表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

圧倒

作者: フリオ

 

 バンビは文芸を捕食した。可哀想なのは僕だ。教室で本を開いているようなやつは僕しかいなかった。バンビは僕を捉え、肉薄した。バンビが口を開く前の三つの瞬きのうちに、本を机に立てている僕は、文章の上の空白の先にある、バンビの顔面に視線を滑らせた。瞳よりもまず頬を見た。頬を見て、唇を見た。唇から、鼻筋を通り、眉間を捉えて左右に割れた。目が合って、逸らしたときにバンビの三度目の瞬きが始まった。


 三日前、学校にもある図書室で一冊の本を手に取った。貸出カウンターの隣にある小さな棚の、文芸部の生徒が執筆した小説のコーナーに、シンプルな装丁の「脈絡」と書かれた薄い本が置いてあった。三冊のライトノベルと、一冊の純文学を手にした僕は、それではバランスが悪いと思い、脈絡をあと二つ手に取った。三冊の脈絡と、三冊のライトノベルを布の袋に入れる姿を、バンビに見られていたのだろう。


 僕が机の上に立てた、脈絡の、濃い文章の上にある山と空の境目のような、圧倒的な隔たりからは太陽ではなく、バンビの顔が昇ったようだ。三度の瞬きを終え、口を開いたときに見える白い歯に目を奪われ、しかし、その月白の奥には闇があり、その深淵の中から言葉が出てくるはずだったのだが、僕の耳が死んだか、世界から突然音が消えたのか、何も届かぬまま、眠りに落ちるように閉じたバンビの唇。二つの肉が接着した際の、あるはずのものを得られなかった虚無感と、身体が忌避する異常に、僕は思わず視線を上げて、また瞳を見れば、目が合うのは当然であり、そしてバンビは視線を逸らさない。何か、満足気。その満足というのが、僕が異常を感じていることすら含めたもののように感じて、脈絡を挟んだこの無言にある虚無と異常、つまり凪の発狂こそ、正しく作者と読者の関係性なのだと、僕は絶望した。


 希望はあった。チャイムが鳴るまでの数分間だけの絶望だと知っていた。僕は椅子に座り、バンビは床にしゃがんでいた。長いスカートが床に流れている。そのスカートの中で膝を折り曲げ、小さな両手で机の端っこを掴み、そして脈絡の外側と、僕の顔を交互に見て、口を開き、何も言わずに、閉じる。それを繰り返す。瞬きよりも、早く。すると無音に音が生まれる。パクパク。脈絡に書かれていることは、情報というのは決定的なものではなく、重要を司っているのは信念と哲学であるということ。スカートを履いたバンビ。哲学は文学、信念は純粋であること。そして、バンビが会話ではなく、食事を望んでいると気づく。


 絶望に必要なのは希望ではなく、解決である。甲子園球場の三塁側アルプススタンドで、東京ヤクルトスワローズのユニフォームを着て応援していた。周りは阪神ファンで、隣にはバンビがいた。バンビは巨人のユニフォームを着ていた。阪神の先発は、西純也であり、中日の攻撃から試合が始まった。初回、中日の八連打による猛攻で、これが夢だと気づけた。夢というのは情報の象徴であり、バンビは可愛かった。希望というのは中日の八連打であり、解決というのは、目覚めである。




◇◇◇





 僕のスマホの狂ったアルゴリズムは無駄な脂肪のない女性の朝のモーニングルーティンの動画をおすすめしてくる。目覚ましが鳴る前に起き、まず水を飲む。身体の内側に溜まった睡眠の粘膜が剥がれていく。冷たい水はヌルい思考をパキパキと殺し、最良の解決をもたらす。ペットボトルを机に置くと、遠くでスマホがアラームを鳴らす。それをしばらく無視すると、スマホは黙り、朝に虚無を生み、異常を作る。スヌーズ機能というらしい。寝起きのくせに妙に血色の良い女性の、外連味ある寝ぼけ眼の隣に字幕があった。パンを齧るとアラームが鳴る。コーヒーを飲むと止まる。歯を磨くとアラームが鳴る。うがいをすると止まる。インコに愛を囁き、サボテンにキスをし、パジャマを脱ぐ。自分の裸体を一瞥し、鏡にさよならをして制服に着替える。1347人の女性インフルエンサー。その全てを一蹴する、僕の朝。


 それが、絶望に変わるまでは早い。レンガの隣、アスファルトの上でズボンのポケットに入れていたスマホが勝手に踊り出す。まだ僕が起きていないことに気づかない馬鹿な相棒の腹をタップ。今年の道草にはおはようの挨拶をして、野良猫にはいってきますの挨拶をする。公園にある時計で時刻を確認する。8時22分。国道うんたらの信号は50秒の青と、1分30秒の赤を持っている。8時24分に信号を渡れたら、遅刻せずに済む。8時25分30秒に渡ると、その先の踏み切りで引っかかり詰む。その電車に乗って登校してくる生徒からは、僕の遅刻がありありと見える。サファリパークの車に乗って、キリンを見たことがある。首を長くして待っている。人は本来、自由に歩けるはずなのに。動物園で生きるキリンの生命としての矮小さを、自分のことのように思えてならない屈辱を忘れず、公園に沿った道を一歩、二歩、ベンチで泣いているバンビを見つける。右足を身体よりも前に出して、僕は空を見上げた。絶望した。どんな空かは知らない。目を瞑って、右足を身体の下に戻した。青が赤に変わるくらいの葛藤を経て、僕は公園に右足を踏み込んだ。何か切れるものはないかと目を開いて探したが、公園にはなく。ただ自分の身体で風を切って進んだ。踏み切りというのは、電車の通り道でも、自由の邪魔でもなく、ただ跳躍の前の右足であるはずだった。


 毎朝バンビが公園のベンチで泣いているのなら、ルーティンにも成り得た。しかしバンビの涙は不確定要素しかない。貨物列車のようなもの。バンビは悲しみに暮れているのにも関わらず、堂々と真ん中に座っている。幸いベンチは広く、バンビの隣に座っても、僕のお尻ははみ出さない。絶望を解決するには、跳躍が必要だった。跳躍というのは、僕がバンビに自分から話かけるということ。軟派にならないように、硬派を演じ、ベンチに座る格好も調整を加え、声のトーンを想像し、確認できることがなくなり、じゃあ時計を確認し8時26分、遅刻による虚無感を確認し、二人でベンチに座っていることの異常を確認し、確かなる絶望を認めてから、その解決として、僕は口を開いた。



「いい天気だね」



 バンビは手で顔を覆うのを止め、感情が擦れ熱を持った目で僕を確認した。その熱を冷まそうと、脳は目に水を溜め、どうしようもなくなった分が溢れ出し、ツーと頬に線を引く。頬の端から落涙したとき、僕の手の甲にポツンと水が跳ねる。バンビの頬に流れる涙に逆らって視線を上げると、空には灰色の雲が停滞していた。いい天気ではなかった。涙を抜き去る速度で、雨が降る。



「雨、好きなの?」



 解決した。天気の良し悪しが分からない盲目だと思われた。このさい雨が好きな男でもよかった。僕は頷いた。手のひらを身体の前で開いて、ポツリと落ちる雨粒を拾った。その一粒を愛でるように、握る。雨が好きそうな男を演じる。晴れが良いものだとは思うけど。雨が悪いという思想はない。



「泣いている女の子が好きなんだね」



 首を横に振るだけ。僕は冷静にそれを否定した。文学少女にとって天候はメタファーだった。雨は涙だった。バンビは文学の中に生きていた。しかし、それは現実では不純だった。そんな不純な女の子が、僕はどうしようもなく好きだった。どうして泣いていたのか、バンビに尋ねた。少しだけ、絶望が生まれ、しかし、バンビの口が開くことで解決する。



