第2話 人魚の涙 (2)
そして三十分後、人魚の患者全員の治療が無事完遂された。看護師たちは人魚たちの為に衣服を用意すると、彼、彼女らを病室へ移動させ、念のため検査することにした。アイザックも一応それぞれの検査に立ち会った。もちろん、彼は自分の仕事の出来栄えに自信があったが、周りに納得してもらうためには致し方ない過程だと受け入れた。
予想通り、人魚たちの体に異常はなかった。治療は成功だ。しかし、致命傷で死にかけたトラウマのせいか、もしくはアイザックが病院に到着する前に息を引き取った仲間のことを思ってか、患者たちの精神状態の方は安定とは程遠いようだ。放心しているもの、静かに泣いているもの、お互いを慰め合っているものなど、反応は様々だ。生憎、精神面の治療はアイザックの専門外なのでどうしようもない。代わりにロビーで泣いていた女性二人が患者たちを慰めようとしている。どうやら彼女たちも人魚であり、患者たちの仲間のようだ。
まあ、命ある限り何とかやっていくだろう。それよりあの勿体ないほど流している涙をサンプルとして持って帰りたいが、タイミングを見計らって聞けば分けてもらえるだろうか。アイザックは病室の入口のそばで様子を伺いながらそう考えていると、医者の一人が彼の方に歩み寄った。五十代か六十代ぐらいの白髪の男。確かこの病院の院長だ。
「フォーレスト先生、本日は誠にありがとうございました。お陰様でここにいる患者たちを救うことができました」院長はアイザックにペコペコ頭を下げた。
「いえ、私はただ自分の仕事を全うしただけです」
「いえいえ、ご謙遜なさらず。本当に助かりました。それにしても、魔法をこんなに身近で見たのは初めてだったのでびっくりしましたよ。あんな大きな傷もあっという間に治せてしまうなんて、まさに奇跡のような力ですね」
院長の言葉に、アイザックはピクリと眉を動かした。
「……魔法は奇跡ではありません。学問です」
「学問?」院長は顔に疑問符を浮かべ、聞き返した。
「はい。私たち魔術師にとって魔法は文字を読んだり、書いたり、数式を解いたりするのと大差ありません。生まれた時から自然と持ち合わせている能力で、適切な知識と経験を積めば、誰もが使いこなすことができる。まあ、もちろん、個々の生まれ持った資質によって能力差は出ますが」
院長はしばらく呆然とした後、アイザックの言葉を飲み込もうとするように頷いた。
「な、なるほど。いやー、魔法は私たち人間にとって摩訶不思議なものでして。そもそも私たちと魔術師では住む世界が違うというか……あ、いや、もちろんそれは悪い意味ではなくて――」
「まあ、そうですね。人間は魔術師とは違い、魔法が使えませんから。一般の人間には理解しがたいものなのでしょう」
どこか突き放すようなアイザックの物言いに、院長は首を摩りながらぎこちなく笑った。
「ところで人魚たちのことですが、一体何があったんですか? 何かに襲われた様な怪我をしていましたけど」
アイザックが話題を変えると、院長は今度は難しい顔をして腕を組んだ。
「それが……実は我々もそのことについてまだ何も聞かされていないんです。今朝、六時半ぐらいだったかな? ちょうど太陽が地平線から顔を出した時に、警察から電話があって、サイレンズ湾の人魚たちが重症を負ったとの知らせが来たんです。警察は人魚たちの怪我の具合と救急車を何台か出してほしいという要望だけ言って、後は何も説明してくれませんでした」
「ほう……そうでしたか。警察から……」
「患者たちに聞いたら何かわかるかもしれませんが……皆さん、今は精神的ショックでまともに話せる状態ではないようなので……まあ、無理もありません。ここにいる患者たちの他にも一緒に運び込まれたお仲間の方々がいたんですが、残念ながら病院に着く頃にはもうお亡くなりになられていて……」
「何人死んだんですか?」
「え? えー確か、十人だったと」
「その十人の遺体は今どこに?」
「ここの遺体安置所です。後でご家族の方々に確認してもらわなければならないので」
「見せていただいても良いですか?」
「……え?」
「遺体の状態を見たいんです」
「え、あの、どうして――」
