【後編】
翌朝、布団の中で目がさめると、葵は声が掠れて出なくなっていた。
無理に声を出そうとしても、ピーピー、キュイキュイ、みたいな、掠れた音しか出ない。縁側で昼寝したり、夜中に冷たいシャワーなんか浴びたから風邪でもひいたのだろうかと思ったが、喉の痛みは、まったくない。声が出ない以外は目が覚めてからずっと、頭がぼんやりしている。
「大丈夫? 葵くん」
あんなに酔っていた葉介は、朝起きると、普段通りだった。うらやましいことに葉介は二日酔いには、ならないタイプだ。
「……プキュ(葉介)」
頑張って、話そうとしても、やっぱり喉が枯れて上手く声が出せない。
「(……だい、じょう)ぶ」
声が出ないことと、頭がぼんやりする以外に不調はなく、体を動かす分には問題なかった。だから布団から出て無言のまま葉介と朝ごはんを食べた。
昨日、村長の奥さんに握ってもらったというおにぎりは、冷たくなっていた。けれど、鍋になる予定だった材料で作った熱々の味噌汁と一緒に食べると美味しかった。
「声が出ないって、風邪かなぁ?」
「キュ(わからない)」
食べ終わって葉介と食器を台所で片付けていると、おでこに手を当てられ熱を確かめられた。さっきまで洗い物をしていた葉介の手は冷たく心地いい。思わず、もっと触ってほしいみたいに葉介に抱きつき、首を傾げて葉介の顔を見上げた。
「ん? 葵くん、寒い?」
(……ち、がう)
なぜか朝から意味もなく、隣をくっついて歩く葵に葉介は何も言ってこない。恋人同士なのだから、別におかしくない。それでも、ここにくるまではセックスが出来ないと言って離れていたのに、急に距離が縮めば、普通は不思議に思う。
葉介は今の状況を当然のように受け入れていた。
葉介と少しでも離れると不安だった。
なんとか伝えようとしたけど、声は、やっぱり出なくて、音にしかならない。会話にならないのがじれったくて、部屋まで戻りカバンの中から携帯を持ってきて、文字を入力して、葉介に見せた。
――声が出ないだけ。どこも痛くない大丈夫。
「そっか、でも、風邪のひき始めで、もしかしたら急に熱が上がるかもしれないし、村長さんの家行って、薬ないか相談してみるよ」
葉介が村長の家に行くと言ったとき、びくん、と身体が一瞬震えた。
片時も離れたくない。
頭と身体が、ずっと理性と本能の間でせめぎあっていた。身体は、離れたくないと葉介にくっついているのに、スマホの文字だけが正しく今の気持ちを伝えている。
――本当に、大丈夫だよ。俺のことは、いいから、せっかくだし勉強続けて。
「でもなぁ、今日は葵くんと、ずっと一緒にいたいんだけど、ダメ?」
――駄目。昨日だって、酒飲んで、ろくにノート進んでなかったじゃん。
「あ、読んだの?」
昨日、帰った時に玄関に置きっぱなしにしていた葉介のカバンから、ノートが外に飛び出ていたので朝に目を通した。酔っ払いが書いたぐちゃぐちゃの文字で読めたもんじゃない。話したことだって覚えているかどうか。
――なんだよ、甘えん坊とか寂しがり屋のうさぎがいるって。せっかく遠い場所まで来たんだから、真面目にやれよ。
「あ、それそれ。ちゃんと村長さんに聞いた話だよ。たしか……そうそう。この村の兎性の人間には、三種類の特性があって、ごくごく一般的な兎の基本性質を持った人間の他に「寂しがり屋」と「甘え上手」な性格が色濃く出てしまう、特別な人間がいるらしい」
――特別って?
