プロローグ
暗い廊下の向こうに、何かがいる。それはギシギシと床を軋ませながら、一歩、二歩と近づいてくる。暗闇から徐々に浮かび上がる大きな図体。等身大レプリカでしか見たことがないが、シルエットは微妙にギガントピテクスに似ている。それが左右交互に体を揺らしながら距離を詰めてくると、赤黒いロブスターの外骨格のような色と質感がクリアになり、前へ突き出した頭部が、ヌルっと男の部屋から漏れ出す灯の中に入ってくる。ふと昔観た恐竜映画のワンシーンが脳裏を過る。ずらりと並ぶ無数の鋭い歯と、その間からゆっくりと垂れる粘ついた涎。
あー、このままではカーペットが汚れてしまう。男はそう思いながらも、目の前に迫りくる化物のような生物を観察するのをやめられない。彼を捉える四つの爬虫類のような目は、まるで紅蓮の炎を映し出しているかのような神秘的な色合いをしていて、そのギラギラと生命力に溢れる様に、男はどこか美しさを感じた。
唾液がポトリとカーペットに落ちる。すると、何かが焼ける音と共に細い煙が立ち上り、唾液の落ちた場所がマルーンから黒々しい石炭の色へと変わり果て、下の床が見える状態となった。驚いたことに、どうやらこの化物の唾液は酸性のようだ。しかも、かなり強い。こんな一瞬で物を溶かしてしまうとは、まるで濃硫酸だ。
念のため煙を吸わないようにしなければと、口と鼻を抑え、男は後ずさる。きっとその動きが相手を刺激してしまったのだろう。次の瞬間、化物は興奮した犬の如く先の尖った長い尻尾を振り回し、大口を開けながら男に飛び掛かった。
全く、どうして自分は今このような事態に陥っているのだろうか。久しぶりに帰宅したのだから、今夜はしっかりと睡眠を取ろうと思っていたというのに。こんな躾のなっていない客人を家に招き入れた覚えはない。男は頭の中で悪態をつきながら、手を前にかざした。