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浄土のことば

作者: 襖山諄也

「おめでとう」

 長く眠りに就いていたことに罪悪感を覚え始めていたとき。まさに見計らったようなタイミングだった。

「たった今、真有まゆ、君には権利を与えられた。受け取るも放棄するも自由」

 ただ届く声をそのまま受け入れ続ける。ふと気が付くと、目の前には一筋の影が伸びている。奥に誰かがいるようだが、前から、それも低い位置から上に向かって光が当たっているためか影の主が後ろの遥か遠くまで引き延ばされており、その形からは背格好を想像できない。口調から判断するに、ぶっきらぼうな人柄という印象。

 いきなり始まった話で何が何やらという状況だが、権利という一単語しか挙がっていないのでひとまず遮ることなく次なる言葉を待つ。

「まずはこれを」

 目の前に一枚の紙がひらひらと落ちてくる。

「これは、真有が言葉を伝えられる紙。ここに書いた言葉だけを、君はつかさに伝えることができる」

 司。とても懐かしい響きだった。

「どうする? 権利を使う? 僕も使いたいくらいだし、真有が使わないんだったら僕が使わせてもらうけど」

 精一杯の身振りで意思を伝える。

「そ、残念。まあいいけど」

 ずっと奥で揺らぐ影が、鼻をふんとでも鳴らしていそうな不遜な声で答える。

「それなら、はい」

 先に立つ影と自分の間には真っ平な地面があるものだと思っていたが、傾斜があったのか前方から何かが転がってくる。見えないレールでも敷かれているように、脱線することなく足元まで転がってきた。視線を下げると、なぜか左足の方だけ、目の前にあるはずなのに見ることができない。影がひと際濃く当たっているのだろうか。

 ともかく、転がってきたものを拾い上げるとそれはペンだった。

「じゃあ、司に伝えたいことはそのペンで書いて。紙はその一枚しかないから使い方に気を付けてね」

 言いたいことだけ言い終えると、その影は歩き出したようだった。影が先へ先へと歩いて行くにつれて、その分自分を覆う影が後ろから迫ってくる。

 何を書こうか、書くべきか。書き出しは特にペン先が宙を彷徨った。ややあって、ペンを紙に押し付けて書いていく。まずは、何よりも伝えたいあの言葉。そして、再会の言葉を。

「あー、そうやって書いちゃったんだ」

 いつの間にか先ほどまでの声の主が近くに来ている。それに、つい先ほどまでは前の方から差し込んでいたはずの影がぱたりと消え、目の前には思わず目を覆いたくなるほどの光が照り付けている。

 思わず光を背に立つと、自身から伸びる影の中からあの声がする。

「こんなにちっちゃい文字で書くと、囁き声になっちゃうよ。逆に大きく書けば叫び声になって思いを力強く伝えられるし。まあ、それでもいいんならいいけど」

 投げやりな言い草にむっとする感情が芽生えるが、指摘してくれているということは気に掛けてくれていることの証か。それなら、ともののついでの感覚で聞いてみる。

「ねえ、どういう経緯で司に会って話せるようになったか、ってこととか、どういうルールか、っていうことも内容に盛り込みたいんだけど、どういうふうに説明すればいい?」

「せっかく会うのにそんなこと言うの? なんか野暮ったいなあ」

「いいの。教えて」

 もう、と不満げなその声がつらつらと説明を始める。その内容をメモのように、それでいて字の大きさにも気を配りながら書き留めていく。

 大きく書けば大声に、小さく書けば囁き声に。書いた言葉は口にすると消える。タイムリミットは今日の日没まで。ここまでは特殊なものとして逆にスムーズに理解ができた。

「最後に。これから真有には司と会って来てもらうけど、その時に持って帰ってきてほしいものがある」

「持ってきてほしいもの?」

 そう言うと、くるぶし当たりを触られたような感覚が走る。

「ちょっと、何?」

「僕は両足を触ってるつもりなんだけど、ちゃんとその感覚はある?」

「え――」

 驚いてふいに足元へ目を向けると、後方からあれほど強く当たっていた明かりは、左足を影として映していない。先ほどまでは声の主の影で見えないだけだと思っていたが、それが原因ではなかったのだ。

