋の扉の鍵が、無情にも大きな音を立てて閉まった。
「いやいや、そんなはずないよな。あの後ろ姿……鮮やかな赤い髪……」
支配人は独り言のように呟いて、ハッとして口を押さえた。
「俺……アベルに殺されるかも」
「あ、あの、もしかしてアベル様のお知り合いですか?」
「ん? 君がナタリーか。アベルから聞いているだろう? 俺はルディだ。ねぇ、今のレディは?」
「今日来たばかりの新人ですけど」
「新人……の名前は?」
「ジニーです。あ、あの、アベル様は?」
(ジニーって、ユージェニーの愛称だろ!? もう確定だな。でも、なぜここにいるんだ?)
「聞いてます? アベル様はどこですか? 私の情報が役に立ったんですよね?」
ナタリーがルディの腕を掴んで強く揺らす。
「しーっ、声が大きいよ。今日は事前の内偵だから俺ひとりだよ。アベルから聞いているだろう?」
「でも……」
ナタリーは急にシュンとなった。
(まさか、アベルが任務以外で娼館に来るとでも? こじれたりしなければいいが……)
「とにかく、アベルに言われた通り、俺の内偵に協力してくれ……」
「はい……地下への扉はこちらです」
ナタリーは、支配人に扮したルディを娼館の奥へと案内する。
(でも、ユージェニー嬢をこのまま見過ごすわけには……。いや、いや、俺は今日は娼館の内偵という任務があるんだ。あー、もう!)
ルディは踵を返した。
◇
乱暴に私が連れて行かれるのを、娼館では日常なのか他の客たちは素知らぬ顔をしている。
支配人の焦りを見て、もう頼れないと悟った私は、とにかくクズ男から距離を取った。
「ハハハ、この部屋は窓が無いからな。まだ逃げるつもりか?」
(ああ、窓が無いわ! 扉……開ける前に捕まってしまうわ)
もうなりふり構っていられないと、私は大きな声で叫んだ。
「誰か助けて! 助けて!」
「大きな声を出すな!」
クズ男は私の頬を思いきり打った。
「きゃっ」
その衝撃でベールが外れ、私はベッドに打ち付けられた。
(あっ、ベールが! だ、だめよ、顔を見られたら……)
咄嗟に枕で顔を隠す。
「お前よっぽど顔を見られたくないみたいだな……もしかして元貴族か?」
少しずつクズ男が距離を詰めて来る。
時間が巻き戻る前、ジョセフに追い詰められた時の記憶が蘇って、体の震えが止まらない。
(思い出したらだめ……しっかりするのよ!)
自分で自分を鼓舞する。
でも、垣間見えるクズ男の顔は、どんどん欲にまみれて醜く歪んでいく。
とうとう私の足首を掴んだ……。
激しく抵抗しても、所詮、か弱い令嬢の力では太刀打ちできない。
布を引き裂く音がして、怖さと悔しさで大粒の涙があふれ出た。
(もう、だめ……怖い。お父様!)
だけど、叫んだ名前は……。
「アベル様!」
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