【前編】
――なぁ葵。うさぎって年中発情期らしいよ。しかもメスは、いつでも妊娠出来るとか。
幼馴染の葉介の瞳は、小さな子供みたいにキラキラ光っていた。
「へぇ、そっか」
葵は静かに返事をした。
一緒のベッドで並んで話す二人の姿は、まるで小学生の修学旅行だ。女の子が夜に恋バナしているみたい。けど話している内容は次第に色を帯び始めた。
――それでね。兎さんは、多産や豊穣の神様だったりするんだけど、俺からすれば、うさぎは可愛いの神様なんだよね。なんか、お前みたいじゃん。ねぇ葵は、うさぎ好き?
「うん、好きだよ」
葉介は葵の前だと、小さな子供みたいにふにゃふにゃした顔で笑う。
子供の頃、可愛い担当は葉介の方だった。
寂しがり屋で、いつも葉介は葵の後ろをくっついて離れなかった。
――でも今は違う。立派な二十歳を過ぎた大人で、恋人同士だから。
無性に触れたくなって、葉介の柔らかい黒髪に触れた。お返し、と風呂上がりでひよこみたいに跳ねたの葵の髪を葉介の大きな手に撫でられた。
じゃれあっているうちに、ふっ、と葉介の言葉が途切れ、熱っぽい表情で見つめられる。
最初から葵は、そのつもりだった。大学の研究ばかりで忙しかった葉介と久しぶりに一緒に寝る。
子供のときみたいに、ただ寝るだけじゃないことくらい分かっていた。
この上ない幸せな時間を過ごしていた。
でも、他愛無い葉介の「発情」と「妊娠」という言葉が、葵の不安のど真ん中をぐさりと突き刺さした。
葉介にベッドに組み敷かれて、発情より申し訳の方が勝り、将来が不安で怖くなった。葉介の優しい手が、ゆっくりと胸元に触れる。
「まって……葉介、俺、今日は、無理出来ない」
葵は葉介の胸元にぎゅっとしがみつく。
「え、どうしたの葵くん。大丈夫? 真っ青、え、お腹痛い?」
葉介の話は民俗学の研究のことだし、葵を傷つけるつもりなんて少しもなかった。
(でもさ、俺じゃない方が、きっと葉介は幸せになれる)
そう思った瞬間から、葵は不感症になってしまった。
* * *
顔が良く、人当たりがいいが、研究バカ。
別名、アホみたいな妄想ばかりしている、葵の恋人。
葵は、その研究バカの葉介が運転する車の後部座席に座っていた。舗装されていない山道が続く中、BGM代わりに葉介の話に耳を傾けている。
エアコンが効き過ぎた車内の温度が気になって、窓を少しだけ開けた。すると晩夏の土と緑の匂いがふわりと車内に入ってきた。寝癖がついたままの茶髪が、外から車内に入りこむ風で葵の前髪をパタパタと断続的に揺らしている。少し顔を上げると、ダルそうな目をした自分の姿がルームミラーに映っていた。
(早朝からの長距離ドライブなのに元気だよなぁ、葉介は)
運転席の葉介と目が合うと、にこりと微笑み返された。陽気で軽快なしゃべり口は、さながらラジオのパーソナリティー。薄い紺色のダンガリーシャツに、一度も染めたことのない黒髪の天然パーマ。誠実、真面目を絵に描いたような顔。昔から、変わっていない。
小学校一年生からの付き合いで、今さら車中で無言になっても気まずくなる間柄でもない。それなのに運転席の葉介は、本当にベラベラとよく喋る。
今は大学で進めている研究テーマについて熱く語っていた。
葉介が葵の前でよく喋るのは、葵が喜ぶと知っているからだ。
ただ葵が葉介の体にまとわりついて「不思議で面白いお話」を大喜びしてたのは小学校の頃だ。もちろん今でも葉介の話が大好きなのは変わりない。でも昔のように恥ずかしげもなく、人前でひっついてお話をねだったりはしない。
たとえ恋人同士でも。
「――で、うさぎの耳が生えた人間がいるなんて、面白いだろ?」
「それ、酔ったおっさんが、コンパニオンのバニーガールを見間違えたんだろ」
「そういう限定的な場所での目撃報告じゃなくて、結構、古い文献にも残ってるんだよ」
葉介の話を真面目に聞いたところで「うさぎ人間」の妄想など信じられない。少なくとも、そんなものは民俗学の研究ではないと思う。
葉介は葵と同じ大学に通っていて、民俗学の風俗史を研究していた。
葉介は小さい頃から幽霊だのオカルトだの、巷に溢れる不思議な話が大好きで、葵は、いつも面白い話をしてくれる幼馴染のことが大好きだった。
でも大好きだからといって、幼馴染と恋人同士になったことを、今は少しだけ後悔している。
仲良しの友達のままでも良かったんじゃないか? って。
「アホらしー。そんな不真面目な研究、評定不可になるだろ。よく院試に合格出来たなぁ。結局、面接も通ったんだっけ?」
「おかげさまで、来年は、大学院生です」
「葉介が研究者、……将来は先生か」
「そうだね」
先生って職業が葉介に似合うか似合わないかで言えば、幼馴染の贔屓目を抜いても、百点で似合っている。
葉介は面倒見も良いし、人に好かれるし、文句なしに適職だろう。
「うちの教授は、葵くんが言うところの、そのアホらしい話が大好きなんだよね。俺が進めてる研究も真面目に聞いてくれるし、結構気があうんだよ。定年近い、じいちゃん先生なんだけど、書いてる本が、また面白くて――」
葵は葉介のことを幼馴染としてバカだと思っている。
でも葉介の世間一般の評価は、真面目で頭のいい人間で通っていた。
大学での成績は、評価の八割以上は「優」で、大学院の推薦も難なく取れているし、来年の進路も決まっている。小中高、平均ど真ん中の成績で何の意外性もなく、就職してサラリーマンになる葵とは違う。
「葉介、この前まで幽霊とか妖怪の勉強してたじゃん」
「そうだね」
「見える人が、昔と比べて現代になって減ってきている原因は何故か、みたいなお堅い内容の論文で」
「よく覚えてるねぇ、そうそう」
「映像技術の発展か、あるいは現代社会における信仰がどーたらって」
自分としては荒唐無稽な「うさぎの耳が生えた人間」の話より、幽霊や妖怪の話の方が好きだ。
「まぁ専門は、そっちなんだけど、今回は少し研究の角度を変えようと思って。それに、面白そうだろ? うさぎの神様がいる村。葵くん、この前うさぎ好きって言ってたし」