「え、なんで」

「サンダル」

 足元の影から一言、短く告げられる。

「君の持ってたサンダルがなくなっちゃって、今の君は不完全なんだ。だから、ちゃんとするためにもサンダルが必要なの」

「サンダルってどんなの? 普通に売ってるものでもいいの?」

「そのへんは司に聞いてよ」

 投げやりな答え。だが、とりあえず書き留める。

「あと、海に連れてってもらって」

「海? なんでまた」

「サンダルを返してもらうためだよ」

 要領を得ない回答。これも司が知っているということなのだろうか。

 その後、数度の問答を繰り返した後。

「ま、こんなところかな。それ以外は思い出せばその都度言うよ」

 声の主から説明の終了を告げられて、ノートを改めて目の前に持ち上げて見返す。表の面は埋まってしまっていた。

「ほら、説明するだけでこんなになっちゃうんだって。あ、このペンは摩擦でも消えないよ」

 いちいち憎まれ口を話の終わりにぽいと置いていく。

 残りだけで十分、と強がりを見せて、一行におさまるほどの律儀な文字を細々と書く。罫線に挟まれて生まれた余白は、意味を持ったインクの軌跡が埋めた。

 その一枚を見て、影からのお言葉。

「同じことを二回も書かなくてもいいじゃん。しかもこれ、話じゃなくて文だし。書いた内容は口に出すんだよ?」

「いいのいいの」

 口にした言葉は紙から消える。今はその言葉を頭の中に思い浮かべていた。

「まったく……あれ、ここにも何か書いた方がいいんじゃない?」

 親切にも、ノートの上部、本来なら題目やページ数を書くべき空白の存在を教えてくれた。

「ほんとだ。じゃあ、ここに書くのは――」

 そうしてペンを走らせる。

「うわ」

 影からの苦言。書いたのは、うん、うん、うん……ううん、ううん、ううん……もう書けない、とペンを置くまで応答の言葉を書き並べる。

「それくらいのことなら首を縦と横に振るだけで伝わるのに。書いちゃってよかったの?」

「うん、言葉で伝えたいときもあるだろうしね」

 今度こそ完成。裏表びっしりと書いたノート一枚を目の前に掲げる。

「準備万端? もう修正できないよ? 元からできないけど」

 いいよ、と答えると、よし、と返ってくる。

 影がそう言うと、今向いている方からも光が当たってくる。思わずぎゅっと目を瞑る。その瞬間、光に当たっていながらもその影が真っ黒であることに気が付いた。

「それじゃあ、司によろしく」



 明順応。そんな言葉を誰かから聞いたことがあった。長いトンネルを抜けた後、光がまぶしく見えてしまったりすること。

 強く瞼を押さえつける光の力が徐々に弱まり、少しだけ開けて様子を見てから一気に見開く。

 ここはどこだろう。忙しなく視点を動かして現在地を割り出す。だが、正面から見える景色だけで事足りていた。

 まずは家々を見下ろす岩手山。ここが故郷であることを強く実感させる、シンボルとも言える存在。ただいま、と言いたくなるほど今となっては懐かしい。

 次はもっと近いところへ視点を移動させる。どこか別の住宅地にいきなり映しても、ここのお隣さんも向こうの隣人にも違和感など覚えられなさそうなベージュの家。前に壁の塗装を新しくしたと聞いていたが、もう劣化が始まっている気がする。毎年夏場にプランターに植えていたトマトはあるようだが、その他のプランターが片付けられている。朝顔のグリーンカーテンも今年はなし。朝顔の種なんていっぱいできるのに。

 探せば変わったところなど無数に見つかるが、ここは間違うはずもない、概ね当時のままの司の家だった。ひとまずここから始まるようで安心した。

 それなら早速。人差し指を立て、それをボタンに押し付ける。

 ピン、と押し込んで一拍待ってから離す。するとポーン、と伸びやかにチャイムが鳴る。これが癖だった、と動作の後の余韻の間に思い出す。

 あっ。

 鳴らしてから気が付く。インターホンを鳴らす前に対処法を考えておくべきだった。

「はい」

 低い男の人の声。おじさんかな?