「小説のね、新人賞っていうのがあってね。そのね、発表がね、今日あってね。それでね、文芸誌で発表があるんだけどね、あのね、なんど見てもね、私の名前と、私の作品のタイトルと、何度も想像していた、理想がね、なくてね。涙がね。もうね、純文学って、なに?」



 バンビの鼻先に雨が落ちた。バンビを挟んで僕の反対側には分厚い冊子が置いてあった。それにも雨が落ちた。分からないんだ、とバンビは言った。脈絡か、僕は聞いた。バンビは否定した。ポリエチレンテレフタラートらしい。



「ぽりえちの部分がね、かわいいと思ったの」



 近くのコンビニで傘を買ってきた。三円したビニール袋の中にはいろはすと、午後ティー。バンビに午後ティーを渡して、僕はいろはすのキャップを開けた。水を買うのは馬鹿というやつは、どこまで許容するのだろう。喉が渇いたら、雨を舐めるのだろうか。僕は水の味が好きで、水道水の味が嫌いだった。ポリエチレンテレフタラートの肌触りに、感想なんてない。



「でね。タラートの部分はね、かっこいいと思ったの」



 ならばペットボトルには圧倒的な芸術があると考えたと語る。かわいいと、かっこいいの二面性によってポリエチレンテレフタラートは圧縮され、高密度の物質となり、二本の足でしっかりと立っている人間を倒す力を持つ。飲み終わった空のいろはすを、僕は握りしめた。くしゃくしゃと鳴いて、圧縮される。これに、何かを倒す能力はない。傘に弾けた雨が、パチパチと音を立てる。一つ、アドバイスできるとしたらそれだ。



「誰かを殺すつもりで書けば、良いものになるよ」



 バンビはそれを無視した。晴れより雨を良い天気だという人に、良いものについて言われたくないということだろうか。ともかく、無視というのは空白であり、空白というのは虚無であり、虚無というのは絶望だ。ただ、もう解決は当然だった。



「君の話を聞きたいな」



 というバンビの言葉が、いただきますというふうに聞こえる。僕はバンビに捕食されそうになる。作者というのが料理人であり、読者というのが捕食者ならば、会話というのは、僕の脳にある言語野の中から、伝えたいことを思案し、美しい文字の並びを考え、不思議な味付けをし(それは例えば、雨の中、ベンチに並ぶ男女が傘を差しているような)料理された文芸を口から口へ、咀嚼し移し、咀嚼し飲み込むまでの絶望のない、人二人、つまり人間という状況においては理想的なものだ。ただ破綻しているのが、バンビは捕食者であり、しかし作者だということだ。僕は読者だった。捕食を待ち望んでいる、バンビに料理を提供することで、まるで僕が作者になったかのような錯覚を想像し、それを恐れて、自分を語ろうと思い開いた口を、まさか閉じてしまった。絶望が生じた。


 だが才能があった。才能とは、自分で生んだ、我が子のような絶望を殺すため、自らの腹を刺した絶望の、意識を切り落とす介錯のような、解決のため、重たい刀の刃の切れ味のような、口を開くこと。ごめんなさいが、それに似ている。



「本を読む。色々なジャンルの本だけど。よく読むのはライトノベル。純文学は面白いとは思うけど、好きじゃない。好きなのは、不純なもの。おっぱいが大きかったり、ギャルだったり、経験済みだったり、継母の連れ子だったり、隣の部屋の同級生だったり、おっぱいが小さかったり。それは面白くはないけど、好き」


「好きと面白いは違うの?」


「違う。面白いAV女優は一人もいないけど好きだし、好きなお笑い芸人は一人もいないけど面白い。例えば、ラノベのヒロインが主人公の家に来て料理をするとき、何を作ると思う?」


「作品によって違うんじゃない?」


「決定的な二つがあるよ」



 無言のシンキングタイムを絶望と捉えるかは微妙だ。少なくともお互いにとって虚無ではない。会話の中で相手に考えさせるのは、異常なのかもしれない。ただ、答えという解決が見えているので、随分と希望的な、絶望だと言える。しかし教室で、教師のニヤけた悪ふざけの、このようなくだらないクイズを真剣に考え、無駄な長考をするようなあの馬鹿な生徒が作りだす、虚無と異常は確実に絶望と言えた。解決まで、時間がかかるほど、第三者は絶望を感じやすい。ただ、僕とバンビは今二人なので、ベンチ上、雨の下、傘の中、この世界で絶望を感じる第三者はいない。というところで、バンビは口を開いた。



「おでん」



 最高の女じゃんって、言いたい。言えない。それが絶望の正体だ。



「不正解」



 自分の家に遊びに来た顔の良い女が、おでんを作り始めたら興奮して寝れない。座布団の上から立ち上がってしまう。大根に味がしみていくと同時に、股間の海綿体にも血液が集まるに違いない。じゃあ、君の好きな女の子は何を作るの、とバンビは言う。



「オムライス。くそつまらないだろ?」



 バンビはオムライスにピンとこないようで、どうして、オムライス美味しいじゃん、かわいいじゃん、YouTubeでもコンテンツとして成り立っているじゃん、お子様に人気じゃんとか、色々な否定を顔に貼り付けなながら、ただ絶望して、僕の解決を待った。



「まずオムライスはまずい。それを世間知らずの阿保が作るんだから世界一まずい」


「おいしいよ」


「それは錯覚。隣にあるエビフライ。伝統と継承のデミグラス。国旗。これがオムライスに覚える美味しさの正体だよ」


「違うよ」


「オムライス、好きなの?」


「ケチャップが好きなの」


「トマトが好きなんだ」


「嫌いだよ。好きなのはケチャップだけ」


「じゃあ、オムライスにトマトを乗せたら食べれる?」


「なんでそんな酷いことするの?」


「それが純文学だと思うから」



 雨が傘を貫通した。洪水は足元の泥水で満たした。靴をベンチの上に避難させた。ニューバランスのスニーカーは大谷に憧れて履いている。靴を脱いで、膝の上に置く。水の滴る靴下を脱いで、雑巾のように絞る。裸足をベンチの角に乗せる。体育座りになる。



「雨は好きだけど、水は嫌いなんだ」



 バンビは僕の行動を見て言った。そもそもの泣いている女の子が好きだという勘違いを正そうと、僕は口を開いた。勘違いは絶望ではなかったが、それを正す行為は解決と言えた。



「雨は普通。水は好き。濡れるのが嫌いなんだ。んで泣いている女の子を見るとイライラするから、泣き止んでほしい」


「じゃあ雨も止んでほしい?」


「止まない雨こそ純文学だよ」


「雨が止まないと大変だよ」


「絶望しちゃうよな。止まない雨はないという希望じゃなくて、止まない雨の世界でどう生きるかっていう解決が、純文学だよ」


「なんでそんなに、純文学だよって、変だよ」


「いや、だって、君が聞いたんだろ。純文学って、なに? って」



 役割を失った傘を、水の上に浮かべた。




◇◇◇





 憧れるのを止めましょうと言われて、僕は絶望した。三分間の絶望の後、これは夢だと自己解決した。なぜなら僕はロードバイクの上に跨り、モンリュソンなる都市を駆け抜けていた。隣を走るジュリアン・アラフィリップが、少年時代をここで過ごしたと解決する。自転車の集団が目指す地はムーラン。ムーラン・ルージュというのはフランス語で赤い風車のことだから、ムーランもそういう意味だろう。風が強い地域なのだろうか。自転車は風に弱い。アラフィリップ曰く、ムーランの由来はアリエ川の沿岸にある風車小屋のことらしい。ノートル・ダム大聖堂という聞き馴染みのある名前が聞こえてきたが、その頃には、ペダルを漕ぐのを止め、集団の後ろに下がり、バンビと並走していた。