「ダメですか?」
「い、いや、ダメというか……あの、理由をお聞きしても……?」詰め寄ってくるアイザックに動揺しながらも、院長は尋ねた。その質問に、アイザックはさも当然のように答える。
「患者たちの傷跡から推測すると、彼、彼女らを襲った者は鋭い歯と爪を持っているようです。荒々しく引き裂かれたり、牙を突き立てられたような跡がありました。私は大学で生物学を専攻しているので、歯形や爪痕から生物の種をある程度推定することができますが、ここら辺の海に生息している生物で、あのような跡を残せるものは心当たりがありません。ですから遺体の方も一応調べてみたいと思いまして」
「あー……なるほど。そうですねー……そういう調べ事はやはりご遺族の許可が必要ですから。それに、警察の方々も後で検視を行うかもしれないので……」
アイザックは手を顎に当て、少し考えてから頷いた。
「……それもそうですね。失礼、つい興味が湧いてしまって」
「いえいえ! 私たちも気になっていますから。そ、それにしても随分お若いとは思っていましたが、大学で研究もなさっているんですか?」
「はい、院生ですので」
「おー、そうでしたか! いやー素晴らしいですね。医者としてだけでなく、研究活動もなされているなんて」
「いえ、私は医者ではありません」
「えっ」院長は目をパチクリさせる。「違うんですか?」
「はい。私はヒーラーです。魔法での治療と、手と医療器具を用いた治療は異なりますから。あ、ご心配なく。ヒーラーとしての資格は当然持っていますよ」
アイザックは白衣のポケットからカードをスッと取り出し、男に見せた。
「ヒーラー……ですか。はあ、なるほど。そういう職もあるんですね」
「はい。今日はあちらにいる男性に依頼されて来ました。あの警察官の」
アイザックは視線で病室にいるリードの方を示す。彼はベッドに座っている長い髪の人魚の手を握りながら、彼女に優しく囁くように話しかけている。
「ああ、ダニエルくんか。そうそう、彼からフォーレスト先生のことを少し聞いたんですよ。もしかしたら力になってくれるかもしれないと。顔を真っ青にして、声を震わせて。きっとあそこにいる彼女の為に必死だったんでしょうね」
「……あの二人のご関係は?」
「詳しくは知りませんが、あの様子だとおそらく恋人同士なんじゃないですかね。微笑ましいですよね。彼女が助かって本当に良かった」
「異種族間での恋愛ですか。まあ、今時珍しくはありませんね。あまり理解はできませんが」
院長が温かい目で二人を見守りながら、アイザックはなるほどと思った。なぜ警察の人間がわざわざ自分に依頼をしてきたのか疑問に思っていたが、恋人を助けるためだったのなら理解できる。多くの生物は恋をするとドーパミンの分泌量が増加し、理性的に考えることができなくなるらしい。何にせよ、アイザックにとっては好都合だ。警官に恩を売っておけば、何かと便利だろう。アイザックは病室に入り、リードの元へ向かった。
アイザックが院長から離れて行くのを見て、近くで二人の様子を伺っていた外科医の一人が静かに院長の隣に立ち、小声で話しかけた。
「先生、本当に良かったんでしょうか。あの魔術師がここへ来るのを許可して」
院長はしばらく無言で病室の患者たちを眺めると、深いため息をついた。
「……まあ、結果的に患者たちを助けることができたのだから良かったんだろう。検査にも問題はなかったようだし」
「でも、あの男は魔術師ですよ? 魔法なんて不確かなものですし……今は大丈夫でも、数日、いや、数時間以内に患者たちの体に何か異変が起きるかもしれません。それに、この病院だって呪われてしまうかも……」
「もしそのような事態が起きれば、我々が責任を持って精一杯患者たちの治療に務めるしかあるまい。ひとまず今は最悪な事態を避けるためにも、彼の機嫌を損ねないようにしなければ。魔法と対峙する術なんて、我々にはないのだから」
院長の言葉に外科医は俯き、警戒した様子でアイザックに目を光らせた。その視線に気づきながらも、アイザックは無視を決め込み、リードに話しかけた。
またぶつ切りですみません! 今日中に(3)を投稿します!