「この村で、兎性が生まれること自体は、よくあることなんだけど、特性が強く出ている兎性の人間たちは、特にお互いが強く惹かれあってしまうんだって、村長は『運命の番』だって言ってた」
葵は昨晩のことを思い出していた。村長の話が本当なら、この村に生まれた人間じゃない自分が、兎性になるはずがない。
けれど、もし、この土地に居ることがきっかけで兎性になってしまったんだとしたら? この村から出て行く人間は、多い。でもその逆は、少ないのだから、万が一ということもある。
心配なら葉介に相談すればいい。
けれど、今このことを言えば、せっかく葉介が楽しく研究をしているところに、水を差すような気がして気が咎めた。葉介は根拠もないとバカにしたりしないし、普通に笑って言えば喜ぶと思う。でも葵は怖かった。
自分の身体が自分のものじゃないような感覚だった。
いまの葵は「兎性」を笑って冗談のように言うことなんて出来そうにない。
葉介は葵が本気で怖がっていると分かれば、研究なんか放り出してすぐに帰ろうと言ってくれると思う。
小学生のとき幽霊屋敷へ遊びに行って、葵が大泣きしたときが、そうだった。葉介は、葵の手をしっかりと握って家まで一緒に帰ってくれたし、葵が泣き止むまで、からかったりせずに、怖かったねと言ってくれた。
だからこそ昨晩の出来事は、ただの自分の勘違いで終わらせたかった。
村の変な空気に当てられただけの葵の妄想で幻覚。現に、今は自分の身体から、うさぎの耳も尻尾も消えてなくなっている。
葉介は朝起きても、昨晩のことは何も言わなかった。
だから、これは全部、自分の妄想だと心に強く念じた。
なのに気を抜くとすぐに葉介にくっついてしまう。甘えて、もっと遊んで欲しいと思ってしまう。
――ほら、ご飯食べたんだし、もう行きなよ。
「うん、じゃあ、行ってくるね。夕方までには、帰るから」
なんとか甘えたな意思を断ち切って、葉介を玄関で送り出す。
葉介の身体から手が離れた瞬間だった。
葵の身体の中で何かが引き裂かれた気がした。
(大丈夫、葉介は、すぐ帰ってくるんだから、帰ってきたら)
――いっぱい『甘えれば』いいよ。
ぞくり、と体が震えた。
* *
ひとりぼっちの鬱々した気を紛らわそうと、縁側のある部屋で布団にくるまって眠っていた。村に来てから眠ってばかりの気がした。昨日、縁側で眠ったときは、なんだかふわふわして心地よかったのに、今日は全然気持ちよくない。それどころか、どんどん、身体の不調は増していく気がした。
(……寂しい、会いたい、もっと、近くに行きたいよ……葉介)
どれくらい眠っていただろうか、急に大きな雷の音で目が覚めた。いつもより周りの音が大きく聞こえ、体を跳ね上げるようにして驚いた。まるで近くで誰かに大声で怒鳴られたみたいな音だった。
もしかして本格的に熱が上がってきてしまったのだろうか。五感の過敏さ、寒気を伴う身体の違和感。なによりも眠る前に比べて頭が重かった。
外を見ると激しく降り出した雨が庭に水たまりを作っている。
葵は慌てて雨が部屋に入ってこないように、開けっ放しだった窓を閉めた。激しい雨音は窓を閉めても部屋の中まで聞こえてくる。
ふと、さっきの音が、頭上で聞こえたことを不思議に思った。
――人間が、頭の上で音が聞こえるわけがない。
さぁと血の気が引く音が聞こえた。
心当たりを確かめるように頭の上に手を乗せると、再びそこには消えたはずのうさぎの耳が生えていた。
「なん、で?」
さらには眠りに落ちるまでは声が出なかったのに、耳が生えた代わりに声は元通りになっている。
「……葉介」
いてもたってもいられなくなって、玄関先に置いてあった傘を自分と葉介の分を持ち村長の家まで走った。
道中にある小川が雨による増水でごうごうと大きな音を立てている。葉介のことが心配だった。
村長の家に着くと、葵の姿を見て村長は目を見張った。
「あの、葉介は」
「あぁ、さっきまで、ここに居たんだけどねぇ、雨が降る前に、山の神社に行ってしまって、まだ戻ってないのかい?」
「その神社は、どこですか!」
「この家の裏にある道をまっすぐに山の方へ向かうと看板があってな、道なりに進めば……しかし、お前さん、そんな体じゃ」
村長は、まじまじと葵の姿を見る。村長にも、この「うさぎ」が見えているのだと思った。
「すみません、葉介を探さないと」
ただの気のせいなんかじゃない。本当に、自分の頭には、うさぎの耳がある。葵は今すぐこの村を出ないと取り返しのつかないことになりそうで、村長が止めるのも聞かずに、山に向かって走った。