 バンビは頭を下げていた。必死に足を回している。口は開き、子気味いい呼吸音が聞こえてくる。身体から離れた汗を置き去りにして、僕はその汗に手を伸ばした。手のひらに受けることに成功して、たった一滴が渇く前に舌で手のひらを舐めた。確かに汗はしょっぱいのだが、特有の麻薬成分を分泌し、僕は股間の空気抵抗を増やした。車窓から手を伸ばすと風はおっぱいの感触になるように、僕は全身におっぱいの感触を浴びた。空気抵抗の正体はおっぱいだった。しかし反対に、おっぱいが空気抵抗には思えなかった。それは僕が男の子だからだろう。女の子にとっては、空気抵抗はおっぱいであり、おっぱいこそ空気抵抗であるはずだった。乳交を楽しむ最中で、ボトルの受け取りを忘れていた。気温は摂氏42度を超えていて、僕の喉はバンビの汗の塩分のせいもあってカラカラだった。みんなが美味しそうに水を飲む姿が目に入って、余計に喉が渇いた。ワウト・ファンアールトが先頭を牽いていた。その後ろをセップ・クスが続き、マイヨ・ジョーヌを着たヨナス・ヴィンゲゴーが控えていた。チームユンボ・ヴィスマの集団牽引に便乗する形で、イタマル、ミッキー、エルダッドが続いた。彼らは、のどがかわいていた。イタマルの水分補給をエルダッドが邪魔するのが見えた。身体に水分が枯渇し、血液が粘着し、酸素を運ぶ効率が悪くなる。干乾びたような僕の外皮と、熱に撫でられたチョコレートのような体内が、どうしようもなく鬱陶しい。どうしてか僕は苦しかった。夢というのに気づいてしまえば、夢も現実と等しく苦しいのだろう。


 バンビは僕の肩を叩く。それは何かの合図で、バンビは左手に持ったボトルをユラユラと僕の頬に近づける。ああ、ボトルの先端は哺乳瓶のようで、まるでバンビは母のような、全身におっぱいを感じながら、口を近づけ、その入り口のある突起を咥えた。バンビがボトルの身体を絞ると、先端から経口補水液が溢れる。僕の頬袋はそれを確かに受け入れた。ボトルの先端を惜しみながら離す。口を閉じて、水分を捉える。口の中に泉ができるだけで、まずは脳から乾きが潤っていく。そのオアシスを飲み込む。インフルエンザ三日目のマックのポテトのようなキラメキ。僕は右手を挙げた、バンビはそれを叩いた。

 

 公園にある象の滑り台から救出されたのは深夜のことだった。救出部隊のライトで目を覚ました僕は、まだ寝ているバンビの肩をゆすって起こした。いつの間にか雨は上がっていた。寝る前までは降っていた。よく雨に打たれながら寝れたものだ。あれは気絶だったのかもしれない。肩まで水に浸かった時計を確認すると0時26分。あれから十四時間が経過していた。まだ公園に傘は浮いていた。レスキュー隊は救命ボートを象の顔の隣に着けた。まずはバンビが隊員に支えられて、ボートに乗り込んだ。僕は一人でも乗り込めると思い、右足を踏み出したが、左足を象から離すのが怖くて、結局隊員に支えて貰った。僕らを回収したボートは高校へ向かうらしい。校舎は少し高いところにあり、体育館に町中の人が避難していると隊員は言う。ボートには四人と一匹。僕とバンビ、バンビを助けた隊員と、僕を支えてくれた方の隊員は隊長らしい。そして黒猫。猫を回収してくれるなら、あの浮かんでいる傘も回収してほしいと思ったが、救出隊のマニュアルでは傘は生命ではないようだ。猫がニャーと鳴いた。死ぬかと思ったぜ、と言っている。



「ほんとに助かりました。死にそうでした。今際の際すぎて、変な夢を見ていました。昨年のツール・ド・フランスと、オルレブの『のどがかわいた』が混ざっていた。そういえば、近くを流れる川があった。何川と言ったかな。夢の中で聞いた気がするんですけど思い出せない。ともかくその川が僕には三途の川に見えましたよ。あはは」


「あはは」


「あはは」


「あはは」


「にゃはは」



 新潟県南部を襲った記録的な豪雨は二千五百十四人の犠牲者を出した。四百三十三名の死者、七百九十一名の行方不明者、千二百九十名の重軽傷者、人間は細かく計算されるのに、猫が何匹死んだのか、何匹の猫が消えたのか、怪我を負った猫が何匹いたのかは、誰も数えなかった。少なくとも生きている一匹の黒猫は、体育館に集まった群衆の間をするすると歩いていた。


 猫は人の間を歩いた。自慢の黒毛はまだ湿っていた。球遊び二つ分の空間にいくつかの区分が出来上がり、即席的な家庭を形成していた。猫は野良猫である。もちろん、家の隙間にあるような塀の上を進む。人の下敷きになった段ボールの隙間から、木目が見えていた。そこに肉球が触れても、木の感触はなく、猫は歩きながら少しの不思議を脳裏に覚えていた。もちろん木の床も、猫の肉球など初めての感触であり、お互いに不思議を溜めているような関係だった。そこで、猫を抱き上げる少女が現れた。猫に名前はまだない。少女は猫を抱きかかえた。「かわいい」という音が猫に耳に届いた。実際、猫は人間のホームレスよりも汚かった。少女は猫を撫で、濡れた毛並みを憂いた後「迷子かな」と呟き、自らの家庭へ連れ帰った。四つの段ボールのスペースに、家から運んできた毛布や、座布団などを並べ、少女の家族は身を寄せ合っていた。真ん中に置かれたラジオが、悲惨を語っていても、猫には意味など分からない。先ほど聞こえた「kawaii」という音について、思いを馳せながら座布団の上に大人しく座った。猫は子猫だった。


 少女の家族の一人、おそらく母親だろう。猫には母親が分かった。自分にもかつて母親がいたからだ。その母親が立ち上がった。家庭の前を、少年が通ったのだ。猫は少年を覚えていた。同じボートに乗って、ここまで来た。周囲を見渡しながら不安気な表情で歩いていた少年は、少女の母親によって止められた。ああ、どうもって感じの少年の顔を、少女は壁に背をあずけ、毛布にくるまりながら見上げていた。


 母親は少年に必死に語りかけていた。少年の表情が曇っていく。雨が降り出すことはない。男の子だから。母さんは連絡が取れません。父さんもです。妹は小学校の方にいると思います。思う、だけです。予想と願望が入り混じって、正確な思考ではないかもしれません。……一人なの? はい。一人です。じゃあ、私たちと一緒にいなさい。猫には分からないことが、少女には分かる。ただ、ジッと少年を見つめていた。何か分かっても、何もできないのなら猫のようなものだ。察しと、戸惑いが同時に訪れ、しかし察しは、戸惑いを死刺し、ただ少女は平然を貫き座っている。仕方なく何度も首を横に振る少年に、猫はなんとなく憧れ、首を横に振ってみる。少年の肩を掴んで離さない母親に、少女は憧れ、しかし何もできない。少年が一歩、ダンボールの上に足を置いた。それは右足だった。黒い制服のズボンから、裸足が生えていた。左足も同じようなものだ。身体はもうダンボールの上だった。みんな限りのある体育館にいるから、あまり広くない家庭だった。。少年は少女の隣に座った。猫は座布団の上から少年の膝に移動した。無駄に格好つけて座っているから、猫も納まりが悪かった。