 しかし、声が出ない。

 しまった、書いていない。インターホンの受け答えまでは想定していなかった。自分の名前の一つでも書いておくべきだったか。

「もしもし」

 インターホン先からの催促で何かしなくては、と我に返る。このままではいたずらと思われて言葉を伝えられないどころか、司を一目見ることも叶わない。

 どうすれば。

 ドアの前にいることを何とか伝えるために、マイクを叩いてみる? 逆効果なのは火を見るよりも明らか。

 言葉は言えないにしろ、息を吹きかけることは? 精一杯息を吐いても反応がないことが何よりの結果。

 それなら。

 インターホンに指を当て、指先に力を込めて押す。

 ピン。

 押したまま目を瞑る。どうか伝わりますように。

 ポーン。

 一回目よりも、意識してチャイムを長く押し続けてから離す。

 足音が聞こえる。そうだった、司が家に居るときはこの音ですぐに分かったのだった。

「どちらさま――」

 出てきたのは、まごうことなき司その人だった。

 彼が驚きに目を見開く。

「……真有?」

 私は帰ってきたのだ。

 ――久しぶり。

 小声で囁くほどの声量となっていた。だが、言えたということ、伝わったということが重要だ。

 もう二度と言えないと思った言葉。そして、どこかで何かを間違わなければ、言うことはなかったかもしれない言葉。



「あのインターホンの鳴らし方は真有しかやらないことだ、って思ってたよ。それにしても、真有は変わらないね」

 司はピッチャーの麦茶をコップに注いで前に差し出した。小皿に盛られたミニトマトも一緒に。

「トマト、もうプランターは片付けたみたいだけど余ってるし食べてね。もう来年からは作らないみたいだからせっかくだし」

 促されるまま一つ摘まんで口に運ぶ。噛むとフレッシュな酸っぱさが溢れ出す。よくお裾分けでもらっていた、懐かしい味だ。もう一個と手を伸ばしたくなる。

 ふと目の前の司を見やる。おじさんだと思っていた声の主は、紛れもない司本人のものだった。彼が麦茶を飲み込む動作にリズムを合わせて喉仏が上下する。

「あっちでは元気にしてる?」

 またしても紙に書いていない問いだ。答えを何とか示す前に、まず説明を始めた方がいいか。そう思って紙を胸の前に持って読み上げる。

 ――私には決まり事があります。それはこの紙に書いたことしか喋れないということです。

 一度区切って、司の前にその紙を見せる。

 彼は突然の話に一瞬戸惑ったようだが、顔の前に差し出された紙を凝視して理解しようと努力していた。

「この紙に?」

 司が手を差し出して、自分の今の話せる内容を読もうとする。

 ――ううん。

 そう口にして自分の体に引寄せてから、胸の前で手を交差させて「ダメ」と示す。

「おっと、それならごめん」

 書いた内容を直視されると気恥ずかしい。

 ――書いた文字には大きく書いたら大声になったり小さく書いたらこそこそ話になるとか、書いた言葉は一回言うと消えるとか、いろんなルールがあります。

 そう言って、この説明はもう一度とはできないんだ、と心の中で思う。伝わっていればいいけど。

「なるほど」

 司はじっと私の話す言葉に耳を傾けていた。

 ――目の前に大きな影が現れて、この紙をくれました。誰かは分からないけれど、ともかく逆光で真っ黒でした。

 ――タイムリミットは今日の夕方の、太陽が見えなくなるまでだそうです。

 ――いろいろ私から聞きたいことがあると思うので、ジェスチャーから何を聞きたいか考えてください。

「何を聞きたいか考えろ、か。うん、いいよ」

 まずはこんなものか。そう思って両手で持っていた紙を下ろして対面に座る司を見ると、満足気に笑っていた。

 眉間に皺ができるように目頭の上に力を入れて、両手の人差し指を頬に当てる。

「ん? ああ、早速か。えっと……なんで怒ってるか?」

 ――ううん。

「えー……なんでほっぺが――」

 ――ううん。

 じれったく司のことを指差してから、同じジェスチャーを繰り返す。

「あっ、俺がなんで笑ってるか、って?」

 ――うん。

 ようやく当てた。意思疎通がこの調子なら相当大変な道のりになりそうだ。

「いやあ、別に。ただ、わざわざ説明してくれるなんて律儀だな、って」

 ――だって説明しないと分からないでしょ。

「ほら、そういうところ。だって、そんな言えることに限りあるなかで説明に文を割いたってことでしょ?」

 ――うん。

「らしさが出てるなあ」

 司は感慨深く言った。思い出したように、しかも、と続ける。

「さっきからうん、とかううん、とかいっぱい言ってるけど、それも書いてたってことでしょ?」

 ――うん。

 それにまたうん、と答える。

 いやあ、それはすごい。感心した様子で司が言う。

「何回も言ってることから察するに、空きスペースにいっぱい書いたな?」

 司がにやりと笑う。言い当てられて驚いた。ここでは驚きの表情をとることしかできないが、確かに紙の上の余白にはうん、うん、ううん、うん、と書いてる文字がどんな意味だっけ?とあやふやになるまでいっぱい書いて書いて書き尽くしていた。