雨に濡れた細い山道は、傘を差して歩くのが難しく、何度も転びそうになった。村長が教えてくれた通り、数分歩いた場所に神社の方向が書いた木の看板があった。
きっと葉介は雨が降ったから、神社で雨宿りをしているのだろう。
そう思って足場の悪い細い山道を一歩踏み出した時だった。一瞬のことで、自分の身に起きたことが、すぐには把握できなかった。
気づいた時には、泥混じりの水たまりに滑って崖の下に落ちている。
「ッ……た」
幸いそれほど高い場所でもなく、地面が草むらだったこともあり、大きな怪我もなかった。そう安心したのもつかの間。立ち上がった瞬間、右足首に痛みが走る。
どうするか迷っている間にも雨はさらに激しさをまし、再び雷が落ちる音が山に響いた。
足を少しひねっていた上に、雨で斜面がぬかるんでいる。あまり足に負荷をかけるのはよくないと思い、崖をよじ登ることは早々に諦めた。
――早く葉介に会いたい。
雨に降られながら山道をよろよろと歩く。持ってきた傘は崖から落ちた時に折れてしまって、もう使い物にならない。だから痛めた足を庇うため杖代わりにした。
道なりに歩き、なんとか元いた場所に戻ろうとしたが、なかなか山の上へと続く道が見つからない。そうこうしているうちに雨はどんどん強くなっていく。
(どうしよう……)
このまま歩き続けると山の中で遭難してしまいそうだった。心細く不安な気持ちに押しつぶされそうになる。
もう動けない。
立ち止まろうとしたその時だった。雨が運ぶ土や草の匂いに混じって、急に甘い香りが漂ってくる。それは砂糖を煮詰めたような蜜の香りだった。
もう一歩も歩けないと思っていたのに、その匂いに誘われるように、ふらふらと歩を進めた。
はっ、と気がつくと、洞窟の前に立っていた。再び背後で大きな雷の音が聞こえて逃げるように、洞窟の中に急いで入る。
「――あお、い? なんで……」
洞窟の奥には、一羽の小さな黒いうさぎを抱いた葉介が、岩壁に背を預けて座り込んでいた。一体どこで、そんなサバイバル知識を身につけたのか、そばには立派な焚き火があって、洞窟内は想像していたよりも明るい。
「ッ、葉介!」
「あ、葵、その格好、怪我したのか!」
葉介は胸に抱いていたうさぎを、そっと横の落ち葉の上に乗せ、葵の手を引く。
崖から滑り落ちて、服はドロドロのびしょ濡れだった。傘を杖代わりに歩いていたのだから、葉介が驚くのも無理はない。見た目は満身創痍だが、足を少しひねった以外は、一刻を争うような怪我はしていなかった。
向かいあって座って、葉介の姿をみると、大雨になる前に洞窟に入ったのか、それほど濡れていない。葉介の無事な姿を確認出来て安心した。
「見た目はすごいけど、たいしたことなくて……、葉介に、傘持って来ようと思ったんだけど、崖から滑って落ちちゃってさ、骨は大丈夫。あ、でも傘は壊れた。せっかく迎えにきたのにゴメン」
「ばか、もう驚かすなよ、何事かと思った。葵が無事で良かったよ」
葉介は大きく胸をなでおろした。
「山の天気は変わりやすいんだよ。心配しなくても、待ってたらすぐ止むよ」
確かに旅行前に確かめた天気図に大きな台風などはなかった。葉介だって小さな子供じゃないんだから、雨宿りくらいできるし、それほど心配は要らなかった。けれど葵は、一人あの家に残されて、我慢できないほどに心細かった。
葉介と離れたとき、身体を引き裂かれるような痛みを感じていた。
「うん……なんか、急に、葉介のことが心配になって」
「そっか。この上の神社に寄ったときに、雨が降ってきてさ、雷も鳴ってるし、急いで帰ろうとしたんだけど、この子が離れなくて、なんか一人ぼっちにするのが可哀想で……。後ろをぴょこぴょこついてくるとか昔の俺みたいじゃん?」
「それで、ずっと一緒にいたのか?」
「まぁね。そんな感じ。神社の近くで一羽だけでいたから、寂しかったのかな」
葉介の隣で眠っているうさぎは、嵐の中で葉介が、ずっとそばにいてくれて安心したのか、ぷーぷーと小さい寝息を立てて眠っている。
普段、群れで行動するうさぎが、ひとりぼっちだった。
もしかしたら、黒い耳の垂れたうさぎは、山では珍しく仲間がいないのかもしれない。
「心配かけたね。それより、声出るようになったの?」
「あ……うん、でも、なんか……声は、治って……あれ? ぁー……」
時折、朝と同じように、ピーピーと、変に掠れた音がする。
「まだ、本調子じゃないか。こんなに雨に濡れて、悪化しないといいけど」
ここにたどり着くまでは、大丈夫だったのに、葉介のそばにきて緊張の糸が解れたせいか、急に熱が上がった気がした。
