第2話 人魚の涙 (3)
「リードさん」
「あっ、フォーレスト先生!」
リードはアイザックに気づくと、勢いよく立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございます! もう何とお礼したらいいか」
アイザックは鞄からペンと二枚の書類を取り出すと、その書類の一枚ににスラスラと書き込みを入れ、リードに手渡した。
「お礼なら簡単です。今そこに今回の依頼料金を記入したので、そこに書かれてある口座に振り込んで頂ければと。そしてこの書類に同意のサインを」
「え、あ、はい!」
リードは戸惑いながらも二枚の書類を受け取り、内容に目を通すと、アイザックが指定した金額を見て、顔を引きつらせた。しかし、いったん瞑目し、深呼吸をしたあと再び目を開けると、覚悟を決めた表情をして頷いた。
「分かりました。必ずお支払いします。ええっと、こっちの書類にサインすれば良いんですかね?」
「はい、そうです。ペン、使います?」
「あ、はい! ありがとうございます」
「待って!」
リードがアイザックからペンを受け取った直後、今まで黙っていた人魚の彼女は、書類をリードから奪い取った。
「マリスさん?」
リードはびっくりした顔で彼女を見たが、マリスは構わず真剣に書類に書かれてある文章を目で追った。
「……ダン、魔術師から渡された契約書はしっかり読まなくちゃダメよ。でないとどんな不当な条件を飲まされるか分かったものじゃない」
マリスはアイザックをひと睨みする。さっきまで虫の息だった者がよくそんな強気な態度を取れるものだと、アイザックは呆れた。
「……お言葉ですが、私が今日ここに赴いたのは仕事を依頼されたからです。そして依頼主である彼が満足できる結果を出しました。私はただ、成した分の仕事に見合う対価を求めているだけですが、何かご不満が?」
「あ、いえ、そんな!」リードは慌てて首を振った。「大丈夫ですよ、マリスさん。フォーレスト先生は悪い魔術師じゃないですよ。現に、貴方や他の皆さんの命を救ってくれましたし」
「……そのことに関しては、確かに感謝してる。でも、命の恩人が必ずしも聖人とは限らない。それに、フォーレストって、あの……」
マリスの疑心の籠った目を見て、アイザックはため息をついた。やはり中途半端に自分の姓を知っている長命種がいると面倒だ。ここには周りの目があるというのに、余計なことを喋らないでほしい。
「金額に不満があるのでしたら交渉しても良いですよ」
アイザックは近くにあった椅子を引き寄せて座り、ゆったりと足を組んでリードに向き合った。
「例えば、今回の事件の詳細について情報提供して頂ければ、幾らか負けても良いです。リードさん、貴方は警察官ですよね? 今朝、サイレンズ湾で起きた出来事について何か知っているんじゃないですか?」
「え、あ……まあ、多少は。でも、マリスさんが……彼女が怪我をしたと知ってすぐに現場を離れたので、詳しいことはまだ何も……」
リードは自信なさげに頭を掻きながら、椅子に座りなおした。
「知っていることを話して頂ければ結構です。今回の依頼料はその情報の量の分だけ値下げして差し上げます。言っておきますけど、私がこのような提案をするのは非常に稀です。どうですか? できればマリスさんにもご協力願いたいのですが」
チラッとアイザックがマリスの方を見ると、彼女は鋭い視線を返してきた。光るさざ波のような瞳が彼を映す。
「……何のためにそんなこと知りたいんです?」と彼女は聞いた。
「単なる好奇心です」
「情報をマスコミにでも売るつもり?」
「いえ、単なる個人的な好奇心です」
マリスはしばらくアイザックを不審げに見つめたが、やがてまた口を開いた。
「……何があったか話してもいいです。その代わり、依頼料以外の報酬を後から一切求めないと契約書に明記してください。あと、私も払いますから、料金の交渉の際には私も口出しさせていただきます」
「え⁉」リードは目を見開いた。「いや、大丈夫ですよ! 依頼したのは俺ですし」
「でも実際命を繋いでもらったのは私たちだから。寧ろ、本来私たち側が対価を支払うべき立場にある」
その自覚はあったんだなとアイザックは思いながら、リードに渡した契約書とペンを彼の手から抜き取り、契約書にマリスの言った条件を付け足した。