 昔から司には丁寧すぎると言われていた。自分からすれば司がおおらかすぎると思っているのだが、ともかく彼からの受け答えあっての言葉が日の目を見て何よりだ。

 次にしたジェスチャーはもっと伝わりやすかったようで、一発で伝わった。

「ん? スリッパ?」

 ――うん。

「あれは父さんと母さんのだけど……二人はいないのかって?」

 ――うん。

 頷きを伴って肯定する。

「父さんはお寺さん。母さんはパートに行ってる」

 今度は二つ並んだうちの小柄な方のスリッパにもう一度指を差して、目線で訴えかける。

「あ、そうそう。母さん、パート始めたんだよ。やることなくなって暇だ、って。普段俺もここにいないし」

 さらに驚きの表情を意識して強調し、話の続きを促す。

「俺がいないってこと? うん、県外の大学だし。東京だよ、東京」

 椅子に体を預け、はあ、と感心した声を漏らす。もちろんそんなことは書いていないため、ただ口をぽかんと開けただけ。

 ずいぶんと変わってしまった。すると、司はこちらの意図を汲んでくれたのか、ぽつぽつと近況を語り始めた。

 今は研究が一段落して、地元へ帰ってきている。だが、周りはもう就活を始めていて自分もそろそろ、と焦燥感に駆られている、とのこと。付け加えるように就活って何か分かる?と聞かれて首を傾げると、仕事を始めるってことだよ、と言った。

 司がこの場所を地元、と呼ぶようになっていたこと。司はもうここ以外に足を延ばして、そこからの目線でこの場所を語っていること。その当時では語ることのないことを、今の司が語っていること。

 変わりゆく彼の言葉を乗せる声は低かった。

 それがどうしても受け入れがたく、紙を形だけでもなぞって見ていたそのとき。聞きたいことがあることを思い出した。

 紙を机に置き、視線を伴って司に問いかける。

 ――私が死んだとき、どう思いましたか。



「律儀だなあ」

 司は困ったように笑った。

「寂しかったし、悲しかった。ただ遊びに行っただけなのに、それに最期だっていうのに、何も言えずにいっちゃったんだもん」

 彼が柔らかな目で見つめてくる。

「当たり前に僕の周りにいて、当然大人になってさ。懐かしい話題に花を咲かせたり、今だから言えることを言い合ったり。ちょうど今くらいの頃にできると思ってたら、早々にいなくなっちゃうんだもんなあ」

 その彼がふいと視線をテーブルに落として言う。

「あの夏。海水浴場」

 唾を飲み込んだのは、自分だった。

「サンダルが流されてく、って沖に泳いでった後ろ姿が瞼の後ろに張り付けられてるみたいに、嫌でも記憶に結び付く。何より、真有のことを忘れないように思い出そうとするとそれが最初に浮かぶのがたまらなく辛かった。あんなに泳ぎが得意だったのに、なんでだろうな」

 目をギュッと瞑る。

 水の感覚が体を包む。掴みどころも、伝える言葉も、誰にも何にも届かないあの海を。

 引き波にさらわれていった左足のサンダル。白波がちょっかいをかけたその片っぽは、どんどんパスを回してあっという間に濃い青色のところまで行ってしまった。

 返してよ、と海に足を突っ込んでいく。最初は足を前に出せば進めていたものの、膝まで波がせり上がってきたところで水の抵抗が増す。太ももで歩くような感覚となったとき、引き波が肩までの高さまで背後から迫っていた。

 その後からは押されるがまま。もう足は着かない。顔を上に向けて息を吸わなくちゃ。そこへ上から土をかけて埋められるみたいに海水が飛び込んでくる。海水がしょっぱいのは当たり前なのに、こんなときだから初めて海を知ったみたいに慌てちゃって。気管に水が入ったのはそこだったっけ。息を止めるのには自信があったのに、息を吸わせてもらえないなんて。

 すっぽり頭からつま先まで。助けを求める言葉に何を選んだかな。助けて、と言ったような気もするし、言葉どころかただの叫び声に決めたかもしれない。でも、それは全部あぶくに消えた。そもそも肺の中が苦しくって苦しくって、物も言えなかったかな。

 必死にもがいて、必死に伝えようとして、必死に、必死に……

「思えば子ども一人で追いかけることなんて絶対に止めなくちゃいけないことだし、もっと言えばサンダル一足なんて別のを買ってもらえばよかったんだ」

 だから、司の後悔の言葉には胸が痛んだ。泳ぎには自信があると高を括ってサンダルを追ったのは自分、引き波の対処は知らなかったのも自分。元を辿れば全部自分の握った紐につながるのに、彼はその糸を自身につなげ替えようとする。それだけはいたたまれない思いになった。