風邪だったのか、あるいは落ちた時にひねった足が熱を持ったのか、朝と同じで頭がぼんやりとしている。
考えてみれば、今の葵の姿は、うさぎの耳が生えているはずだ。
葉介に「寒いだろ?」と身体を引き寄せられた。
さっきまで胸にうさぎを抱いていたからなのか、葉介の身体はぽかぽかして暖かい。葉介の胸に抱かれると、洞窟にたどり着くまでにした、あの甘い匂いが葉介から香った。思考が、どんどんふわふわしてくる。
葵は、この状態に覚えがあった。昨晩の獣のように発情した自分の姿が頭をよぎる。村に来てから変化している身体と心が怖い。――これ以上葉介の隣にいたら、また昨日みたいな姿を晒してしまうかもしれない。
なにより、いま葵の姿は葉介にどう見えているのだろう。村長にも見えていたうさぎの耳が、葉介の目にも同じように映っているのだろうか。
「ね、葉介、聞いて欲しいんだけど」
「うん、なに?」
葉介の顔を見上げ、目を合わせる。意を決して、口を開いた。
「俺、身体が、変なんだ! 昨日も」
「そうだね、葵くん、うさぎさんになってるよ」
「葉介、見えて……るの? これ」
葉介は驚きもせず、笑みを浮かべ葵の頭に手を置く。昨晩と同じように、葉介は、葵の頭の上に生えているうさぎの耳を優しく撫でた。その葉介の慣れた手つきに気持ち良さで、くたりと腰が抜けてしまう。もっと葉介にふれて欲しくて、身体が勝手に葉介の手に耳を擦り付けてしまう。
「昨日の、夢じゃなかったね。しかも、葵くんって、甘え上手か、あぁ〜可愛いなぁ」
「ぁ……よ、すけ、んっ……んんっ、耳っ」
「ん、気持ちいい? 耳こちょこちょされるのが好きだったよね。あと、尻尾も」
「お、覚えて、るの?」
くすくすと笑って耳の付け根をくすぐるようにされると、たまらなくて、されるがままに葉介に身を預けてしまう。
「昨日は、お酒飲んでたし。村長から面白い話たくさん聞いたから、俺に都合のいい夢を見たんだと思ってた。だって起きても、葵くん、なにも言ってくれなかったし」
「俺だって、葉介が何も言わなかったから、ただの気のせいにしたかったんだよ」
「まぁ、確かに。急にこんなふうになって、すごく心細かったよね。うさぎさんは甘えん坊で寂しがり屋さんだから、よしよし」
「んっ……んん」
葉介に抱きしめられて、甘やかされていると心が癒されていく。本当にうさぎになってしまった。葵は、その心地よさにうさぎのように鳴きながら、葉介に擦り寄る。
「けれど、これで、はっきりしたよ。兎性の条件は、この土地だろうね」
「……じゃあ、この村に来たら、誰でもうさぎの耳が生えてくるの?」
「それなんだけど、村長さんの話では、昔、この村を観光地にしようとしていた頃には、今と違って、村にたくさん人の出入りがあって、けど、外の人間にうさぎの耳が生えたなんて事実はなかった」
もし、そんなことが起これば、大きなニュースにでもなっているだろうし、自分たちも知っているはずだ。閉ざされた村でのみ、起こる現象なのは間違いない。
「だから、土地は必須条件だけど、もう一つ「兎性」についてその人物が認識しているかが、鍵になるんだと思う」
「信仰心が影響しているってこと?」
「元々、この土地では古くから、うさぎの神様が村人を助けてくれたっていう話があって、村で怪我をした小さな子供を兎様が癒してくれたらしい――それがね」
葉介の胸に抱かれて甘えていると、幸せだった。
葉介から、うさぎの話を聞いていると、なんだか昔の二人に戻ったみたいな錯覚を起こしそうになる。いつも二人で、バカみたいな話をして育ってきた。
――小学校の一年生の時、葵のクラスへ学期の途中に転校してきたのが、葉介だった。
今でこそ、うるさいくらいによく喋る葉介だったが、最初は、ひとりぼっちで、いつも寂しそうな顔をしていた。その頃の葵は、というと、妹が産まれたばかりで、立派なお兄ちゃんになるために毎日一生懸命だった。
けれど元々甘えただった葵は、すぐに我慢の限界がきてしまった。ある日、公園の滑り台の下で寂しさから一人わんわん泣いていたところを反対側にいた葉介に発見されてしまった。葉介は泣いている葵を見て、驚くでもなく「僕が、葵くんと一緒にいるよ、いい子いい子」って言いながら、日が暮れるまで頭を撫でてくれた。
最初に自分の一番情けなくて恥ずかしいところを見られてしまったせいか、葵は、葉介にだけは本当の姿を見せることが出来た。