「あー、うん……言ったね」
恋人になる前も、二人でよくつるんで一緒に遊んでいた。
子供の頃は近所で有名な幽霊屋敷に行っていた。ネットで動画配信者が妖怪に出会ったって言えば、面白がって葉介と遠くまで一緒に冒険して、遭難しかけたりもした。警察のお世話になったときは両方の親から生まれたことを後悔するくらい、こっぴどく叱られた。命の危険を感じたのは、その一度だけ。
(……あーバカなことばっかりやったなぁ)
お互い大きくなっても子供みたいなところがあって馬があった。
葉介の隣が一番、居心地が良かった。
だから葉介から告白されて、恋人同士になっても何も変わらないと思っていた。
葵自身、女性に興味がなかったし、葉介以外と一緒にいたいと思ったことがなかった。
だから付き合おうと言われて断る理由もなかったし、仲良しの幼馴染とキスをしても、エッチをしても、嫌じゃなかった。この上なく幸せだった。
自分の性的指向を初めて他人に許されたようで、安心した。すごく気持ちよくて……あぁ、それから。
「――ねぇ、聞いてる? 葵くん」
「あーうん。聞いてる聞いてる。民俗学はフィールドワークと郷土資料の収集が一番大事って話?」
「聞いてないな。昔みたいに、ねぇ葉介くんもっとお話してって甘えるように言ってよー」
葉介が冗談めかして小さな頃の葵を真似て言う。
いい加減、過去の自分は忘れて欲しかった。昔話をされる度に恥ずかしくなる。
「今の俺が言うと思うか? 小学生じゃあるまいし」
「言わない?」
「言わないなぁ。ま、お前の話は好きだよ。昔っから、聞いてて飽きないし」
「それは、どうもありがとう。図書館こもって勉強した甲斐があるってもんです」
高校生までは、いつも二人だけだった。
けれど大学生になった葉介には、葵以外の友達や知り合いがいっぱい出来た。
小さな頃は内気で葵にしか心を開かなかったが、元々人当たりは良いし明るくて話題も豊富。
二人だけの世界では全然気づかなかったけど、葉介は、とにかく老若男女よくモテた。
大学生活を通して知った自分と葉介との差。それに劣等感みたいなモノがないまぜになって、最近では葉介と一緒にいてモヤモヤすることの方が増えた。
自分だけの葉介じゃなくなったから。
何より葵の気分を重くしたのは、葉介がバイだったこと。
小さい頃から、男の子が恋愛対象だった葵と初恋が近所の女の子だった葉介。
それを知ったのは、ただの雑談の延長だった。
ずっと一緒にいて、なんでも知っていると思っていただけに、少し裏切られたような気持ちになった。浮気をされたわけでもないのに。
いつからだろう。葉介が、葵との関係を惰性で続けているんじゃないかと感じるようになった。
幼馴染の腐れ縁って奴。
(もう、振ったらいいのに)
そう思っているのに葵からは別れを切り出せない。今も居心地の良さに甘えてズルズルと関係を続けている。
振られたところで葵は葉介を恨んだりしないし、大事な幼馴染が自分といるより幸せになれるなら喜べる。――はず。
「いま話してたのは、これからフィールドワークに行く、うさぎの村の話」
「えーまだ続いてたのか。うさぎ村。この現代日本で、頭にうさぎの耳がついた人間なんているわけねーじゃん」
「まぁ普通は、そう思うよね」
ふんふんと、鼻歌を歌いながら葉介は、助手席に置いていた紙の束を葵に手渡した。それは、今から向かう場所について書かれた資料だった。
一、その村は、昔から御兎様という神様を祀っていて、兎性という性別の人たちが住んでいる。
二、兎性の人間は、それぞれの特性があって、番を求める性質がある。
三、うさぎは、寂しいと死んでしまう。
「なぁ葉介、勉強しすぎで頭がおかしくなった? そんなに試験大変だったのかよ、ごめん、全然気づかなくてさ」
「もう! ちゃんと正気だってば!」
夏休みの終わり、二人きりで旅行しようと葉介から誘われた。
誘われた時は嬉しかった。
交友関係が広い葉介は、学費と生活費のためと、夜はゲイバーでバーテンの仕事をしているから、夜はほとんど家にいない。アパートに泊まりに行っても朝に「おはよう」って言い合うだけ。
たまに早く帰ってきたと思ったら、夜遅くまで机に向かい論文を書いている。
付き合っていても、それの繰り返しだった。
研究を志す真面目な大学生といえば、そうなのだが、二人でバカやっていた頃が、いまは少しだけ懐かしい。
そんなふうに少しずつ距離を感じていた矢先の旅行だった。
「今回、調査は半分。葵くんと旅行したかったんだよ。折角、勉強一段落して体空いたんだから、たまには心置きなく一緒に遊ぼうって」
「はいはい、分かってるって。つか、別に、旅行したいなら相手なんて俺じゃなくても、いいじゃん。この前バイト先遊びに行ったら、お前すげーモテてたし、男にも女にもさ、俺は、ぜーんぜんだった。……お前以外に友達作れるかなって行ったのに」
こんなふうに、お前は女にもモテるだろう? それなのに俺でいいの? って遠回しに言ってる自分が情けない。自分から言い出す勇気がない。
「え、あれ抜き打ちの浮気調査じゃなかったの? 嫉妬してくれて嬉しかったのに」
「んなわけねーだろ」
「心配しなくても店では俺、恋人いるって言ってるよ。それに研究とバイト忙しくて、浮気する暇とかないし。心配しないで」
それも、知っている。
周りがくだらないと笑うようなことでも、日々、真面目に研究と向き合っている。――恋人のことなんて忘れちゃうくらい。
そこまで考えて頭を振った。もう、これ以上、葉介を自分の気持ちで縛るようなことは、絶対に言わないと決めたのだから。
葉介に別れたいと言われたら、ちゃんと受け入れようと思ってる。
「葉介さ、顔いいよね。昔はそんなこと思わなかったけど」
ミラーごしに葉介と目があった。タレ目の甘いマスクに砂糖菓子でも溶かしたような顔で微笑まれる。
「俺も葵くんの顔好きだよ。うさぎみたいにくりっとした目とか、あと寝癖で変な方向にぴょこぴょこ跳ねてる髪とか、好きだなぁ」