 司が目線を落としているところに、呼びかける。あちらでの声の主である影からのお願い事。

 ――サンダルを受け取りに来ました。

 本当は会ってすぐにでも言わなくちゃいけなかった言葉。それを声に出して伝える。

 司の目が見開いた様子。それが残像のように頭に残る。

「サンダル」

 司は短く言った。

「そうだった、サンダルだ」

 椅子から立ち上がり、自室の方へ歩いて行った。あの頃から部屋も変わっていないのかな、と思いながら閉じられたドアに視線を注ぐ。少し待つと彼が出てきた。

「これだよね」

 テーブルの上に置かれる。ピンク色の靴底に白の鼻緒。足の形に加工された靴底にはラメが埋め込まれている。鼻緒の結び目には造花があったが、それは流されてしまったか。

 これをどこで。それを伝えたくて指を差すが、司が分かるようなジェスチャーとする術を知らない。

「これはね、あの日の次の日に浜に打ち上げられていたんだ。捜索隊の人が見つけてくれてね。前日まではどんなに探しても真有の身に着けていたものなんて見つからなかったのに、次の日には何事もなかったみたいに流れ着いていた、って」

 たった一日。その短さにびっくりする。表情を見たのか、司は言葉をつなぐ。

「ほんとだよ、当の本人は今の今でも見つかっていないっていうのに、ね。あんなに暑かった夏が終わって涼しい風が吹き始めた頃、捜索隊の人が引き揚げていった。もう亡くなった扱いにする、っておじさんとおばさんから聞かされたときは泣いちゃったよ。でも――」

 司の言葉が詰まる。息を吸う音が聞こえた。

「こうして今来てるってことは、そういうことなんだよね」

 自分で振り返ってみても今まで何をしてきたかはあやふやだったが、今日の不思議なことの連続を見る限り、私は死んでしまっているのだろう。私の体が見つかっていれば、何か違う今につながっていたのかもしれない。

 それじゃあ目的のサンダルを。そう思って手を伸ばす。

 すると、司の言葉が遮った。

「ねえ、このサンダルを返すの、少し後でもいい? 絶対に返すから」

 ――うん。

 不思議に思うが、了承する。

 よし、と彼が言うとポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。

「それなら、連れていきたいところがあるんだ」

 司の指先には自動車のキーの輪っかがかかっていた。



「目的はこれで達成できるけど、タイムリミットは今日の夕陽まで何でしょ? それならもう少し一緒にいたいしね」

 車窓に流れる町の様子を見ていると、細かな変化があちこちに見られた。防音シートで覆われていたはずのアパートがすっかり新しくなっていたり、車が通ってなければ横断し放題の道にガードレールが新設されていたり、シャッター街の中に場違いなほどオシャレな喫茶店が出来ていたり。探そうと思えばいくらでも見つけられそうだった。

 海に連れていってもらって。

 影の声を思い出すが、車に乗せてもらっている今、言えばすぐにでも連れていってもらえるだろう。なので、司の連れていきたいという場所に身を任せていた。

「そういえば、おじさんとおばさんのところには行かなくてもいいの?」

 運転席に座る司が切り出す。お父さんのしていたことを彼がするようになっている。そう思って時間の経過を感慨深く思っていたときだった。

 うん、ともううん、とも答え辛い。

 確かに、両親のところに行きたい気持ちもある。しかし、あの紙をくれた影が提示したのは司のところだけ。

 答えに窮していると、彼が口を開いた。

「正直に言うと、おじさんおばさんが今どこにいて何をしてるか、ちっとも分からないんだ」

 語ったのは、両親の話だった。

 両親は私の消息不明に深く傷つき、まともではいられなくなったそうだ。いつの間にか引っ越しをして、行方知れずとなっている。連絡先は変更されていて、私のことに関するあらゆることと自分たちを切り離したようだった。

「……それで今はどこで何をしてるかも分からない。ごめんね、連れていけなくて。それに――こんな話も聞かせちゃって」

 緩く首を振った。これは他でもない、私のせいだ。私が彼らを変えてしまった。

 いつの間にか車は山道の中を走っていた。舗装はされているが、上り坂が長く続く。

 そう言えば、どこへ連れて行ってくれるのだろう。

 山間の停止信号で止まったところでどこへ行くのかを聞くために、道路を指差したり手のひらを上に向けて両肩を上げたり。

「このジェスチャーは……なんだろう?」

 さすがの司にも私の意図が通じなかったか。諦めてシートに背中を預ける。不服そうな顔もおまけに付ける。

「もうちょい待っててね。そろそろ着くから」

 目的地は分からないが、あともう少しと聞くとそれで満足した。

 停止信号がチカチカと眩い点滅を繰り返す青丸となり、車が坂道をゆっくりと走り始める。

 そういえば下り坂も多くなってきたな、と思い始めた頃。太陽の光が着々とこちらの顔を覗き始めているとき。

「あ、ほら見えてきた」

 司が顎で前の方を差す。

 同じ背丈の家屋が立ち並ぶ。新しそうなものから少し古そうなものまで。この町の人々の生活がこの場所に根付いているようだった。だが、そこに私たちの住宅街と大きく違うところがある。