葉介は葉介で、葵と仲良くなるまでは、まったく学校になじめなかったらしい。「あの頃は、毎日寂しくて公園で泣いてたよ?」って本人の口から聞いたのは、大人になってからだけど、そうやって、お互いに足りないものを埋め合うように支えあって二人で成長してきた。
でも、そんなのは小さな頃の話。
あの頃は、ひとりぼっちで寂しかった葉介には、いま葵以外の友達だっている。もう葉介に自分は必要じゃないって、大学に入学して気づいた。
けれど葉介のそばが一番安心できて、一番大好きだったから、結論を先延ばしにしていた。
「葵くん……なんだか、昔みたいだね、小学校の時、よくこんなふうに近所探検して、いっぱい遊んだし」
心がシンクロしたようだった。葉介も昔のことを思い出している。
「そうだな、高校の時も、結構バカやってたけど」
「そうそう」
これは今だけの、この村に遊びにきているあいだだけの仮初めの幸せだった。来年になれば、それぞれの道に進んで、離れ離れになる。
(もっと、葉介に甘えたいよ)
この村に来るまでは、兎性なんて有り得ないと思っていたのに、今は葉介の話を素直に受け入れている。
葵の頭にうさぎの耳が生えてしまったのは、ずっとこの世界で、葉介と一緒にいたかったからだと気づいた。
甘えん坊で、寂しがり屋で、獣の本能の赴くままに葉介を自分に縛りたい。だから、兎性を信じたし、葵は見えるようになった。
こんなアホでバカみたいなこの世界で、ずっと二人でいたい。帰りたくないって思っている。
けれど本能と別の場所では、こんな茶番は、すぐにでも終わらせないといけないと、理解していた。
寂しかった、甘えたかった。なんて葉介に絶対に言ってはいけない、そんな子供の気持ちとは、いい加減決別するべきだ。そうでないと、葉介の未来を奪ってしまう。
「葵くん? どうしたの」
急に黙り込んだのを不思議に思ったのか、葉介は胸に抱いていた葵の顔を覗き込んだ。これ以上心配させたくないと、ふるふると首を横に振る。
――一緒にいたい。一緒にいてはいけない。
相反する思いに、胸が張り裂けそうになって、もう限界だと思った。
自分の心を甘やかせる葉介の思いを断ち切るように、葵は葉介の腕の拘束から逃れた。
身体から湧き上がる本能に逆らって、葉介を拒絶した時、心と身体にビリビリと電流が走ったように痛んだ。
「……葵、くん?」
「あのな、葉介、は、俺といない方が、いいんだよ」
ずっと言えなかったことを口にしていた。
葉介の手を拒絶したのは、二度目だった。一度目は、あの夜ベッドの上で、葉介が兎の生態について話していたときだ。他愛ないただの雑談でも、葵は抗えない現実を目の当たりにしたようで怖かった。
可愛いうさぎを優しく愛でている葉介を想像したとき、葉介は葵と違い新しい家族を作れるんだって気づいた。どんなに葵が葉介のことが大好きで、葉介が葵のことを大好きでも、結局、幼馴染の延長線上だ。
友達のままだって、今と同じように、お互いのことを好きでいられるし、その方が、きっと葉介は幸せになれる。
昔から葉介は子供が好きだった。だから葵と別れたら、素敵な彼女が出来るだろうし、いい父親にだってなれると思った。
自分たちの交際は、最初は刺激的で楽しかったのかもしれない。
けど自分は男で、身体の構造上、セックスをしても女性のように濡れたりはしないし手順だって面倒だ。抱きしめたって、身体は柔らかくもない、こんな面倒な身体を葉介は、この先、十年、二十年後も好きでいてくれるだろうか?
怖くなって目の前が真っ暗になった気がした。そして自分と付き合っていることが、そもそも葉介の間違いだったんだって思った。
別れるなら早い方がいい。分かっていたのに、葉介の隣が心地よくて、幸せで、自分から葉介を振ることも出来なかった。
セックスをしなくなれば、きっと葉介も目が覚めるんだって思っていたのに、葉介は何も変わらなかった。
ずっと葵に寄り添ってくれて、今まで通り愛してくれた。だから余計につらかった。
「もう、終わりにしよう、葉介」
なんとか絞り出したその言葉を、目の前で葉介は、色をなくしたような顔で聞いていた。
本当に葉介と別れるんだって思ったら、涙が溢れてくる。この旅は、自分たちの卒業旅行だったんだって気づいた。
だから、これで良かったんだと思った。
「なんで……葵くん、そんな、寂しいこと言うの」
「え、よう、すけっ」
びっくりして葵の涙はひっこんでいた。唐突に、目の前の葉介の頭に大きなうさぎの耳が生えた。
「っ、葵くん、嫌だよ」
何より一番驚いたのは、いつも笑顔で明るい葉介が、泣いていたことだ。ぽろぽろと、葉介の目から涙が次から次へと溢れている。ふにゃふにゃとしたその喋り方は、小さなころの葉介のくせで、久しぶりに聞いた頼りない声に戸惑う。