「お前んちの匂いがする」


「そう? 気づかない」


「花が焦げたみたいな匂い」


「悪口?」


「口が悪いだけ」



 私には違いが分からないなと少女は言うけど、猫には分かった。猫もニャーと言う。あれは悪口ではない。口が悪いだけだ。悪口というのは事実だ。つまりオムライスが世界一まずい食べ物というのが悪口だ。事実なのだから。お前はオムライスだな。口が悪いというのはこういことだと猫は思う。ここまで思えるようになったのだ。そして猫は自分にアルトと名付けた。


 見たことない猫だな、と少年は呟いた。アルトは発狂した。ニャー。見たことはあるだろう。先ほどまで同じボートにいたのだから。まさか忘れたというのなら、アルトは少年に嚙みついてやろうとした。こいつ、名前は? と少年は聞いた。野良猫だから無いよ、と少女は応えた。名前はあると、伝えたかった。



「なんで野良猫ってわかんの?」


「だってそいつちょー汚いもん」



 汚いもんという悪口と、ちょーという口の悪さ。少年はちょーの部分をかわいいと思ったので、口の悪い女の子が好きという、耳の良さがあった。アルトは発狂を止めた。ニャーどころではなく、体臭が気になった。膝の上で毛づくろいを始め、それを見た少女が笑った。少年は笑う気分ではなかった。母親は少年に毛布を掛けた。アルトは暗闇に包まれ、毛布の隙間から抜け出した。もう一度、毛布の上から少年の膝に登った。にゃはは。と、笑ってみせる。顔だけ毛布から出した、少年少女。ああ、お前、ボートで一緒だったやつか、と少年は言った。アルトに手を伸ばし、頭を撫でようとして、止めた。アルトは毛づくろいを始めた。


 ラジオが二十二時を報せた。体育館が消灯する。暗くなっても夜目が効く。少女はおやすみと呟いた。少年はうんと返事をする。アルトは、少年が目を瞑っていないのが見えた。毛布の下からスマホの光が漏れた。少女の父親が手元の小さな懐中電灯を頼りに、ダンボールの上に帰ってくる。肩を優しく叩かれた少年は、起きたふりをする。



「小学校の方と連絡が取れた。あさかちゃんは無事だから。今日は眠りなさい」




◇◇◇




 

 目の前にバンビがいた。そこは美咲であれよ。いい感じの雰囲気だったじゃないか。バンビが目の前にいてくれるおかげで、これが夢だと気づいた。靴下を履いていた。床を踏みしめると、水が染み出た。椅子の下に水たまりを作る。僕の家のリビングだ。家の後ろが川だから、床まで浸水しているだろう。床下収納に置いてあるいくつかの荷物は、泥水でダメになっているはずだ。いつもあるところに時計がなく、ドアがある場所は壁になっていた。テーブルの上のお茶碗には、白米が盛られていた。僕の目の前にはスプーンが置いてあった。バンビはテーブルの向こう側で缶を振っていた。赤い残像になっている。中身は何か分からない。おそらく赤い。純粋な水分ではなく、底に溜まるような固形物を含んでいる。シコシコと振っていた右手を止める。左手の親指でプルタブに指圧を込める。無音で缶は開いた。思えば音がない。トマトの匂いが鼻を通って脳に届いた。バンビはお茶碗の上で、缶を傾けた。缶の中から、溶け始めのトマトと、赤く濁った水が、白米に降り注ぐ。バンビはスプーンで白米とトマトを混ぜ合わせる。バンビは顔の良い女の子。気色の悪い料理を作る。



「     」



 パクパクとバンビの口が動く。萎み、弾き、開き、閉じ、萎む。聞こえない五つの音に絶望が宿った。口を開いて、音もなく、閉じた。あのときの絶望が悪意なく襲った。音のない夢の空間は絶望に満ちていた。バンビは机の上に登った。布は擦れたが、音は聞こえず。そこから二歩進み、足音はなかった。僕を高い位置から見下した後、目の前でしゃがむ。ロングスカートの中に、お茶碗が隠れた。


 スカートの折り目の見ている時間が続いた。バンビが何をしているのか想像ができなかった。空気抵抗がおっぱいだというのに、おっぱいが空気抵抗には思えないのと同じような感覚の謎が脳裏でうろついていた。女の子の共感をバンビは静かに放っていたのだろう。それを僕が認識できないのは当然だ。 

                                                                                                      

 バンビは立ち上がった。くるぶしの間にお茶碗が見えた。二歩下がって、足音はなかった。机から降りて、着地のときに音が鳴った。脳みそのの一貫性の無さが、解決を生んだ。完成、という声が聞こえた。バンビは椅子に座り満足気でいた。いつか教室で見たそれとそっくりであったのだが、今日のバンビはまさしく料理人であった。ともすれば先ほど絶望が解決したこの世界で、美味しいだの、宝石箱など言うのは簡単だった。まず、僕はお茶碗の中を除いた。トマトと混ぜられたつゆだくの白米に、乳白色のドロッとした粘度がある液体がかかっていた。僕はスプーンを手に取り、それを少し混ぜ合わせる。少し、というのは混ざらない程度のこと。何かを隠そうとして混ぜ合わせようとしたのだが、混ざって欲しくもなかった。スプーンで突いていた手が止まる。乳白色の粘液には、赤い液体が混ざっていた。妙な感動が僕の胸を襲った。それは刺すような痛みだった。体温は上昇し、毛穴から汗が吹き出した。いただきます、と言葉にした途端、胃が締め付けられ、吐き気と共に、喉に酸を感じた。スプーンでトマト混じりの白米をすくう。眩暈がして、それが落ち着くと、身体の異常が全て消えた。スプーンを唇に運び、口を開いて受け入れる。咥内の空白の中に一瞬だけ滞在したスプーンを、口を閉じると同時に狭い唇の隙間を通って引き抜く。それ、が舌に落ちた。僕は気絶した。




◇◇◇




 ただいま、と僕の口から出た言葉が耳に届いた。体内を通ってきたのか、それとも外へ出たものが跳ね返って耳に届いたのか。僕の音に対する認識は緩く、せいぜい歩行と同じ扱いだった。というのは置いといて、夢の中で意識を失ったような気がしてきた。夢のことなんて現実でいつまでも覚えていられるものでもない。そもそも僕は夢から覚めたのだろうか。確かに僕は、覚めたのだが。目の前には廊下が伸び、視界の端には段差があった。靴が整頓して並び、棚の上には鏡があった。鏡の中に映る僕はスーツを着ていた。顔が大人びたとかそういう変化はなく。ただ大学一年生のような恰好だった。手にはカバンを持っていた。大人が会社に持っていくような、資料が入っていそうなカバンだ。それを段差の先に置いた。ネクタイというものが首に巻かれていた。それを緩めた。立派な革靴を履いていた。それを脱いで、段差の先に上がった。知らない家だ。まあ、夢だろう。



「おかえり」



 廊下の先から、少女が駆けてくる。床に足が着くたび音が鳴るから、トタトタと聞こえる。小学校低学年くらいの女の子が、僕の腰に抱き着いた。ノンレム睡眠とレム睡眠を繰り返したときに起こる夢の旅のようなものだろう。僕は少女の頭にポンと手を置いた。少女は髪を二つに結んでいた。この時間の女の子は髪を解いているだろ、という指摘は、僕が面白いものよりも好きなものを優先するせいで起こるバグのようなものだろう。少女の髪は二つ結びであってほしいという、つまらない願望だ。