「寝癖って、つか、好きとか言ってないし」
「えー、言ってよ。恋人なんだから、ほらぁー顔のほかに俺のどこが好き? 俺はねぇ」
「知るかよ」
「そっかー、全部かぁ」
「あーもう、黙って運転しろ! 事故るぞ、まだ初心者マークのくせに」
「はいはい。帰りは、葵くんの運転だからね」
「俺と一緒に死ぬつもりなら、運転してもいいよ」
葵も免許は持っているが、取ってから二、三回、実家の近くにあるスーパーまで運転しただけだ。
長距離なんて怖くて無理。練習のためと隣に乗ってくれた妹からは「下手くそ、殺される、お兄ちゃんの車には二度と乗りたくない」と言われた。
お兄ちゃん大好きなんて言っていた妹は、現在高校生で、近ごろ電話でも冷たい。
「それ結婚式の誓い? 病める時も~健やかなるときも死ぬまで愛して? って」
「いいから、今は運転のことだけ考えろ、お前よく喋りながら山道走れるよな。まじで怖いわ!」
対向車も通行人もいない田舎の山道でも、ガードレールに突っ込む可能性くらいはある。
しばらく窓の外に視線を向けていた。葉介に気づかれないようにミラーへ戻す。
同じ初心者のくせに少しも不安のない運転。ハンドルを握る大きな手、顔を見れば、くっきりとした二重に、長いまつ毛。
本人は嫌っているけれど天然パーマは、見る人によってはお洒落でやっているように見える。髪色を明るく染めれば、優しい語り口も相まって、きっと絵本の王子さまみたいだろう。けれど葉介は今まで一度も髪を染めたことがない。傷みのないツヤツヤの滑らかな黒髪は思わず触りたくなる。
そんな葉介の絹のような髪の手触りを思い出した瞬間、葵の思考に、魔が差した。
――触りたい、抱いて欲しい。
急に、こくり、と喉がなり、背中にぞわぞわしたものが走り抜けた。
(ッ、え、なんで、今そんなこと考えた?)
ふいに湧いた邪な思考に、心臓がドクドクと早鐘を打った。
ぐるぐるうねうねを繰り返す山道で酔ったのかもしれない。脇に置いたカバンの中からペットボトルを取り出し一口お茶を飲む。
少し前にベッドの上で葉介を拒絶して以来、性欲なんて一切忘れていた。急にそんな衝動に襲われたことに焦り、慌てて頭を振った。
あの夜、葉介に発情だの、妊娠だの言われて、急に現実に引き戻された。結果、反射的に無理と言ってしまった。
――ごめん、なんか不感症になった。だから、セックスしたくない。
葵がそう言うと、葉介は「そういう時もあるよ」と笑ってくれたし、触られるのもツライっていえば、代わりに葉介は、たくさん好きって言葉をくれた。
聞いているだけで、こっちが恥ずかしくなるような甘い言葉の数々。馬鹿みたいに、好きだ、好きだって何回も。
邪な熱を忘れようと外を眺めていたら、目の端に木でできたボロボロの看板が見えた。一瞬だったので、きちんと読めなかったが、こう書いていた気がする。
――ようこそ、もふもふ幸せうさぎの村へ。
「なぁ、葉介、うさぎの村って、本当にうさぎがいるのか? ふわふわの、リアルな動物のうさぎ?」
「そうそう。村の中に野うさぎがいっぱいいるらしい」
てっきり神社や史跡があるだけだと思っていた。
「ふぅん、うさぎがいっぱい……か」
「あ、もしかして、楽しみになってきた?」
本当に山で野うさぎに出会えるなら、癒されるし楽しいと思う。けれど、葉介がいうような、うさぎの耳が生えた人間がいる村なんて、不思議現象に肯定的な葵でも、さすがにないと思った。
もし本当なら、集団幻覚の類だ。
* *
目的地で車から降りた時、葵は周囲の風景から小学校の林間学校を思い出した。
山あいにある、だだっ広い駐車場には、自分たちの車しかない。元々はキャンプ場だったらしいが、現在は閉鎖されていた。
この辺りは旅行のガイドブックにも載っていない。葉介が大学の教授に紹介してもらい、個人的に村に連絡を取って宿を予約した。だから葵は、ここに来るまで旅行の詳細については知らされてなかったし、どんな場所かは着いてからのお楽しみになっていた。
「ここから少し歩いて、村長さんのところに行くんだけど」
「へぇ……」
葉介はカバンの中から研究室で複写してきたという古ぼけた地図を取り出した。そして葵の前を歩き始める。
駐車場から、さらに山の奥地へと進むと、川に今にも朽ちて落ちそうなカズラ橋がかかっていた。橋の入り口には木でできた看板があったが、留め具が腐って地面に落ちていた。
――ようこそ、もふもふ幸せうさぎの村へ、可愛いうさぎさんたちがお待ちしています。
文字は板の劣化で掠れていて、ファンシーなうさぎのイラストは、インクが伸び、緑がかった不気味な色に変わっている。
さっき山道で一瞬見えた看板は、気のせいじゃなかったらしい。
「なぁ葉介」
葵の声が、引き攣る。
「何?」
「これから行くとこって、もしかしてヤバいとこじゃないだろうな、……例えばだよ、村の因習とか? 奇祭に参加させられて、二度とこの世に帰れなくなるって、よくあるお約束のパターン。異郷訪問譚の結末の多くは、バッドエンドだってお前言ってたじゃん」
「葵くん最近すっかり、俺に毒されてきたね。その話でいうなら、帰ってこられた人間は、必ず宝物を持ってるよ」
うさぎの村の宝物は何かな? と葉介はカラカラと太陽のように笑っている。
「宝を持ち帰っても、ジジイになってたら笑えない」
一歩足を踏み出した葉介の重みで、吊り橋はギイギイと嫌な音を出して軋んだ。
「葵くんは怖がりなのにオカルト映画好きだよね。俺も好きなんだけど。ま、普通に、うさぎがいっぱいいる楽しい村だって、安心して」
「いや普通に死亡フラグだろ! なぁ行くのやめとかない? ドライブだけでも、十分楽しかったし」
葵は一歩後ずさる。
「ホント昔っから、変わらないなぁ、心霊スポット行く道中は、きゃっきゃして楽しみにしてるのに、土壇場になってビビるの。大丈夫だって研究者の端くれだけど、俺が一緒に行くんだし、いざとなったら、昔みたいに手繋いで一緒に逃げようね」