 海。

 ――海に連れて行って。

 もう発する必要のない言葉を、司に伝える。

「なんだ、書いてたの。言ってくれればよかったのに」

 彼が嬉しそうに笑い声を上げる。それにつられて笑ってしまう。そこへ声が乗らないのが胸を痛めた。



「車多いねえ。やっぱりお盆休みだからかな」

 どうやら目的地に行くためには山の方に行くらしい。司は車が多いと言うが、それは対向車線の話でこれから向かう車はサイドミラーの限りだと一台もいない。警備の人に誘導されるがままに道を駆け上がり、第二駐車場へ。

 レバーを忙しなく動かし、後ろを何度も振り返りながら、最後はガクンと軽い衝撃を伴ってコの字の枠内に車が収まった。

「はい、到着」

 車から出ると涼し気な風が体を吹き抜けた。

「ここ、浄土ヶ浜って言うんだ」

 駐車場に入るとき、車の窓から看板が見えていた。

 浄土ヶ浜。心の中で繰り返した。

 ただ、すでにピークの時間帯は終わっているようで、観光客らしき人たちは引き返してきている。それに、太陽がだいぶ傾き、光が熟れているように赤みを帯びている。

「行こっか」

 その浜に行くには、駐車場まで上がってきた高さ分を降りなくてはいけないらしい。目の前には林の中にひたすら下へと降りていく、丸太の敷かれた階段が横たわっている。

 これは帰る道のりが大変だな。そう思って、その心配がいらないことがどうしようもなく寂しく感じた。

 階段の最終段から降りると、アスファルトから地続きで海が見えた。見ようによっては道路からそのまま海へ続くようで、写真に収めたいくらいいい眺めだった。そこから歩くと欄干がアスファルトと共に続く道へ。手すりから身を乗り出せば、透き通った海の水から海底に敷き詰められた石が見える。水面に夕陽が反射して、目にべっとりと残像が張り付く。

「あれだ」

 司の言葉に、波が小さく音を立てて打ち付ける波打ち際から彼の視線の先を追う。

 一つ一つを磨いてから波打ち際に置いたような真っ白な石で構成される浜。空の色と見紛う透き通った青色の海。さらに、浜と同じ色をした荒い岩肌を見せる岸壁。そこには松の緑が新緑の枝葉をたっぷりと蓄えて映えている。

 浜の白、海の青、岩に生える松の緑。それぞれのコントラストがその他の色を強調し、一つの光景として収まっている。

「さながら極楽浄土のごとし」

 隣に立つ司が頭の上から口にする。

「昔、ここを訪れたお坊さんが一目見て感動して、そこから名付けられたのがここみたい」

 司は波がすぐそこまで来ているところまで歩いて行き、その場に座った。

「大丈夫?」

 ――うん。

 司のことだ、心配してくれていたのだ。だが、不安はない。彼と一緒に居られることで不安感が消えゆくのを感じる。

 何より、海を悲しい思いで完結させたくなかった。

 歩み寄り、ちょこんと座る。並んで座っているはずなのに、頭一つ分彼とは差がある。

「ここの景色がすごい、ってことを見せたかったのはそうなんだけど、それ以外にもちょっとあってね」

 司は白い岩肌の間から覗く遠い海の先を見やった。

「まだ真有の体が見つかっていない。もしかしたらサンダルみたいにひょっこりと出てくるかもしれないし、もう二度と帰ってこないことも、ないとは言えない。でも、海は全国、なんなら全世界つながっている。そして、つながった海の中に真有が必ずいる。その海が各地を結ぶ中で、浄土って名前のつくここはとっても意味があることなんじゃないか、って思うんだ」

 司が振り向く。

「真有がちゃんとここみたいな浄土に行けたら、いや浄土じゃなかったとしてもあっちでうまくやっていたら、俺はそれだけで救われるんだ」

 司は変わっていない。

 口下手なりに持ちえる言葉をかき集めて、表情と気持ちで話す。話すというより、伝えるという彼だった。生前、私は司のように私の本心を彼に伝えることができただろうか。

 おそらく、できていない。私は彼のように不器用ではない。器用だからこそ、いらぬ消極性、取るに足らないはずの不安が頭をよぎり、思考をかき消していく。

 だが、それらを取り払ったものがここにある。

 自身が紡ぎ、磨き上げた不純物のない私自身の言葉。

 ――こうしてまた会えたことがとてもうれしいです。本来海の中で終わった私の人生が、司に会えることで終わりを上書きできることが、本当に、たまらなくうれしいんです。まず、第一に伝えたいことがあります。それは、事故は全部私が原因で始まり、結果私が被害を被った、自己完結の事故だったということです。司はその場に居合わせただけ。それともう一つ、何より司が冷静で大人に助けを求めたこと。これはとても良い判断でした。最悪の事態の、二人とも流されて溺れるということは避けられました。私のせいでおじさんとおばさんが悲しむのは心の底から申し訳ないので、本当によかったです。