「今日はね、オムライスだよ」



 役満でも出上がった気分だが。ロンはしないで見逃しておく。お父さんはね、オムライスが好きなんだよ、と笑顔で応える。知ってる、と元気よく返事がくる。女の子に腕を引っ張られて、廊下を進んだ。僕の足音は少し低い。


 女の子が開けたドアに通る。リビングも見たことがない。見たことがないものなんて、夢に出てくるのだろうか。ツギハギでできた理想を目にしたときに、これは違うなと思うのと似ていた。テーブルの上には確かにオムライスがあった。肌がツルツルな玉子に、滑らかなケチャップがかかっている。遊び心のように刺さった旗は、中華人民共和国の五星紅旗。赤と黄色は確かにオムライスを象徴しているような気がする。



「おかえり」



 キッチンに美咲が立っていた。水の流れる音がする。洗い物だろうか。僕が帰ってくるまえに皿を洗い始める。皿洗いくらいは手伝おうと思ってしまう男の優しさを、さらに超える女の優しさを感じる。優しさこそが女の良さだ。優しい人間でないと、煮込む料理はできない。おでんこそ優しさの象徴なのだ。先にごはんにするよ。聞かれなくても、そう応える。盛り付けられたオムライスがあるのに、お風呂にするわけにもいかない。女の子が見ているのに、美咲にするわけにもいかない。椅子に座った僕の足に、黒い毛並みの猫がすり寄った。こいつは、見たことのある猫だった。


 女の子は僕の隣に座った。たぶん娘なんだけど、そう認識できない。ノイズが混じる。僕が一度でもセックスをしたことがあったら、この子を娘と思えただろうか。妹に似ているのもある。僕の妹は、家にいるときに髪を結んでいるようなセンスのない女の子ではなかったが。いただきます、と呟く。


 スプーンでオムライスを削り、ケチャップとよく混ぜて口に運ぶ。一瞬、鈍い痛みが身体を襲った。イップスにでもなったかと思ったが、すんなりと口の中にオムライスは入った。咀嚼するたびに、卵とチキンライスが混ざる。ほとんど炒飯だろう、と思いつきケチャップの味がしないことに気づいた。それどころか味を感じない。どうやらこの夢には味覚がないらしい。


 オムライスの味などどうでも良いのだ。オムライスが想像を絶する味になったことなどないから。味がなくとも想像に容易い。結局、ケチャップの味しかしない。誰が作っても同じ味になる。オムライスの最高到達点は低く、それがオムライスである時点でそこには達している。ただ底なしに不味くなる。オムライスの不味さに限界点などない。人間がオムライスに対してできることは、美味しさを追求することではなく、不味さを極めていくことだけだ。女の子が感想を求めてきたので、美味しいよと呟く。その美味しさこそが、つまらなさ。子供が作っても、美味しくなるのだから。茶色く変化しても崩れない大根にこそ、女の子としての魅力が詰まっている。


 下方向に極まったオムライスはどんなものかと想像したときに、脳の引き出しの一番前にあったのが、バンビが作ったあれだった。一瞬前に食べたばかりのあれこそ、オムライスの底辺を目指す過程にあるものなのだろう。その不味さは底なしなのだから、一生をかけて進んでいく奈落のアビスのような、永遠の冒険がオムライスにはあった。オムライスは宇宙に似ていた。もしくは、オムライスこそ夢だった。



「そうか。お前の夢なのか」



 オムライスの隣に、猫が座っていた。その口が動いて、ニャーと聞こえてきた。そう。これは僕の夢なのだが、僕にお前と言ったやつは誰だ。また、ニャーと聞こえた。ちょうど口の中のものを飲み込もうとしたときのことだ。吾輩は猫である。と言われたような気がした。夢なのだから、夏目がいてもおかしくはない、か。何か、目覚めのキッカケのような感覚があって、僕も夢に慣れてしまったのだろう。オムライスは僕の喉を通過した。喉にあったスイッチを、オムライスが弾く。視界がブラックアウトする。



「名前はアル……」



 あるのなら名乗れという言葉が、睡眠の狭間に残った。




◇◇◇



 

 スプーンが落ちた。テーブルの上で震えながら高い音を立てた。口からトマトが零れる。吐血かと思い、心臓が縮む。おでんを作る幼女は傑出しているという結論だけが脳裏に残っていた。トマトは脳みそから逃れたい。バンビは悲しそうな顔をした。美味しくなかったのか、僕に尋ねた。僕は頷いて、面白いと褒めた。最悪の女だ。女の子ではもはやなかった。子というのは僕の理想の幼さの中にのみ存在する。ならばバンビは女だった。マイナス×マイナスがプラスなら、最悪の女というのは最上級の褒め言葉だった。下天元まで極まったオムライスがあった。目覚めても夢だった。


 バンビは不満気だった。椅子から立ち上がり、キッチンへ走った。包丁を握り、戻って来た。怖い握り方をしていた。優しい包丁の握り方なんてあるのだろうか。バンビは椅子に右足を置いて体重を乗せ、グイッと身体を持ち上げて、左足を机の上に置いた。少しバランスを崩しながら、右足も左足に揃えて、机の上に立つ。二歩、進んだ。ロングスカートをめくると、パンツが見えた。白だった。お茶碗の近くでしゃがむ。足が膝を中心に折り曲がり、露出した太ももが目の前にくる。ヒロインが家に来て料理をするときの決定的な二つが僕の目の前にあった。オムライスと太もも。白くだらしのない肉塊の表面に細くグロテスクな血管が透ける。吸い付きたい。頭を乗せたい。枕と呼んでもいいんじゃないか。バンビは自らの淫らな太ももに刃を当てた。血が流れた。刃は太ももに吸い込まれていく。僕は刃になりたかった。半分まで太ももに埋まった。バンビは自分の太ももをそぎ落とした。肉片は血を零しながら、お茶碗の中に落ちた。机の上にバンビは崩れた。捲れていたロングスカートがはらりと机から垂れる。黒く染まり血が滴る。いつの間にか乾いていた床に、また水たまりができる。バンビの目から涙が流れた。左目から流れた涙が、右目に到達する。右目から流れた涙は机の上に零れる。顔から赤が消える。



「いただきます」



 白米。トマト。おりもの。バンビの肉。

 親子丼だ。





◇◇◇







 蒸発が始まった。ラジオが何かを伝えていた。黒猫が膝にいて、黄色い目が僕を見つめていた。夢から解放された僕は、天井を見上げた。高すぎて、眩暈がした。鉄骨の隙間にバレーボールが挟まっているのが見えた。あそこから落ちてきたら、すごい勢いがついて、当たったら痛いだろうな。隣を見ると美咲がすやすや寝ていた。反対を見るとバレーボールが転がっていた。つむじが思い出したかのように痛みはじめた。


 蒸発の影響か、外は蒸し暑かった。グラウンドにトラックが止まっていた。サッカー部のやつが起こりそうな場所で、水を配っていた。僕はペットボトル一杯分の水と、そのトラックの隣のトラックで配られていたコッペパンを貰った。もう一つとなりでは生活必需品が配られていて、トラックの隙間に設置された机の上にはスマホを充電することができた。ライトニングケーブルを見つけ、僕のアイフォンに刺す。僕のアイフォンって、頭痛が痛い。肩を叩かれ後ろを振り向くと、バンビがいた。頬に人差し指で一刺し。歯と歯の隙間に、頬肉が挟まる。鳥は何派、と聞かれる。ハト派、と応える。