橋の上から手を差し出された。
そして、その葉介の手を迷いながらも、しぶしぶ握り返している。
(結局、いつも葉介とだったら、大丈夫って思っちゃうんだよなぁ)
葵が不感症になったと言ってから、葉介は自分から触れてこなくなった。久しぶりに繋がれた手に、胸がぎゅっと締め付けられる。
「それに俺、楽しみにしてたんだよ。葵くんと二人きりの旅行。うさぎ好きって言ってたから。絶対喜んでくれると思って」
「俺だって、葉介との旅行楽しみだったよ」
「そっか、良かった」
自分にだけ見せる子供っぽい笑みに、急に昔に戻ったような気がした。
「……う、うさぎ汁とか出てきたら、俺、まじで怒るからな」
「大丈夫だって、ほら行くよ。怖いなら手、ずっと繋いでてあげる。あ、でも、ちゃんと足元見て渡らないと下に落ちるかも」
「ば、バカ、不吉なこというなよ!」
葵は葉介の腕にしがみついて、一歩一歩慎重に進んだ。そんな葵の様子を時々振り返りながら、葉介は軽快に足を進めている。
「葵くん、怖い?」
「こわく、ない」
山の中で誰も見ていないから、今だけは葉介を独り占めに出来る。そう思うと、大学生活の中で感じていたモヤモヤが少し消えた気がした。
車での数時間の長い移動と比べると、降りてからは十五分程度の短い道のりだった。ボロボロの橋を渡って山道を抜けたところに「もふもふ幸せうさぎの村」はあった。
豊かな自然に囲まれた場所。都会の喧騒とはうってかわって、鳥の鳴き声くらいしか聞こえない。目の前には畑や田んぼが広がっているが、半分以上は手入れされていない草むら。
村民の住居は木造平屋が見える範囲で、十軒あるかないか。本当に人が住んでいるのか不安になるような、いわゆる限界集落だった。
「葉介さ、これ、キャンプ道具とか持ってきた方がよかったんじゃないか」
二泊三日の小旅行のつもりだったので、肩にかけている旅行鞄には、着替えと車で食べる用のおやつしか入っていない。急に夕飯が心配になってくる。
「電話で聞いた話では、携帯は圏外だけど電気も水も大丈夫だって。昔は観光地にするつもりだったらしくて」
「……観光地って、看板にあった、幸せうさぎの村?」
「そう。このあたりは、日本のなかでも特にうさぎが多く生息している地域で観光資源にって……あ、ほらいた、あそこ。うさぎがいっぱい」
あぜ道を抜け民家のそばを歩いていたときだった。葉介が草むらを指差す。そこには二羽の野生のうさぎが仲良く草を食んでいた。
山中で住んでいる野うさぎなのに、目立った汚れもなく、ふわふわで柔らかそうな白い毛並みをしていた。違和感のある、白。どこか神々しく見えた。
(夏なのに真っ白で、獣に襲われたりしないんだろうか?)
優しい黒い目をしたうさぎは、めずらしい人間が来たな、というふうに葵たちを一瞥すると、また目の前の草をもぐもぐし始めた。
とにかく、可愛い。癒される。
「うさぎ……だな」
「葵くん良かったね。うさぎに遊んでもらえるかもよ」
「いや、ふれあい動物園じゃないんだから、近寄ったら逃げるだろ。野生なんだし」
確かに葉介が言った通り、村にうさぎはいた。
ただ道中、葉介が話してたような、怪しげなうさぎの耳が生えた人間に遭遇できるとは思えない。どこにでもある普通の田舎。村のど真ん中まで来ても昼間なのに誰もいない。人には出会わない代わりにうさぎにはたくさん出会った。
村民より、うさぎの方が多い。そういう意味では「幸せうさぎの村」の看板に偽りはなかった。
村長が住んでいるという、村で一番大きい家の前に立つ。玄関の周りを見渡したが、呼び鈴がなかったので、裏庭にまわり縁側から葉介が声をかけた。ほどなくして奥から出てきたのは、柔和な顔つきをした老夫婦だった。
「いやぁ、遠いところを。偉い学者の先生がいらっしゃる言うんで、本当に来るんか、半信半疑だったんですよ。村のもんなんか本当に来たら村民総出で宴でもせなならんなって、冗談のように笑ってたくらいで」
偉い学者先生なのは葉介が師事している先生であって、葉介に関して言えば、大学をまだ卒業してもいない、ただの学生だ。
けれど訂正するほどでもないと思ったからなのか、葉介は、そのまま話を進めた。
「どうもお世話になります。瀬田教授からの紹介で参りました。この村に伝わる兎様のお話を伺いたく」
「はっはっはっ、お弟子さんも先生と同じで面白い研究しとるんやね。実は、わしも、昔は頭に生えとったんやけどね」
――え、毛が?
村長は自分のつるつるのハゲ頭を指差した。
「ここに、うさぎの耳が取れた痕が残ってますでしょう? 結婚した時に家内にアンタに耳は似合わん言われて取りましてね」
――ただのシミだな。
もしかして、これは笑うところなんだろうかと、判断に迷った。
葵は見せられたハゲ頭に浮かんでいる、加齢性の丸い小さなシミを虚無の心で見つめていた。
葵は村長の話のシュールさに次第についていけなくなる。
ただ隣の葉介は興味深そうに聞いていて、すでに頭は研究モードになっていた。
(あ、これは、駄目なやつだ)
まるで葵の存在など忘れてしまったかのように、持ってきた資料を広げて、村のうさぎについて村長と話に花を咲かせ始める。
相手に警戒心を抱かせない人に好かれる葉介の人柄は、この村でも遺憾無く発揮されていた。
――ほとんどの兎性の人間は、既に村の外に出て行ってしもうてな。ほら、兎の周期があると、生きにくい言うて、外だと不思議なことに、御兎様の耳は消えてしまうからねぇ。
――なるほど、村長は、この土地固有の現象とお考えでしょうか。
――そうさね、ここで生まれた人間以外に兎になった人は見たことないからねぇ。
葉介が研究熱心なのは、いつものことなので、葵は展開には慣れっこだった。
むしろ、こういう研究バカなところも含めて、葉介を好ましいと思っている。
けれど今日は少しつまらない。つまらないというより、ちょっとムカムカする。
(もっと、近くにいて欲しいのに!)