驚きのあまり、振り払った葉介の手を再び握っていた。
「……葵くん、俺のこと、好き……って言った、じゃん、なんで、嘘ついたの」
「ッ、葉介、違う、俺は、葉介の将来を思って」
「葵くんの将来に、もう、俺はいないの?」
葉介に手をぎゅうぎゅうと握られると、葉介の寂しいって気持ちが自分にも流れこんでくる気がした。胸が押しつぶされそうになる。
どうすればいいのか、分からず、葵は戸惑って泣き止んでほしいと、昔、葉介が、自分にしてくれたように葉介の頭を撫でた。葵の頭に生えたうさぎの耳とは違って、葉介のは、もっとふわふわで大きな垂れ耳。少し前に葉介と話をしたときも、落ち込んでいる葉介の頭にこんな、大きな垂れ耳が見えていた気がした。
寂しがり屋の葉介、甘えん坊の葵。
年を経るごとに成長した自分たちは、子供の頃の、お互いのそんな恥ずかしい性格なんて、全部消えてしまったんだと思った。けれど、どんなに明るく振舞っていても、根っこの部分では、変わっていなかった。
「葉介、ごめん。お前のこと大好きだから、本当に、大好きなんだよ……。だから、葉介が、あの夜うさぎの話したときさ、俺、お前のために、何にも出来ないって、今更、遅いけどさ、気づいて、もう別れなきゃって思った」
「何も出来ないって、そんなこと、ない」
葵は首を横に振る。
「葉介は、俺と違って、女の子とだって付き合えるだろ。俺は無理だけど。だから……子供が作れない俺は、葉介と一緒にいられない、だって――」
お前、子供好きだもん。胸が張り裂けそうに続けた言葉は、最後まで言えず、葉介の口づけによって遮られた。
うさぎのことを可愛いといった葉介、優しくて子供に好かれて、温かな家庭が作れる葉介の姿を思い浮かべて、自分の存在がひどく邪魔なものに思えた。
「ッ、葵、ほんと、子供の頃から、変わってない。でも、ごめん、俺が悪かった。一人で悩まないで、何でも言ってよ、俺、バカじゃん」
「よ、葉介」
「寂しかったり、傷ついたりしたら言っていいんだよ。俺には我慢しないでよ、恋人なんだから」
涙を拭った葉介は、葵を抱きしめる。
「俺が無神経に葵を傷つけて、不感症にした。……ほんとに、ごめん俺、考えなしだった」
「違うっ、そうじゃない……そうじゃないんだよ、葉介は悪くない、これは俺の問題で」
「二人の問題だよ! あのね、子供が作れないことで、葵が負い目を感じる必要なんかないんだからね。俺は好きで葵と一緒にいて、葵と一緒にいる未来を選んだ。何かを捨てて葵といるわけじゃない」
「でも、いつか……後悔するから」
慌てて、葉介の腕の拘束から逃れる。
「しないよ。葵、分かってないみたいだから、ちゃんと言う、何回でも言う。だから、聞いて。俺、葵のことが大好きだ」
葉介は、まっすぐに葵の目を見る。その真摯な眼差しに心が揺れた。
好きで、好きで、大好きで、一緒にいたらそれだけで幸せ。そんなのは分かっている。けれど、それは友達の好きのままでも良かった。葵は、そう思っている。
「……うん、分かってるよ」
「分かってないよ。俺の好きはね、葵くんがいないと、冗談じゃなく、死んじゃうくらい好きなんだから」
「そんなことない、昔はそうだったかもしれないけど。今、葉介は、俺がいなくても、たくさん友達がいて、バイトでもいっぱい女の子に言い寄られて、幼馴染の俺じゃなくたって……もう、俺がいなくても、葉介は、寂しくないだろ」
葉介は首を横に振った。
「どんなに他に友達が出来たって、俺が大好きな葵くんは、一人だ」
「葉介、でも」
「もう忘れちゃった? 俺が、付き合ってって言ったときのこと」
忘れたことはない。ただ、不安な気持ちに押しつぶされて、葉介の言葉を、急に信じられなくなった。
「そんなの……幸せなんて、俺じゃなくたって……」
「言ってよ、覚えてるなら、それとも、もう一度言おうか? 何度だって言える。だって、変わってないもん、俺の気持ちは」
促されるままに、ぽつり、ぽつりと口にしていた。葉介の告白。
「……こんなに長い間、ずっと一緒にいて幸せなんだから……この先も、一緒にいたら、もっと楽しい」
「そうだよ。ねぇ、葵くんは、違う? 俺以上に楽しくて、幸せで、ずっと一緒にいたい人、いる? 俺は、いないよ」
ただの腐れ縁だろって、言われたときは茶化して、笑った。
けど本当は、葉介の告白が嬉しかった。葵も葉介と同じ気持ちだったから。