「私はからあげ」


「ニワトリは空を飛ばないよ」


「育て方しだいだ」


「飛ばれたら困るだろ。からあげにはできない」


「飛んでるやつを殺して、食べたほうが素敵だと思うな」


「殺すのは勿体ない」


「食べるんだから勿体なくないよ」


「せっかく飛ぶまで育てたのに」


「全ての動物に行ってよ」


「僕は植物の味方だから」


「素敵だね」



 僕の言葉のサッカーは、バンビのバスケの餌食になった。僕のドリブルとバンビのドリブルは根本的に違った。彼女の思考はケミカルだった。味方と素敵で味の素。おでんをコンビニで買ってくる。食材を煮込むことを知らない。ラーメンを食べようと思って、店に行くか、インスタントかこの二択しか用意できない女の子に、お風呂にする、ご飯にする、それとも私? と言われても、私という選択肢はない。いや、ある。むしろ、ご飯という選択肢がない。一緒にお風呂に入るか、私にするかの二択だ。お風呂でバンビにしてもいい。ああそうか。オムライスなんて食べ物は、セックスフレンドでも作れるのだ。セフレは食材を煮込めない。煮込む工程にこそ嫁が宿る。空気中の水分が僕の肌に纏わりついた。汗なのか分からない。


 リュックの中にパンを詰めた。教科書は置いてきた。水は重くなるから、必要になったときに貰おう。校門前にゴムボートが浮かべられていた。石の階段の六段目の場所まで、水はまだ残っていた。いつも通るアスファルトの道が、野球部が立ちションをする側溝と一体化している。僕が片足を乗せると、ゴムボートは少しだけ揺れる。消防士の麻生さんがバランスを取ってくれた。



「山に近いほど水の被害は少ないが、土砂崩れが何件か発生している」


「父は坂戸、母は塩沢で働いていました」」



 麻生さんがオールで漕ぐと、ボートはゆったりと水の上を進む。水の中を見ても死体は見つからない。行方不明者が流れていてもおかしくない。いや死体は浮かぶのか。水の中で死んだ人は、もう見つかっているのだろう。行方不明者というのは土の下にいるのだ。



「坂戸山も崩れている。塩沢は広域にわたって浸水した」


「ここがそうなら、そうですよね」


「六日町小学校はダメだ。小学生は北辰小学校に集まっている」


「六小の子は、六中に逃げた方が近くないですか?」


「間に駅があるからな。遠回りをしても混乱を避けたかったのだろう。現場の判断だ」


「水害と土砂災害はどちらを優先して救助に向かうんですか?」


「消防士になりたいのか?」


「はい。消す方じゃなくて、防ぐ方に興味があります」


「なら勉強と運動を頑張りなさい。優先順位は状況によって異なる」


「じゃあ勉強を頑張ります」


「どちらも頑張りなさい」


「冗談ですよ」



 あはは、と笑ってみせたが、麻生さんの気には召さなかったようだ。ムスっとした顔でオールをひたすら漕いだ。水にガレキが浮かぶのが見える。古い木造建築の家ほど、崩れていた。ここら辺は通学路だから、崩れている家がどんな家だったか明確に思い出せた。



「私の家は、崩れているのが見えた」


「僕の家は、台風が来たときもビクともしなかったから、大丈夫だと思いたいです。でも、家のすぐ裏に川があるので、それが不安です」


「きっと大丈夫さ」


「その言葉は、消す方ですか? 防ぐ方ですか?」


「消防士の言葉なのだから、両方だ」



 ボートは細い小道を進んでいく。小学生の頃を思い出す。押しボタン式の信号があって、大きな道路にあるような、押さなくてもいい押しボタン式の信号ではなくて、これは本物の押しボタン式の信号だ。押さなくては、いっこうに歩道は青にならない。小学校のグラウンド横の坂道は、半分の所まで浸水していた。その道路を通って、トラックがグラウンドに入っていくのが見えた。



「これギリギリでしたね」


「校舎は浸水した。体育館がある場所は少し高くて助かった」



 校門まで水は続いていなかった。道路の途中でボートが座礁し、ゴムとアスファルトが擦れて鈍い音が鳴る。僕は麻生さんにお礼を言って、ボートから降りた。久しぶりの小学校だった。北の星を指さした少年少女の銅像があった。小学生の中に、近所の大人も混じって避難先を形成していた。それでも圧倒的に子供の数が多い。大人がたくさん死んで、子供はたくさん生き残った。それでも少子化だから、子供一人につき、頼りにできる大人が一人くらいは生き残っていているはずだ。僕は小学校の体育館へ向かう。中庭にある入口からギャラリーに入る。玄関で立っていた大人が、靴を入れる袋をくれた。



「あの。ここの先生ですか?」


「そうですよ」


「三年四組の佐藤 朝日の兄です。えっと、名簿番号は11番だったかな」


「ちょっと待ってて、三年四組の担任の先生を呼んでくるから」


「ありがとうございます」



 靴を入れた袋を持って、僕は緑色の床の上で立って待った。僕が小学生のときとは、雰囲気が変わっている。トイレが綺麗になったとか、こんなところに棚はあっただろうかとか、その程度だけど。右の踵を浮かせたとき、僕をジッと見つめる人がいた。



「あれ、もしかして。佐藤 扇くん?」



 見たことのある黄色と赤のジャージを着た大人だった。



「ロッキー先生?」


「そうそう。よく覚えているね」


「いや、先生こそ。今、教頭なんですよね?」


「へへへ。大変でね」



 小脇にたくさんの資料を抱えていた。クロスカントリースキーを教えていたロッキー先生はストックとサングラスが似合うスポーツマンだった。束になった紙を抱えているイメージはなかった。



「五年前に卒業した生徒なんてよく覚えてますね」


「覚えているよ。あの割れた岩を見るたびに思い出す」



 ロッキー先生は中庭を指さした。そこには真っ二つに割れて、断面を見せる岩があった。いつも空っぽだった池に、水が溜まっていた。いや、あの岩を割ったのは、僕ではなくて、僕の友人なのだが。



「じゃあ。僕は忙しいから、これで」


「あ、はい。あの岩を割ったのは僕じゃないですよ」


「久しぶりに聞いたね。その言葉」



 思い出した。ロッキー先生は僕の言い分を全く聞いてくれないのだ。その言い分は忘れてしまった。全部、口から出まかせの作り話だったから。友人と一緒に、たくさんの言い訳を考えて、結果、僕まであの岩を割ったことになった。ロッキー先生は体育館の中へ消えた。それとすれ違いになって、家庭訪問のときに見たことのある女の先生が来た。



「あ、うん。佐藤さんのお兄さんだね」


「妹は?」


「今、呼んでくるから少し待って」



 左の踵も浮かせて、つま先立ちになった。外に出る子供たちに変な目で見られた。僕くらいの年齢の人はここにはいない。高校生は高校が避難所になっているし、中学生は中学が避難所になっている。大学生はこの町から出ていく。クラスが減って、野球チームも減っていく。



「お兄ちゃん!」



 踵を地面に降ろした。飛びついてくる妹を受け止めるために、足に力を込めた。小さな塊が腰にタックルをしてくる。黒髪がサラサラと跳ねた。鳩尾に頭突きが来て苦しかったけど、愛おしさが勝った。



「くさくない?」


「熟成」



 妹は口が良い。口が悪いやつが言うと腐敗とか答えるのだろう。



「お兄ちゃんが煮詰まっている感じ」



 頭を撫でた。どちらにせよ悪口だった。




◇◇◇





 黒鹿毛の上に乗っていた。たてがみが初夏に舞う。府中競馬場の向こう正面でシャフリヤールを我慢させる。結果を知っている方が怖い。バンビはサトノレイナスに跨っていた。バンビにはディープインパクト産駒の牝馬が似合う。ピンクの帽子を被っていた。僕が被っている帽子は目に見えないが、結果を知っているから分かる。黄色の帽子のはずだ。サンデーレーシングの勝負服を着て、鞭を握っている。バンビは無知だった。競馬を知らないらしい。馬上で慌てているが、それがサトノレイナスの早仕掛けに繋がった。