思った瞬間、急に胸に落ちてきた、灰色の感情に囚われていく。
さっきまで繋いでいた葉介の手が、自分から離れていることが、さらに葵の不安を煽った。
この山に入ってから自分の感情の振り幅が大きくなっている気がした。
ここへ来るまでは、葉介と別れることになっても、仕方がないと頭で納得していたのに、今そのことを考えると、心細くて、まるで小さな子供みたいに葉介にひっついて際限なく甘えたくなる。こんなのは自分じゃないと思っているのに――抗えない。
葉介は葵の存在なんて忘れて、縁側に座り村長と資料片手に話している。
嫌だと思った、瞬間、大きな声を出していた。
「葉介!」
「ん、どうした? 葵」
気づいたときには葉介の左手を自分から掴んでいた。
「あ……えっと、いや、荷物、泊まるとこに、先に置かせてもらわないか? 村長さんと話するにしても落ち着かないだろ?」
我に返って押し寄せる感情に戸惑う。なんとか、それらしい理由をひねり出して言葉を続けた。
「あらあら、そうですよ。おじいさんったら、せっかく遠いところからいらしたんですよ、積もるお話は後にしてくださいな。さぁさ、お宿までご案内します」
村長の奥さんは、そう言うと、戸棚から鍵を持って葵が立っている庭先まで出てくる。
いくら付き合っていると言っても人前。それなのに普段の葵らしくなく、ぴったりと磁石のように葉介にひっついていた。
いつもなら葵が葉介の手を振り払う場面なのに、今は振り払うどころか自分から手を繋いでいるし、今の状態がとても馴染んでいると思っている。身体と心を何か強い力で支配されているような感覚だった。
葉介は葵が手を握っていても、振り払ったり咎めたりはせず、葵の好きなようにさせていた。その姿が当たり前のように。
「では、後ほど、またお話を伺わせていただきますね」
「あぁ、待ってるよ。そうそう、ここから少し山を登ったところにある、神社の宮司さんが、三軒隣に住んでいるから呼んでおこう」
面白い話に後ろ髪を引かれる葉介を急き立てるように、葵は葉介の手を引いて、村長の奥さんと共に宿に向かった。
*
泊まる場所として案内されたのは、近くに小川の流れる風情ある一軒家だった。電気もガスも普通に通っている。五右衛門風呂? とか思っていたので想像していたよりもインフラの整っている山村に少しばかり拍子抜けした。
昨日まで誰かが住んでいたかのように、中は綺麗に掃除されていた。
家の中の一通りの説明が終わると、村長の奥さんは「ゆっくりしていってください」と頭を下げて自宅に戻って行った。
「で、さっそくなんだけど葵くん。俺は、すごーく、嬉しいんだけどさ、何か心境の変化でもあった?」
縁側に面した居間で二人突っ立っている。葉介に顔を覗き込まれて幸せそうに微笑まれた。
「え、なにが」
「手、ずっと繋いだままだから、いつもは、俺が外で手繋いだら嫌がるのに」
葉介に手をお互いの顔の前で掲げて握り返され、ぼんやりしていた頭が現実に引き戻された。
付き合いたての仲睦まじいカップルのように恋人繋ぎをしたまま、葉介にぴったりとひっついていた。
「あ、いや、違っ!」
全くの無意識だった。
「ごめん……」
「いいよ。なんで謝るの?」
慌てて葉介から手を離そうとしたら、さらにしっかりと握り返された。
さっきまで村長の奥さんの目の前いた。交際を始めた高校生の頃だって、葵は人前で葉介とベタベタした経験がない。
「このまま離さなくていい。家のなか俺たちだけじゃん?」
「いや、けど」
「いいから、ほら、おいで、葵くん」
畳の上に座った葉介に手を引かれ、膝の上に乗せられた、もうすぐ夏も終わる季節。都会から離れた山の中で、近くに川も流れている涼しい場所。身体をくっつけたところで、暑くて我慢出来ないほどではない。
「……暑い」
本当はこの体勢が心地いいと思っているのに、素直に口は動いてくれなかった。村長の家にいた時は、コップいっぱいの水が今にも溢れそうなほどに不安定だった。
けれど葉介に後ろから抱きしめられると、次第に心が落ち着いていくから不思議だった。
「俺は、ちょうど良いけど、山の中だから夜は、冷えるかもなぁ」
葉介は七部丈のダンガリーシャツを着ているが、こんな山奥だと思わなかった葵は、着替えも含めて薄手のTシャツとチノパンしかない。このまま寝たら風邪をひく。
だから、もっと……。一緒に、そばに。らしくない、そんなことを考えていた。その気持ちが葉介にも伝わったらしく、葵を抱く腕の力が、ぎゅっと強くなる。
「ま、夜は、寒かったら、ひっついて寝ればいいよね。葵くん」
唐突にお腹に回された手が、シャツの下から入ってきて、肌に触れる。
「ちょ、葉介、なに」
「え、暑いって言うから。肌つめた、体冷えてるじゃん」
「やっ、よ、葉介、俺!」
焦った。もう葉介とはエッチしないと決めていた。そうすれば近いうちに、自然に別れられると思った。
昔と同じ、ただの幼馴染の友達に戻ることができる。
「――ねぇ、葵。ずっと聞こうって思ってたんだけど。もしかして、俺のこと嫌いになった? 最近、お前に避けられてる気がして、寂しい」
ここに来るまで陽気に喋っていた。葉介のらしくない暗く沈んだ声に驚いて、振り返った。首を傾げて、ん? と様子を伺うように見つめ返される。
もし葉介に兎の耳が生えてたら、きっと耳は垂れ耳。
