感悟
三月の東京に桜の雪が舞っていた。日本武道館の前でスーツの襟を直した時、彼はあの春の映画の半券をふと思い出した。
礼堂の天井画が陽光を蜂蜜色に濾し、卒業生たちの黒い学生服が散らばる音符のように見えた。振り向こうとした瞬間、背中を軽く叩かれた。浅黄の振袖の袖が手の甲を掠め、その色は桜の雨の中でも新雪の晴れ渡った提灯のように鮮やかだった。
「久しぶり」
彼女の声には十八歳の甘さが残っていた。髪結いに垂らしたリボンが風に揺れ、懐かしい笑顔は変わらない。ただ薄化粧の色合いが異なり、まつげのアイライナーの滲み方が、三年前教室で『ラブレター』を見上げていた横顔と同じ曲線を描いていることに気づいた。
記憶が突然刃物のように鋭くなった。あの秋のゼミで、彼女は常に後ろから二列目の席に座り、ノートを擦る鉛筆の音が教授の言葉の間を縫うように響いていた。ある日授業後、彼女のキャンバスバッグから文庫本が零れ落ちた時、拾い上げた『ノルウェイの森』の折り目から銀杏の栞が掌に舞い落ちた。
「映画に行かない?」
窓外の銀杏が石段を埋める頃、そう呟いた。梅雨の映画館で彼女の柑橘系の香りがポップコーンの甘さと混ざり、スクリーンの光が横顔を照らすたび、右の耳たぶの三つの小粒のほくろを数えた。
「卒業おめでとう」
声が現実へ引き戻す。桜色の爪に薄緑のマニキュアが微光を放ち、薬指に指輪がないことに気づいた途端、喉が締め付けられた。天井から鳩が羽ばたく音が、ある年のビルの谷間で驚き立った白鳥のようだ。
二度目に廊下を追いかけてきた時、彼女の手にした卒業証書の端が皺を寄せていた。「これ、あげる」差し出されたインスタント写真に、学士服の二人が浅草寺雷門でピースサインをしていた。日付は三年前の学園祭。あの日約束した提灯祭りが台風警報で流れてしまったことを、突然思い出した。
「実はあの時...」同時に口を開き、同時に黙り込む。耳後ろの茉莉花の香りが急に鋭利になり、銀の封筒切手のように時を切り裂いていく。鐘楼の時報が烏を驚かせた。
写真を受け取る際、彼女の小指の翡翠の指輪が陽光にきらめいた。その光景が冷水のように喉元まで迫っていた言葉を押しとどめた。桜の林へ歩き出す背中に、彼女の視線の温もりが残った。あの冬新宿の喫茶店で、マフラー越しに赤く冷えた耳を擦った感覚のように。
夕闇が濃くなる頃、哲学堂公園の桜の下でスマホを開く。恋人から赤いドレスの試着写真が届き、背景の楓が血のように紅かった。メッセージ欄に指を浮かせたまま、結局「卒業式終わった、帰る準備する」だけ打った。舞い落ちる花弁が振袖の写真に付き、明黄が暮色に染まる。
電車の轟音が遠くで聞こえた時、彼は悟った。物語のいくつかは未完成のまま封印されねばならないことを。掌のインスタント写真が桜の雨に滲んでいくように、真に生きているのは後ろのベンチでイヤホンを分け合うカップルや、コンビニ前で指輪を交換する卒業生たちの、些細で具体的な幸せだと。
風が吹き、最後の花弁が浅黄の袖を掠めて春の靄に消えた。スマホのロックを解除すると、恋人のボイスメッセージが届いた。「新幹線の駅弁は二人分買ってね」夜が優しく包み込み、未完の独白全てを四月の風に溶かす清酒へと変えていった。