「構いませんよ。元から重ねて要求などするつもりはありませんでしたし。マリスさんは私たち魔術師に良い印象をお持ちでないようですが、少なくとも私は、二人に理不尽な条件を押し付ける気はありません」
アイザックは手帳を取り出し、ではどうぞと二人を促すと、二人は一度目を合わせ、リードがまず口を開いた。
今朝、六時十五分辺りにサイレンズ湾に何かが落ち、爆発が起きたという通報があった。警察チームが何組か派遣され、リードもそのメンバーのうちの一人だった。現場に着き、調査を始めると、大勢の人魚たちが助けを求めているのを発見した。人魚たちが負った怪我を見て、事の重大さに気づくと、すぐに救急車が呼ばれた。リードは怪我をした人魚たちの中にマリスもいると知ると、上司からの許しを得て、彼女に付き添うことにしたのだ。
「俺が知ってるのはそこまでです。すみません、全然有力な情報とかなくて……」リードは申し訳なさそうに言った。「あ、でも確か……遠目からしか見てないんですけど、なんか破片のような物が海に浮かんでいるようでした」
「破片?」
「はい。何の破片かは分からないんですけど」
「……乗り物みたいだった。飛行機とは違う形をしていて……もっと丸くて。あれは、潜水艦? でも潜水艦は空から降ってこないし……」
マリスも俯きながら、ポツリポツリと思い出すように話し始めた。
「水の揺れを通して爆発音を聞いて……私たちは何があったのか様子を見に行った。たくさんの破片や部品が散らばってて、最初は飛行機が落ちたのかと思って……もしそうなら乗客を助けなきゃって。でも、違った……人間の乗客なんて一人もいなかった……」
話していくうちに、マリスの顔はどんどん青くなっていった。膝の上で両手を握りしめ、体の震えを抑えようとしているようだった。それを察してか、リードは彼女の手を取り、落ち着かせようとした。
「何が起きたのか分からなかった。何か大きな黒い塊が沈んできたかと思ったら、近くにいたみんなが……一瞬でバラバラになって……」
「黒い塊?」アイザックは身を乗り出した。「それは生き物でしたか? もしそうならどんな?」
マリスは首を振った。「分からない。確かに生きてたけど、あんなの……私でも見たことない。大きさはそこまでないにしても、まるで古代のシーモンスター……」
「シーモンスター? ではどちらかというと爬虫類のような見た目をしていたんですか? それとも魚類? 他に特徴は? 大きさは具体的にどれくらいあったんですか?」
「爬虫類かは分からない。魚類には見えなかったけど。大きさは……ホホジロザメぐらい……?」
「皮膚の感触や色は? 体毛はありましたか? 鱗は? 鰓呼吸しているようでしたか? それとも肺呼吸?」
「う、動きが早くてそこまでしっかり見えなかった。そんな余裕もなかったし。色は黒くて……あ、でも少し赤かった気もする。皮膚は硬くて、毛はなさそうだった」
「では足は何本ありましたか? 爪の形は? 尻尾はありましたか?」
「足は……何本かあったと思うけど。四本……いや、六本? 分からない。尻尾もあった。私たちのとは違って尾びれのない長い尻尾。爪はとても鋭かった。歯も。大きな口にたくさんの太い針みたいな歯が並んでて……近づきすぎたら、もう終わりだった……それでみんな……」
「なるほど。では水中でどのような動きをしていましたか? 足が数本あり、鰭のない長い尻尾を持っていたなら、動きはどちらかというとワニのようでしたか? あー、あと視力と嗅覚の鋭さはどうでした? まあ、これだけのお仲間が襲われたんですから、追跡能力があるのは明白ですが」
「あの、フォーレスト先生」
「ん?」
アイザックは手帳にペンを走らせている手を止め、顔を上げると、リードと目が合い、彼は心配そうにマリスの方を見た。彼女は目線を下げたまま、真っ青な顔をしていた。
「すみません、今日のところはこれ以上は……」
彼が言おうとしていることを理解し、アイザックは立ち上がった。
「ではこの件についてはまた後日話し合いましょう。一応サインだけ頂いても?」
「はい、もちろん」
リードは契約書にサインし、アイザックに渡した。