寂しいなんて、葉介と対極にあるような言葉だと思っていた。賑やかで、いつも周りに人がいて。
「き、嫌いになったとかじゃない」
「じゃあ、どうして不感症とか嘘ついてるの?」
葵自身、嘘をついたつもりはなかった。ただの心と身体の問題だった。
葉介に触れるのがツライ。
いつか終わりがくる関係。頭で理解したときから、不安に押しつぶされそうで、怖くなった。この先のことを思うと一人きりになる心細さに心が耐えられない。
このまま一緒にいれば葉介を自分という存在に縛りつけて、際限なく一緒にいたいと駄々をこね甘えてしまう。
そんなことは葉介のためにならないのに。
「嘘じゃない……本当」
「だって、この前、うち泊まったとき、朝勃ちしてたよ」
葉介は、じっと葵の丸い瞳を覗き込み、探るように垂れ目を細める。
「な! なにお前、勝手に見て、ふっ、不感症でも、朝勃ちくらいするっつーの、ただの生理現象だろ」
「じゃあ俺に触られるのが嫌? えっち下手だった? 今まで言えなかっただけで、ずっと我慢させてた?」
「ばっ、ばか、違う! 葉介のこと……好きだよ。けど、ちょっと今は、セックスするのツラい、だけ。お前が嫌いとか下手とか、そういうんじゃなくて、なんか、どうしても気分になれない」
「そっか、分かった。ありがと。俺こそゴメンな、言いたくなかったよな。でも、ちゃんと今のお前の気持ち聞いとかないと、浮かれて葵くんの嫌がることしちゃいそうだから。――じゃあ、こうやって手繋ぐのは大丈夫?」
葉介は確かめるように優しく葵の手を握る。少し遠慮がちだった手は、いま指同士しっかりと組まれていた。
葉介は葵が嫌がることは絶対にしない。いつだって、優しい。
(ずっと、葉介に気を使わせていた)
葵が葉介のためだと思っていても、葉介からは、恋人から突然拒絶されたのと同じ。申し訳なさで胸が苦しかった。
「手、繋ぐのは嫌じゃない」
「ほんとに? じゃあハグは?」
「今してるじゃん、別に大丈夫だって」
「よかったー」
葉介は本気で安堵しているようだった。
「うん。だから不感症は、多分気分転換すれば治るかも。大学卒業近いし、ほら、なんか色々漠然と将来が不安っていうか、だから、気持ちよくなれないんだと思う」
「あー、見た目と違って、心が繊細なんだよねぇ」
「え?」
「葵くん基本的に悪いことは出来ないし優しいから。どうでもいいことで変にストレス溜めてるんじゃない? 大丈夫だって、葵くんは卒業したって、今まで通りだよ」
葉介に淡々と耳元で語るように優しく励まされて内心感動していた。――見た目と違って、以外は。
「いいこと言ってるふうだけど、見た目がガサツってことだよな?」
「そうは言ってないなぁ。ほら、いい子いい子、電車でお年寄りには必ず席を譲れるもんなぁ、葵くんは」
「それはお前もするだろ、しかもジジババこましじゃん」
結局、嘘じゃないけど本当でもないことしか言えなかった。葉介を拒絶したいわけじゃない。葉介が好き。一緒にいるのが楽しい。
でも、この先も一緒にいたいって思ってはいけない。自分といることを選ばなければ、葉介は今より、もっと幸せになれると思っている。
「あんまり思い詰めるなよ? 俺は葵くんとこうやって遊んでるだけでも、十分楽しいんだから」
「……うん、ありがと」
「さっき葵くんから手繋いでくれて嬉しかった。もし手を繋ぐのも嫌だったらどうしようって思ってたから。旅行に来て良かったなぁ」
「え?」
「あー葵くんが甘えてくれて嬉しい、可愛い、大好き!」
そう言って後ろからまたぎゅうぎゅうと抱きしめられる。葉介の柔らかい髪が首に当たってくすぐったい。
「よ、葉介、離せって、暑い。あー、ほら! せっかく、こんな遠い山奥まできたんだから、研究しろよ、村長さん、お前待ってるんだろ」
「えー、せっかく心置き無く二人きりでイチャイチャできるんだから、もうちょっとくっついてよ? 葵くんと二人っきりの旅行も大事な目的なんだよ」
「俺とはいつでも遊べるだろ! 夕飯作っておくから、さっさと行って帰ってこい!」
そう言って家から無理やり葉介を追い出した。
そして葉介と一緒にいることがこんなに嬉しいのに、また別のことを考えていた。
(一緒に遊ぶだけで楽しいなら、きっと友達のままだって大丈夫だよ)
だから別れたって大丈夫だと、頭ではわかっている。それなのに考えれば考えるほど不安が次から次へ湧いてきた。
村長の奥さんに部屋の説明をされたとき、冷蔵庫に鍋の材料を入れていると言われた。だから野菜を切るくらいはしないといけないと思っていた。
けれど冷蔵庫を覗くと至れり尽くせりで、すでに食材は綺麗に刻んでセットされている。
「これ……鶏、肉? だよな」
平たい器に綺麗に盛り付けられている刻まれた肉を見て、一瞬どきりとする。
「いや……まさかな?」
ここに来るまでの道中で「うさぎ汁が出てきたら怒る」と自分で言った言葉がフラグだったのかもしれない。そんな悪い想像が脳裏をよぎってしまった。
恐々とした気持ちで何らかの肉が盛られた器に手をかけたときだった。
背後で小さな物音がした。葵は慌てて後ろを振り返る。
すると、そこには、どこから入ってきたのか、真っ白で長い耳をピンと立てたうさぎがいた。
きょろきょろと台所を見渡し、何か探しているように見える。
(え、もしかして、これ、う、うさぎが仲間の敵討ちに?)