 シャフリヤールはディープインパクト産駒の牡馬だ。溜めれば伸びるし、仕掛ければ粘る。日本優駿は溜めて勝った。前を粘るエフフォーリアをハナ差で捉えた。そのときの鞍上は福永祐一。エフフォーリアは横山武史。福永は引退して調教師になり、武史は明らかに成長を見せている。エフとシャフリの実力は府中においては同格。騎手の差が明確に出る。僕はただ、福永祐一をなぞる。レースの映像は何度も見た。最高のレースだと思っていたから。一年後のダービーがそれを容易く超えた。僕のとなりに川田将雅が並んだ。ヨーホーレイクに乗っていた。彼らは直線で詰まって負ける。前の方にタイトルホルダーが見える。ダービー時の彼を恐れることはない。最終コーナーで内を開ける。僕の外に同じ勝負服のグレートマジシャン。こいつ見た目がカッコよくて好きだったけど、どこへ行ったんだろう。


 最後の直線に入る。東京の直線は525メートル。早く仕掛けすぎると、後ろから捕まってしまう。僕は祐一がそうしたように、シャフリヤールを我慢させて、進路を探した。コーナーは外を回したけど、直線は内に切り込んだ。安全策にも思える早仕掛けをしたエフフォーリアの大きな馬体を目標に、手綱をしごく。一発、二発、鞭を入れる。どのくらいの強さで叩いていいか分からない。人間の非力で馬に何かを伝えるには、全力で腕を振るい、鞭をしならせるしかない。僕の背中で、乾いた音が鳴る。エフフォーリアに馬体を合わせる。大外、明らかにサトノレイナスが粘っている。バンビはルメールよりも10キロ軽い。しかしバンビは鞭を使わなかった。そしてその外、グレートマジシャンの影から、ヨーホーレイクが飛び出す。彼もまたディープインパクトの息子だった。そのまま先頭でゴール板を通りすぎる。川田将雅はガッツポーズをしない。電光掲示板を見る。僕は三着。バンビが二着。大きく結果が変わった。祐一と同じように乗ったのに。たぶん祐一は、同じようには乗らないのだろう。川田は変化を恐れなかった。


 僕はシャフリヤールを促し、サトノレイナスの横に付けた。今日の府中に観客はいない。コントレイルが勝利したときのようなダービーだった。川田は無観客のスタンドに一礼をした。バンビはサトノレイナスの上で縮こまり、サトノレイナスはすました顔をしていた。ダートコースを二頭は並んで歩いた。同じディープの息子と娘なのに、兄妹と呼べないのがサラブレッド。



「夢だね。これ」



 僕の夢の中でバンビが自我を持つようになった。僕とバンビはいくつかの夢を共有している。僕の家、ツール・ド・フランス、日本優駿と、バンビには分からない舞台だから、夢の主は僕だ。それが夢だと気づいたのは賢さの差で僕が先だったが、バンビもようやくここが夢だと気づいたようだ。



「意味の分からない夢にまで出てくるくらい、君のことが好きみたいだ」


「鞭を使えば、勝てただろ。どうして使わない」


「かわいそうじゃん」


「競走馬はかわいそうじゃない」


「君はそう思うんでしょ。価値観が合わないね。私たち」


「僕は正しくて、バンビは間違っているからね」


「間違っているのは君、正しいのは私」


「ほら。間違ってる」


「君さあ。私の夢で、自我持ちすぎじゃない?」



 バンビはここが自分の夢だと思っている。その理由は思いつかない。ツールとダービーを知っている可能性はあるが、バンビは僕の家を知らない。それでも自信満々に言うから、僕はここが本当に僕の夢なのか不安になってくる。バンビは精神が強い。それが夢の世界ではそのまま強さになる。負けそうになる。現実をなぞるより、鞭を使わない方が強い。負けそうになるのではない。もう負けたのだ。


「バンビと馬なんて、まんま馬鹿じゃん」


 鞭が顔面を襲った。




◇◇◇




 目が覚めたときに、朝日がいるのは幸せなことだ。起きたときに朝日がいないと、まるで夜に目覚めたような感覚になる。足りなさのようなものがある。朝日がいると、夜に起きても満足できる。朝日は僕のお腹にほっぺをくっつけて眠っていた。下の方にある小さな窓から、外が明るいのが確認できた。腕の中でもぞもぞと朝日が動いた。そのあと少し止まって、パチと目を開く。僕を確認して、安心したようにもう一度目を閉じる。おきよ、と僕は言った。まだねる、と口だけもごもご動いた。僕は朝日の二度寝に付き合った。昇った太陽も珠に雲に隠れることがあった。足下にまでめくれていた毛布を、肩にかかるように直した。


 二人で歯磨きをした。水を付けて、泡立つように。歯よりも舌を優先的に磨いた。二度寝をしたおかげで水道が空いている時間に歯磨きができた。捻って出るのは泥水なので、配給された水でうがいをした。

 久しぶりに妹の手を握った。水は蒸発し、砂だけが残った。国道の信号が回復していなくて、誘導の人が立っていた。住宅街に入ると多くの建物が崩れていた。周りの家が全て崩れていた。それなのに僕の家が見えない。数百メートルを、無言で歩いた。饒舌な妹が口を開かない。ガレキが道を侵食して、歩きづらい。近所の人が自分の家を見て呆然としていた。冬の大雪にも耐えられる頑丈な新潟の家が、たった一度の雨に負けた。


 一階は跡形もなく潰れ、二階が崩れて手前の駐車場に流れていた。どこを見ても屋根だったものが無くなっていて、水に流されてどこかへ行ったのだと思う。三階の屋根裏にいらなくなったものを置いていたから、崩れたときの衝撃で散乱していた。僕と妹はベビーカーの前に立った。骨折していた。濃い緑の布に泥が溜まっている。転がった魚から死臭がした。ぽりえちのかわいさに気づいた。


 妹は僕の手を離し、僕は妹の手を放す。ガレキの近くでしゃがむ。転がっていたアルバムを手に取った。中を見て何回か捲り、中途半端なところで閉じた。振り返り、僕を見上げた。右の頬だけが上がっていた。白い歯を見せながら、口を動かす。めんど、という言葉と共に、妹はアルバムをガレキに投げた。



「お兄ちゃん、これ燃やした方が早いよ」



 妹は明らかにタラートよりもカッコいい。



「これ湿気ているから燃えにくいと思うよ」


「思い出は乾いているから。よく燃えるよ」



 ガソリンスタンドで灯油を購入した。ついでにマッチも買った。店内の泥を片付けている店員に話すと、自殺を疑われた。焼死するくらいなら溺死しますよ、という言葉で納得してもらった。妹は失礼な店員だとプリプリしていた。妹は灯油をガレキに撒いた。マッチに火を着け、遠くから投げて燃やそうとしたが、放物線を描く途中で火が消えた。僕は弓を作った。矢の先端に余った灯油を付け、そこにマッチの火を移した。キリキリと弦を引き、矢を放つ。ガレキの山に火が灯る。ついでに魚を投げて火葬する。





◇◇◇



 

 一面に花が咲いていた。視界の端まで広がる高原に、色とりどりのチューリップが咲いていた。夢だと気づいた。けれど僕の夢ではなさそうだ。僕は花というのに一切の興味がない。だから僕は植物の味方になれる。僕の脳内で花は咲かない。だから僕の夢ではない。チューリップとかいう唇キッスみたいなクソダサい名前を付けられてもなお、へらへらと人間に支配される野生を忘れた家畜を僕は踏み潰しながら歩いた。何かに隷属した状態の芸術など美しさの欠片もない。