 ――でも、あれから何年も経ち、それでも私はあのままで、司がどうなっているのかがとても不安で、人が違ったように性格も見た目も分からなくなって、会えなくなることが不安です。どうでしょうか。でも、一目見れば本人と分かり、変わらないところを見つけられると思います。そんな自信があります。それでも、私がこのままで、あなたが成長していくという事実を考えると、何か言いたくなる気持ちが抑えきれなくなります。皆の中で私は写真の中の人物となって、性格を忘れて、思い出を忘れて、どんな声かも忘れられていくはずです。なので、司には憶えていてほしいんです。よろしくお願いします。

 ――最後に、アドバイスです。言いたいことは、その場で言った方がいいと思います。口下手なりに伝え方を心得ている司にわざわざ言うことではないかもしれませんが、その時の気持ちを大切にしてこれから長生きしてください。

 紙から目を離し、司を見る。

 彼は目に涙をためていた。流すまいとしているのか、鼻をすすりながら口から吐息を漏らしている。

 その顔を見ていると、私も目元が濡れて、鼻水が出てこないように啜るのに精一杯となった。

 夕闇が近づいている。



「でも寂しいなあ。また行っちゃうんだもんなあ」

 呼吸を整えた司は、海とは反対側、山の方を見上げて言った。

 そろそろ別れのときが近かった。日本海側なら夕陽が海に沈むところが見られるだろうが、こちらは日本海側なので山側に日が沈み、私の背中から海に連れて行かれそうなほど影が伸びる。

「あ、そうだ。サンダル」

 司が肩から提げていたカバンから片っぽだけのサンダルを取り出した。それを取り出したその時、カバンの紐にサンダルの先がひっかかり、こちらへ差し出すための力が、手元から外れかけのサンダルに乗る。

「あっ」

 司が声を上げたのも束の間、サンダルが彼の手から離れて宙に浮いた。そして、次の瞬間には波打ち際にぽとりと落ちた。サンダルが浮力に掲げられて水面に顔を出したが、すぐさま引き波に攫われて手を伸ばしても届かないところまで漂っていってしまった。