背中に冷たいものが伝うのを感じた。
「い、いや! これは違う、違うから! 殺してない、俺は、お前たちを食べたりなんて絶対しないからな! 食べられるわけないだろう! お前みたいな可愛いふわふわっ」
涙目で手に持っていた器を炊事場のテーブルの上に置き、迷い込んで来たうさぎの前にひざまづく。すると皿の上に置いていたらしい、小さなメモがひらひらと宙を舞って目の前の床に落ちた。
拾って書かれている文字に目を通す。
――キジです。
「き……キジ、が名物なのか?」
キジでも食べることに抵抗はあったが、ひとまず目の前のうさぎが仲間の仇討ちに来たんじゃないと分かり、ほっと一安心する。
葉介の話をいつも聞いていたせいで、頭が勝手に日本昔話を思い浮かべた。
やっぱり一緒にいすぎたせいで、葉介に毒されている。
「なぁ、お前、どこから入ってきたの?」
縁側の窓は全て開けているが、その高さをうさぎがジャンプして入ってこられるだろうか。古い家なので、どこかに穴が空いていても不思議ではない。でも、うさぎが通れるほどの大きな穴があるとも思えない。
「かわいいなぁ、お前、小さいし、まだ子供かな?」
普段から葵は犬でも猫でも話しかけてしまうたちだ。
動物からの返事はとくに期待してない。けれど言葉にすれば気持ちくらいは伝わると思っている。
一見無表情に見えるうさぎでも、改めてじっくりと観察すると、不思議と優しく笑っているように見えた。
道で見かけたときも思ったが、冬でもないのに真っ白な野うさぎは、どこか神々しく感じる。うさぎは何か言いたいことでもあるのか、葵の前で立ち上がり前足をあげた状態で葵の顔を見上げた。
村長の奥さんは、このあたりに住んでいるうさぎは、人に慣れているので、少しくらいなら触っても大丈夫といっていた。
葵は、ゆっくり驚かせないように手を伸ばして、うさぎの頭に指先で優しく触れてみた。
「わ……ふわふわ」
思った通りの触りごこちに思わず口元がほころんでしまう。野生のうさぎだから、あまりさわってはいけないと思って、そのまま手を離そうと思った。瞬間、うさぎは、ぴょんと軽く跳ね葵の膝の上に乗ってくる。野生を忘れたうさぎか、というくらいに甘えん坊な仕草に思わず顔が溶けてしまう。
もちろん、どんなに可愛いからといって、このまま、家の中に置いておくわけにもいかないので、迷い込んできたうさぎを優しく抱き上げると、ゆっくり驚かせないように歩き縁側のある部屋まで移動した。
庭に視線を向ければ、さっきまでいなかったのに、三羽ほどのうさぎが遊びにきていたので、やっぱり縁側から入ってきたのかもしれない。
葵は抱きかかえていたうさぎを、地面にそっと下ろすと縁側に腰掛けた。
夕飯も鍋に材料を入れ火にかけるだけで大丈夫だから、特に何もすることがなく手持ち無沙汰だった。仕方なく長閑な山の風景を眺め空気を味わうことにする。
この辺りはすでに夏が終わっていて、山に吹く風は秋を伝えてきた。うさぎの頭上には赤とんぼが飛んでいる。葵は、ぐっと両手を上げ体を伸ばした。
こんなのんびりした気分は久しぶりだった。さっき地面に放したうさぎは、なぜかずっと葵の足元にぺったりとひっいたまま。
「お前。そんなので山の他の仲間とやっていけるのかよ?」
くすくすと笑いながらも、動物に奔放に甘えられると悪い気がしない。ついつい頭を撫でてしまう。
そんなふうに庭にいる可愛いうさぎたちに囲まれていると、次第に眠気に襲われた。
ここに来るまでの車で疲れていたらしい。疲れているなら運転していた葉介の方が疲れているのに、さっきは急き立てるように家から追い出してしまった。
葉介が言うように、せっかく一緒に旅行に来たのだから二人でもっと楽しい思い出づくりをしても良かった。
きっと二人きりの旅行なんて最後だから。
再び心の中に湧き上がる不安な心に押し潰されそうになる。
ふいに葵の心に何かがふわりと寄り添ってくれた気がした。温かくて、ふわふわで、柔らかいもの。
(あったかい、なんだろ、これ)
自分の心の奥底に甘いものがじわじわと湧き上がってきて、まるで酒に酔ったように気分が良くなってくる。
ずっとこのまま、夢の中でたゆたっていたかった。
*
突然大きな物音がして、葵は、びっくりして目が覚めた。
一瞬自分が、どこにいるのか分からなくなって、あたりをきょろきょろ見回せば、宿として借りている家の縁側にいた。頭が次第に覚醒していく。
空は暗く背後の家の明かりが暗い庭を照らしていた。いつの間にか横になって眠っていたらしい。
(え、何時間くらい寝てたんだろう)
さっきまで庭にいたうさぎたちは、寝ぐらに帰っていったのか、すでにいなくなっていた。
聞こえた大きな物音は、玄関の方からだった。葉介が帰ってきたのだと思い立ち上がったが、ぐらりとバランスを崩して前に傾いてしまう。
頭が重い。
まっすぐに歩こうとしただけなのに、普段通り歩こうとすると前のめりになる。
不思議に思って、頭をふるふると揺すってみると、頭上で何か空気抵抗のようなものを感じた。何か頭に乗っかっている気がして手を伸ばす。
――ふわっ。
自分の髪の手触りなら、何度となく触っているのだから覚えている。それは自分の髪の毛とは違って、もっと滑らかで、もっと柔らかかった。
その柔らかい何かは、頭の根元から上に向かって伸びている。二つの細長いそれを握れば、自身の体の一部に触れているという感覚があった。頭の上に乗っているだけじゃなかった。
今触っている「それ」の手触りを葵は知っていた。
さっきまで自分が触っていた「うさぎ」だ。
恐る恐る横を向いて、縁側のガラス戸に映っている自分の姿を見た。葵の嫌な予感は的中して、ガラスには、うさぎの白い耳が生えている葵が映っていた。
「な……なに? なん、で」
戸惑い、慌てて、転がるように玄関先まで走ると、そこには、懐中電灯を持った葉介が、仰向けで倒れ込んでいた。
「……あ、ただいまぁ、葵くん」
「よ、葉介! え、酔ってんの?」
「あー、うん。村長さんたちのお酒、断れなくて。ゴメンな、葵くん、夕飯作ってくれてるって言ってたのに」