気の置けない仲。葉介といるのが一番楽しい、こんな、わくわくする気持ちにさせてくれるのは葉介だけ。そんな子供みたいな理由でも、葉介となら、この先も、ずっと笑っていられると思った。
恥ずかしくて、口ごもりながら返事をした高校生のあの日。ただの幼馴染から恋人同士になった。
小さな子供みたいに、幸せそうにふにゃふにゃした顔で笑った葉介に「じゃあ、葵くん、幸せにしてね」って言われて、お前がしろって小突いた。本当は誰よりも、自分が葉介を幸せにしてやるって思ったのに。
葉介の告白を忘れていたわけじゃない。あの夜から自信がなくなった。怖くなった。自分では、この先、葉介を幸せに出来ないんじゃないかって。
付き合ってから、ずっと気持ちは目減りしないどころか、もっと葉介と一緒にいたいって思っている。
お互いが、お互いのことを幸せにしたいって思って、付き合うことを決めた。
葉介と幼馴染で良かったって、今も思っている。何も、変わっていない。
「忘れてるかもしれないけど、俺、葵くんがいないと、ホント、ダメ人間だし、葵くんに出会わなかったら、今も、公園の滑り台の下でひとりぼっちの、寂しい人生送ってたと思うよ。だって、俺、友達の作り方は、葵くんを参考に頑張ったから」
「何で、俺……」
「俺より友達少ないとか、葵くんは言うけど、甘え上手でモテモテなのは葵くんの方だよ? うちのバイト先きたら、すぐ誰かにちょっかいかけられてホイホイ付いていこうとするし、俺がどんだけ、葵くんの周りをガードしてたか、気づいてない?」
「え、なにそれ、もしかして、俺友達少ないのお前のせいなの?」
葉介のバイト先を冷やかしに行っても、葉介の周りには、たくさん人がいるのに、自分は、仲良くなってもすぐに、周りから人がいなくなって、葉介と比べてコミュニケーションスキルが低いのかもしれないと、落ち込んだこともあるのに。ひどい。
「悪い虫を退治しているだけだ」
悪びれる様子もなく言う。
「悪い虫って、別に、お前のとこのバー、ゲイに理解ある人ばっかだし、友達作りに行ってるだけじゃん」
「あーもう、分かってない。あそこは、セフレ作る人が半分以上なの、やっぱり気づいてないし」
葉介は、葵の頬に口付けた。
「ほらね、俺ってダメ人間だろ?」
「もしかして、葉介って、俺がいないと、駄目なの?」
「分かってくれたなら、良かったです」
一緒に遊んでくれて、嬉しかったこと。最初は、一番大切な友達だった。一緒にいることで、お互いのことをもっと好きになった。
些細なことだけど、いつだって、そばにいるだけで、幸せにしてくれるのは、お互いだけ。
一緒にいたいから、一緒にいる。そんな単純なことでも、気持ちを確かめて、言葉を交わしたら、やっと安心できた。
自分一人で抱え込んで、一人で先に突っ走って、別れ話なんか切り出して、最初から素直に「もっと一緒にいたい」って気持ちを伝えれば良かった。昔も限界ギリギリまで言いたいことを我慢して爆発するのが、葵だった。
けれど、そうやってパンクして、泣いていると、最後は、いつも葉介が甘やかしてくれて、もっと、一緒にいたいって思うようになる。この気持ちの名前が、依存なんだとしても、二人ともお互いが一番なら、仕方ないって思う。
やっと、そう思えた。
「葉介は、本当に俺でいいの?」
「葵くんじゃなきゃ嫌だよ。てか、こんな変な旅行に付き合ってくれるの、世界で葵くんだけなんだからね?」
「……言われてみれば、確かに、そうだな」
ふいに笑いが漏れた。何よりも説得力がある。改めて考えてみれば、こんな、馬鹿馬鹿しい旅行、文句言いながらも、笑いながら付いてくるのは、自分だけだ。
たとえ変な村に連れて行かれたって、うさぎの耳が生えたって、最後には一緒に笑って楽しめる。どんなに怖いことがあったって、葉介は絶対に手を離さないで一緒に帰ってくれるって知ってるから、葵は何も心配していなかった。
「葵くん、もっとキス……してもいい? まだ、不感症?」
「ば、ばかっ。それこそ、お前じゃなきゃ、嫌なんだよ」
互いに待ちきれないと、性急に唇を重ね合わせた。
* XXX *
「葵、可愛い。ずっと、お前のこと、うさぎさんみたいだなぁ~って思ってたけど、本当に、そうだったんだな」
「……葉介だって、うさぎじゃん、しかも寂しがり屋だ」
「そうだね、ずっと寂しかったよ」
そう言って、ちゅっと、音を立てて頬にキスされる。
あの日、葉介の言葉に、傷ついて一人であれこれ悩んだけど、思い出してみれば、葉介は、こうも言っていた。
――うさぎは可愛いの神様なんだよね。なんか、お前みたいじゃん。ねぇ、葵は、うさぎ好き?