「俺の方から明日か明後日にでも連絡します。その間にもっと情報が手に入ればお伝えしますね」
「分かりました。では依頼料の件はそのとき改めて交渉するということで。あ、こういう仕事の連絡は基本メールで行っているので、出来ればそちらで」
アイザックは自分のメールを金額が書かれてある書類の隅に書くと、リードに手渡した。
「こちらの書類は持っていてください」
「あ、はい」
「それでは、また」
アイザックは契約書や手帳とペンを鞄に手際よく仕舞うと、颯爽と病室から退出した。得た情報を元に調べたいことがまだ山ほどある。
「あ、あの!」
後ろからリードの声がして、アイザックは振り返る。何故か後を追ってきたリードは、アイザックの前で止まり、頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました。時間を取らせてしまってすみません。あの、どうかマリスさんのことを悪く思わないでください。彼女は、その……詳しくは言えないんですけど、あまり魔術師に良い思い出がなくて……」
「そのようですね。ご心配なく。別に気にしてませんよ」アイザックがそう応えると、リードはホッと息をついた。
「あの、依頼料の件もすみません。本当は全部払うつもりだったのに、気を遣わせてしまって」
「いえ、別に気を遣ってなどいませんよ。元々サイレンズ湾で何があったのか気になっていましたから。情報を求めたのはこちらなんですから、その分の対価を返すのは当然のことです。リードさんにとっても悪い話ではないでしょう?」
「それはまあ、そうなんですけど。でも俺、本当に感謝してるんで。やっぱりどれだけお金を積もうと、命に代えられるものなんてありませんから」リードは微笑みながら言った。
「……どうでしょうね」
「え?」
「未だに闇市場で命が金で買われる事はありますし、最近では魔法や人工的な技術で新しい命を作り出す研究も進められています。金を積めば命を得ることは可能です」
リードは呆気にとられた様子で、少しの間考え込むように俯いた。
「それは……生憎そうなのかもしれませんが、それらは倫理に反した行いです。命は本来、お金よりずっと重く、大切なもので、決して軽く扱って良いものではありません。それに、失われた命は、どう頑張っても金では取り戻せないでしょう?」
リードの声は意外にも揺るぎなく、アイザックを見据える双眸は、強い正義感で満ち溢れていた。さっきまでの彼の雰囲気とは大違いだ。
「……今の技術では確かにそうかもしれませんね。今後どうなるかは分かりませんが。ところで一つ疑問に思っていたんですが、リードさん、貴方はどこで私のことを知ったんですか? 私のことを知っていたから依頼しようと思ったんですよね? 一応ネットに私の名前は載っていますが、貴方のような方から依頼を受けるのは珍しいもので、少々気になりまして」
「え? ああ、俺はその……仕事場でちょっとした噂を聞いて。どんな患者でも治療してくれる魔術師がいるらしいって」
突然の質問に、リードは戸惑いながらも応えた。
「その時は本当かどうかは分からなかったし、すぐに忘れてしまったんですけど、今朝、マリスさんたちが怪我をしたのを知って、ふと思い出したんです。フォーレスト先生の名前を。それでまあ、藁をもつかむ思いでネットで調べて、フォーレスト先生に電話をしたんです」
「なるほど。やはりそういうことでしたか」
「はい。けど、今となっては、フォーレスト先生に依頼して本当に良かったと思ってます」
リードは誠実さを体現するように顔を綻ばせた。アイザックはそんな彼を少しの間見つめた。
「……確かに、結果的に今回リードさんがとった行動は正解だったと言えるでしょう。私ほど治療を正確に素早く行える者は少ないので。しかし、今後は依頼をする前に、予め依頼先の魔術師のバックグラウンドを調べておくことをお勧めします。相手がどのような経歴を持っているのか知らずに依頼するのは軽率だと言えます」
「あ、はい、そうですよね……」リードは頭を掻きながら眉尻を下げて笑った。
「……まあ、また何かあればご連絡ください。では、私はこれで」
「え? あ、あの――」
まだ何か言いたげなリードをよそ目に、アイザックは今度は振り返らずにその場から立ち去った。