「あ、いや、ごめん俺、さっきまで縁側で寝てて、まだ作ってないや」
「それなら、ちょうど良かった。村長さんの奥さんがおにぎり握ってくれてさ、夜食にって」
「つか、そんなふらふらで、どうやってここまで帰ってきたんだよ」
「近くまでは……村の人に肩貸してもらって」
葉介は、よろよろと立ち上がると、おもむろに葵に抱きついた。葉介はバーで働いているが、あんまり酒は強くないし、すぐに上機嫌になって酔う。
悪酔いはしないが一定量を超えると、こんなふうに、ふらふらになってしまうので、葵は、いつも心配だった。そのうち誰かにお持ち帰りされるんじゃないかって。
「って、そうじゃなくて! 耳! 耳が頭に、どうしよう葉介っ、俺」
「え、耳? んー、葵くんの耳、可愛い可愛い」
葉介は、ちゅっ、と人間の方の耳に音を立てて口付ける。完全に酔っ払いだった。
目の焦点が定まっていない。いま何を話をしたところで、まともな反応が帰ってくるとも思えなかった。とにかく先に布団まで連れて行こうと思った。
ふらふらしながら葉介を支え、寝室まで引きずるようにして葉介を運んだ。廊下の奥にある四畳半の和室には部屋の隅に布団が二組積み上げられている。葉介を一旦壁側に座らせ布団を敷いた。
「ほら、とりあえず、横になって、風呂は明日の朝な」
「ねぇ、葵くんも一緒に寝てよ」
「あのなぁ葉介は、夕飯食ってきたのかもしれないけど、俺まだ何も食ってないの! いろいろ聞いてほしいことあるけど、もう明日でいいから、ほら靴下とズボンだけでも脱げって」
そういって葉介の足から靴下を引っ張って、ズボンを足から引き抜く。苦労して脱がせた葉介の服を枕元に畳んで置こうとすると、唐突に葉介に下の衣服を引っ張られた。その瞬間、葵のズボンがずり落ちて、尻の半分まで脱げる。
「ちょ、ばか、なに」
「んー、ね、俺が寝るまで、葵くん添い寝してよ」
「はぁ、この酔っ払いめ」
「おねがい、ね?」
さっさと寝かせてしまおうと、仕方なく言われるまま一緒に布団に入ろうとした時だった。自分のTシャツの背の部分に少しの空間があることに気づく。嫌な予感がして、手を後ろに回してその部分に触れてみた。
――ふわっ。
丸いもこもこが臀部の上に生えていた。
「ひ、し……尻尾まで」
頼りになる葉介は相談しようにも、すでに半分夢の中だった。
葉介に手を掴まれたまま固まっていると「ほら、早く」と、ズボンが脱げかかった状態のまま布団の中に引きずり込まれた。
「っ、ひぁ!」
「なんか、今日の葵くん、あちこちふわふわして、きもちいいね」
寝ぼけている葉介は、そのまま葵のうさぎの尻尾を撫でた。尻尾は行為の最中に鋭敏になった胸の突起に触れられるのと同じだ。感覚が研ぎ澄まされていて、手のひらで握られるとまるで優しく性感帯を愛撫されているみたい。たまらなかった。
「……っ、ぁ……よ、すけ」
「ん……きもち。なんか、うさぎさん触ってるみたい」
みたいじゃなくて、本当にうさぎの耳と尻尾が生えている。だけど葉介は、ただの夢だと思っている。
「葉介、俺、耳が……生えて、そこ」
とろんと溶けた瞳で葉介に見つめられた。
「うん。かわいいね。いつのまに葵くんは、耳ありになったの? この村の人は、もうみんな、耳なしばっかりらしくて……せっかく来たのに、耳ありに会えなくて残念だなぁって思ってたんだけど」
「あっ、ぅ、よ、すけ」
尻尾を優しく弄ばれる。
「あ、葵くんは、尻尾もあって、しかも、耳は、甘え上手……かわいいなぁ、葵くんに、耳がついたら絶対可愛いって思ってたんだぁ」
葉介が何を言っているのか、葵には専門用語すぎて分からなかった。
酒の席で村の人に聞いてきた兎性のことなのかもしれない。
可愛い可愛いと手のひらで優しくうさぎを愛でられ、勝手に身体が蕩けていく。
葵の髪を撫でながら、うさぎの耳も一緒くたに触られた。耳と尻尾を同時に甘やかされると、頭の中がバターのようにとろけてしまう。
ずっと、その甘い刺激に揺蕩っていたいと思うのに、半分以上眠っている葉介の手は、拙く物足りない。
「ようすけ、ようすけ……もっと……ねぇ」
自分じゃないみたいな甘えた声で、葉介にすり寄っていた。このままだと、普段なら絶対に恥ずかしくて言えないことも、本能の赴くまま、はしたなく口走ってしまいそうで、葵は眠りかけている葉介の指を口にくわえて吸った。
「ね、あ、おい……大好きだよ。もっと、甘えていいよ……そしたら……」
葉介の言葉はそこで、途切れた。
けれど、葉介の「大好き」って声が葵の耳に届いた瞬間、
* XXX *
こんな暴力的な快感は初めてだった。
葉介の布団からふらふらと抜け出した。まだ身体の中心が疼いて、葉介の隣にこのままいたら、再び熱が上がりそうだった。
葵は逃げるように風呂場まで行き、シャワーを水のまま頭から浴びた。
次第に冷えていく身体に正気が戻ってくる。そこで、はっ、として風呂場の鏡を覗き込めば、さっきまで頭の上にあったはずの、うさぎの耳と尻尾が消えていた。
やっと、元に戻ったのだと思った。
葉介とセックスが出来なければ死んでしまう、ってくらいに恐ろしい切迫感があった。
そして葉介にうさぎの耳と尻尾を触られると、冗談なんかじゃなく、天国にいけるほどに気持ちよくて、その蕩けるような心地よさに一生溺れたくなった。
ざぁざぁと頭の上から流れる冷たい水に身体が震える。
「葉介……」
早く朝になって、おかしくなった身体について葉介に聞いて欲しいと思った。
お腹が空いていたけれど、一人で食べる気にもならなくて、そのまま寝る用のTシャツを着て、寝室に向かった。出て行った時と変わらず、葉介は、すやすやと眠っていた。
まだ、耳の奥に葉介の吐息混じりの声が残っている。
――あ、おい……大好きだよ。もっと、甘えていいよ……そしたら……。
葉介は、なんて言うつもりだったんだろう。もちろん酒に酔っているときの言葉なんて、明日起きれば忘れている。一生答えを知ることは出来ないのかもしれない。
自分の分の布団を、葉介から少し離して敷いた。
あまりくっつくと、またさっきみたいに身体が変になるんじゃないかと少し怖かった。