最初から、葉介は、葵しか見えてなかった。うさぎに、愛しい人を重ねていた。
ずっと。
「葉介って、俺のこと、すげー好きじゃん」
「えー、伝わってなかったの。じゃあ、これからは、もっと伝わるように、頑張るね」
そうやって優しく抱きしめられて、もう一度、うさぎ同士のキスをした。この村の言い伝えの通りなら、自分たちは『運命の番』だから、きっと、この先も離れることはできないんだと思う。
寂しがり屋と、甘え上手なうさぎとして、永遠に。
* * *
村の不思議な言い伝えや、兎性の諸々を受け入れて生きていこうと決めていたのに、翌朝洞窟の中で目が覚めると二人のうさぎの耳は、跡形もなくきれいに消えていた。
そして昨日は大雨の中で見つからなかった帰り道も、晴れると、ちゃんと洞窟の目の前にあって、あんなに迷って帰れないかもしれないと思っていたのに、ものの数分もかからずに村まで戻ってくることができた。
田んぼ道を、その道なりに歩いていると、昨日までは、草むらでよく見かけた、あの真っ白なうさぎたちが忽然といなくなっていて、うさぎは同じようにたくさん見かけるのに、図鑑でよく見るような、茶色の野うさぎばかりになっていた。
こうして二泊三日の、幸せもふもふうさぎの村への旅は、崖から落ちたときに出来た、足の捻挫と、尻のあざを土産にして終わってしまった。
「なぁ、今回のこれって、葉介の研究の役に立つのか?」
「ん? もちろん、村長から、いろんな話聞けたしね」
旅の帰り道、来たときと同じように今にも崩れ落ちそうな、カズラ橋を渡った。途中で橋の上で振り返って村の方角を見ると、なんだか入り口が消えているような気がして、ぞっと背に寒いものを感じた。
本当に、そんな村があったのか。葵は、ただの熱が見せた幻想だと言われても納得出来る気がする。
帰る際、村長の家に行って宿の鍵を返し話を聞いたが、昨日、葵の頭に見えていたと思っていたうさぎの耳は、実は村長には見えていなかった。
村長は、葵に熱があって、ふらふらしているのに、そんな体で山へ行くなんて危ないと伝えるつもりだったらしい。
つまり、うさぎの耳も尻尾も、葉介と葵にしか見えていなかったのだ。
「あ、もしかして、葵くん、うさぎの村から、帰っちゃうのもったいないって思ってる? ここ住みたい?」
「そんなわけあるか、俺は来年の就職先も決まってるんだから、帰るに決まってるだろ」
「まぁ、あの、うさぎさんエッチ、すごーく、気持ちよかったからねぇ」
「ばっ、プレイみたいに言うな! 恥ずかしい、つか、あんなの夢だよ、夢! 研究材料にならなくて、残念だったな」
「えー、そんなことないよ? 多分」
そう言って、不安定な橋の上で、唐突に、葉介に尻を撫でられる。
「っ、ひぁ!」
「ほら、お尻、触られるの、すごい気持ちいいでしょう?」
ぞわぞわ、ぞくぞく。身体に覚えのある、あの感覚が走り抜けた。あるはずのない、うさぎの尻尾を触られる、あの快感。
「あのね、文献によれば、うさぎの尻尾が取れたあとも、その感覚の多くは身体に残るらしくて……つまりは、すごーく、気持ちいいうさぎさんエッチが帰ってからも葵くんとできるってことだよ。しかも、今後も調査が続けられる。あー、葵くんと旅行来て、本当よかったなぁ」
「っ、ば! なに言って、違うからな!」
否定はしたが、絶対に違うと言い切れないところが、恐ろしい。尻に残っているあの青いあざは、崖から落ちた時に出来た打撲で、今は、それに過敏に反応してしまっているだけ。――のはず。
「たのしみだね、うさぎプレイ」
「バカなこと言ってないで! さっさと帰るぞ!」
二人で元の世界に帰る。
村に来るまでの寂しかった気持ちは、もう葵の中から消えていた。
もしかしたら、ふわふわで、あったかい優しいうさぎが、寄り添ってくれたおかげかもしれない。
うさぎの癒し効果は侮れない。と、葵は思っておくことにした。
ぐらぐらと揺れる橋を渡りきると、葉介は葵に向かって手を差し出す。
葵は、その葉介の手を自然に握り返して隣を歩く。心地よい風が通り抜けた。
「ねぇ、葵、もっと甘えていいよ、そうしたら……」
「幸せにしてくれんの?」
二人なら幸せだと思う。
「もちろん。葵くんも、俺のこと幸せにしてくれるんでしょう?」
葵が一番好きな、子供みたいな笑顔。葉介はへにゃりと笑った。幸せにしたいし、幸せにできると思う。
うさぎが見せた甘い夢は、この先も、まだまだ続きそうだった。
終わり