「うわ、どうしよ……」

 ――ううん。

 慌てる司の肩に手を置き、そう答える。

 サンダルを返してもらうこと。それは誰にでもない、私に対して。それにもうそろそろ――

「本当にいいの? それなら――あっ」

 司の驚いた視線が私に向かっていることに気が付き、一拍遅れて自分の体を見る。

 夕闇に溶けていくように、体が透けてきている。やっぱり。これがタイムリミット。瞬時にそう関連付けた。

 そうだ、忘れてはいけない。

 彼の前に紙を突き出す。今の私の気持ちの全てである、この紙。

「え? これ……いいの?」

 紙と私の顔とを交互に見る司。

 腕を引っ張り、彼の手のひらに紙を乗せてから指を抑えて畳ませる。そして、渡しておきながらではあるが、紙を覆って山の上の方の駐車場を指差す。

「……今は見るな、って?」

 ――うん。

 いたずらっぽく笑って言う。司はつられて楽しそうに笑った。

 もう司に伝えられることはあらかた言ってしまったのだ。その行動が何を意味するのかを察してか、彼はありがとう、と短く言った。

「忘れられないお盆になったよ。来年は来てくれる?」

 ――ううん。

 緩く頭を振る。直感ではあるが、これが最後という気がしていた。それに、司にはすでにいない私のことをもう一度と期待させるようなことはしたくない。

「そっか。うん、そんな気がしてた」

 司が乾いた笑いを向ける。

「ありがとう。じゃあね、真有」

 どういたしましても、こちらこそも、ありがとうも。全部書いていない。書くべきだった、という後悔がよぎる。

 でも、これは書いてある。

 ――長生きしてね。

 最初にペンを走らせた文字。囁き程度の小声だったが、司は強く頷いて応じ、精一杯の笑顔を見せてくれた。

 太陽が山に消え、夜の闇だけがそこに残った。

 海面を漂っていたはずのサンダルは、いつの間にかなくなっていた。波は穏やかなので、沖へ行ったわけではないことは確かだった。

 いまだ寂しい片足を思って、迎えに行ったのかもしれない。そのはずだ。



 一人、駐車場まで歩いて行ってキーを開ける。

 助手席には誰もいない。運転席に座り、ドアを閉めると鈴の音が鳴った。

「やっぱりそうだよな、今年だもんな」

 指先で感触を確かめるように撫で、真有から渡された紙をハンドルの前で広げる。

「これ――」

 そう言うと思って。彼女の声が頭の中に響く。

「さっきの、読み上げてた内容、そっくりそのまま」

 声に出すと文字は消える。真有自身の口から語られたルールの中にあったはずだ。それが示すように、片側一面は筆圧さえも残っておらず、彼女の存在を夢だと証明している。

 それに反して、裏側にはびっしりと文字が所狭しと並ぶ。そして、その一言一句が真有が自分に宛てて読んでいた内容と全く同じだったのだ。さらに、その片側ノート一枚分使った文章の周りには、うん、ううん、と無数の受け答えの言葉が詰め込まれている。

 思わずふふっ、と笑い声が漏れたところで、それ以外に下に書かれたものがあることに気が付く。

 ――こっちは読みません。私がいた証をどうかいつまでも。

「本当に律儀」

 くしゃくしゃに歪んだ顔と詰まらせた声で呟く。はあっ、と震える声のまま息を吐き、ルームミラーから下がる鈴を撫でた。

「お前もいてくれたらな。あんなに可愛がってくれたんだし、お礼くらいあっちで言っておけよ」

 真有からの手紙を助手席に置き、エンジンをかける。 



「手紙を持ち帰らなかった!?」

「うん」

 前から差し込む光が眩しくて仕方ないあの場所へ戻ってきてすぐ、私は影からお叱りを受けていた。

「確かに元々約束してたサンダルは返してもらってるからいいけど、あくまであの紙はそれを伝えることが本来の目的で、司に伝えることってのはおまけだから。しかも、それは言葉にして言うことに意味があって、それを遺してくるっていうのは現実世界に物が残るっていう形で干渉することになるんだよ。それはダメってことになってるし――」

「でも、何も残せずに私は死んじゃったわけだし、何かは司のために置いていきたかったんだよ。それに、そのことがダメとは言われてなかったし」

「え? 言ってなかった?」

「うん。その都度説明する、って言って、その都度が来なかった」

「そんな屁理屈を……あーあ、せっかく僕の分を譲ってあげたっていうのに。監督不行き届きで怒られちゃうよ」

 影がぼやく。

 その時、陰の中に赤い丸いものを見た。そこにはさらに緑色の細い星のようなものもある。

「――トマト?」

「うん? ああ、これ? なんだ、今頃」

 影が呆れた声色で言う。

「これは精霊馬。現行のものだとキュウリの馬、ナスの牛。でも、それだけじゃ人員不足、ってことで、夏野菜のトマトが新たに選ばれた。でも、真ん丸の動物なんてそういない。だから、これみたいに猫の鈴、ってことにして始まったんだ。意味は確か、彷徨う者の存在を周りに知らせるため。まだ始まったばかりでナスやらキュウリやら先輩たちから教わるばっかしだけどね」

 その瞬間、影としてしか見えていなかった真っ黒のそれが、光の当たり方が変わったことで輪郭が露となる。

 猫だ。それも毛並みまで鈍く光る黒猫。首には飼い猫の証である鈴の代わりに、熟れて真っ赤なミニトマトが下がっている。

「あれ、司のところにいた……」

「もう、今更? せっかくの権利の譲りがいがない……猫撫で声を書きまくって、司に可愛がってもらおうと思ってたのに」

「そんな、あなたらしくもない」

 四足の彼がおかしそうに笑った。

「ま、でもこれも今年限りだからね。司のところも今年でミニトマトの栽培やめちゃうらしいし、お供えされなくなるから」

「うん、それでいいの」

「あれ、意外。来年も、って言いだすかと思った」

「ちゃんと私の伝えられることは言えた。一度チャンスを与えられただけありがたいくらいだよ」

「そ。そんならよかった」

 ぶっきらぼうに黒猫は言う。

「それじゃあ、早く行こう。もうサンダルは揃ったでしょ」

 ふと足元に目線を投げかける。確かに、サンダルが両足にはまっている。足は元通りとなっていた。

 あーあ、先輩たちにどう説明しよう。黒猫がぼやく。

「サンダル、そのままにしておいてもよかったのかな」

 即座に黒猫があり得ない、とでも言いたげな顔をして口を開いた。

「何言ってるの、これで未練がなくなったんだよ。晴れて極楽浄土の始まりさ」

「ふーん、浄土ねえ。どっちの方の浄土がいいんだか」

「当然こっちだよ。当たり前じゃん」

「これから怒られるのに?」

「……やめてよ」

 人と猫。二つの影が光の先に消えた。

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