「花がかわいそう」



 バンビは言った。彼女は本気で花が可哀想だと言っているのだろう。その表情が物語っている。だから面白い小説が書けない。ポリエチレンテレフタラートのぽりえちはかわいい、タラートはかっこいい。だが、バンビはかわいくない、かっこよくない。それが小説の二行目に刻まれる。もう、つまらない。



「花がかわいそうってなんだ」


「花が悲しんでいるよ。苦しんでいるよ」



 僕に踏まれたチューリップは茎が折れ、赤い花弁を散らしている。かわいそうだ。そう思う。でも、そう思うのは僕だ。チューリップは自分のことをかわいそうだなんて思わない。悲しいとも、苦しいとも思わない。植物は人間ではないのだから。それが当たり前なのに、バンビは当たり前のように植物を人間扱いする。



「これは人間じゃないよ」


「知ってるよ」


「じゃあ人間扱いするのは止めよう」


「どうして?」



 自ら喋ることができないのに、口づけられた花。



「君が純文学を書くのなら。なんの疑問も抱かずに植物に対して使ってしまう擬人法が、のろくて、とろくて、ポエミーで、ポエジーで、リリカルで、生半可で、怠慢で、不出来で、ぬるくて、ゆるくて、あまくて、うざくて、たるくて、中途半端だし、センスがないし、短足なのに座高も低いみたいな、スタイルが悪いし、そもそも姿勢が悪いくて、威勢を感じなくて、信念もないだろうし、哲学も薄いし、薄いくせに、なんか語ってくるし」


「やめてよ」


「あのクソ不味いもやしがいっぱい乗ったしょぱいラーメン屋の大将みたいだし、ラーメン屋名乗っているのにつけ麺がメニューにある阿保丸出しなやつみたいだし、一等地に店を構えておきながら塩ラーメンに自信があるとかいう海モドキだし、ぬるくなったスープに焼き石を入れて復活させるネクロファジーな店みたいだし、ローストビーフをトリミングしてユッケとして出してる焼き肉屋の焼きの部分に真摯に向き合っているやつみたいだし、行列ができるおにぎり屋とかいう金とる炊き出しみたいなことやってるやつみたいだし」


「ダサいのは分かったから」



 チューリップの感情というのは、男のくせに大晦日と正月の間でジャンプするキショイやつみたいだし、料金払ってないくせに紅白に出場する韓流に否定的な意見を寄せる陰キャみたいだし、ポリコレを意識するディズニーに意識される側にも関わらず馬鹿にする馬鹿みたいだ。バンビはチューリップを進んだ。踏みつけられたチューリップを無視して、僕を目指した。恥ずかしいものだし、中割りのスクショとって作画崩壊とか気取ってるオタクみたいだし、ヤマノススメのよさ分からない馬鹿がゆるキャン三期をエイトビットがやることに決まってちょくちょく作画崩壊気味だから不安とか言ってる存在価値のないアイツよりはまあましか、バーチャルユーチューバーの中の人が主人公のライトノベルみたいだし、ちゅうえいのギャグをパクッて歌にしてバズってるやつらみたいだし、オタクアピするジャニーズのあいつみたいだし、引用って魔法の言葉で無断転載繰り返して公式案件貰えない自称アニメインフルエンサーみたいだし、新作アニメを金曜ロードショーの枠で初回二時間で放送するやつみたいだし、それヤマノススメの五分に負けてるよな。バンビはチューリップの中心で立っている僕の目の前に立った。人を一言で殺せるだけの力がバンビにはあった。才能を感じないし、ストリーマーの配信を切り抜いて収益と自己顕示欲を満たしあわよくばオフパコまで考えてる小賢しいくせに夢だけは大きい効率的な出会い厨みたいだし、選挙いかないやつみたいだし、麻雀プロの打ち筋を結果論で語る救いようのない逆コナンみたいだし、30代のおばさんにガチ恋してテニス嫌いになる能天気みたいだ。バンビは口を開いて閉じた。魅力なんてないし、声優を顔で評価する聾者みたいだし、エーブイチューバ―のスパチャと連動したピストンと喘ぎ声でぬいてる人間の想像力のなれ果てみたいだし、フェミニズムと全く関係のない土俵で戦っているフェミニストとネット中毒者みたいだ。バンビは僕の首に腕を回した。人を一人殺せる言葉を持っていたのに、バンビは口を閉じたままだった。覚悟がないことだと思うし、オムライス作りそうなやつ48人集めてオムライス作らせる集団みたいだし、いつの間にか46人になっててそれでもオムライスを作り続けているし、じじいがフェラチオしてるし、そいつらの音楽が日本で売れてる。バンビは僕の口を自らの口で塞いだ。もう言葉は出なかった。純文学には向いていない。バンビはやさしいのだ。




◇◇◇




 僕は削られていた。生まれたときからあるものが僕を醜く太らせた。両親は僕の口に肉を運んだ。何の疑問もなく僕は肉を咀嚼した。ブクブクと太っていくのに気づかなかった。常識のようなものが、肉だった。家に守られた僕が、流す血の量は少なかった。循環する血は、身体のなかで煮詰まり、ドロドロと溜まっていた。その絶望が、解決した。


 パンの隙間に脈絡があった。人間におけるベストバランスのことが書かれていた。スマホを持ちながらマンモスを狩るくらいがちょうど良いと書かれていた。不純なものが多すぎたのだろう。家と両親は、人が人間であるために必要のないものだ。不純を数えたら限りがなくなる。雨で多くの不純が流された。ロウソクの火で脈略を読む。夜に本を読むのも不純だ。太陽の下で読めばいい。そう思って僕は脈絡を閉じた。


 香川へ行こうと妹は言った。人が生きるには、哲学と守らなければいけない人がいたら十分だった。それ以外は全て不純だった。哲学があること。守らなければいけない人がいること。これらが純の正体だった。生きて、バンビに伝えたい。香川に何があるかは分からない。辿り着くかも少し不安だ。四国に行けば四分の一で香川だよ、と妹は言う。どれだけ歩いたか分からない。富山の方に向かって歩いて、途中から妹を背負って歩いた。リュックは腹で抱えた。たくさんのパンが底を尽きる。そこには脈絡しか残らない。


 香川へ向かうことを選んだのは僕らだけだった。どこかへ向かう大勢の人と僕らは根本が違ったから。ほとんどが東京へ向かう人か、大阪へ向かう人だった。その中でも大阪へ向かう人とは途中まで一緒だった。右目を無くした男性が、大量の水を指さして、あれが琵琶湖だ、と叫んだ。僕らを気にかけてくれる女性が、それに難色を示す。大勢が水にトラウマを持っていた。妹は女性を気に入っていた。どうやら女性の死にざまというのがカッコよかったらしい。



「富士山と琵琶湖くらいか。パッと見で分かるのは」


「香川はパッと見で分かりますか?」


「パッと見ただけじゃ分からないだろうね。ジッと見たら、うどん屋が多いからそれで分かる」


「そっか。香川と言ったらうどんだ。私、最近、パンばかりだから楽しみ」


「そんなのも知らないで、どうして香川へ?」



 妹が香川を目指すのは、かわいくて、かっこいいから。



「主人公だもん」



 僕はどうしようもなく読者だった。




◇◇◇




 川に入ると脈絡が流れていってしまった。丸い石が川を囲んだ。そのさらに外には自然があった。森があった。木があった。幹から伸びた枝に葉があり、それが風に揺れて落ちる。シャツを脱ぐ。ズボンを脱ぐ。パンツを脱ぐ。妹もそうした。魚が生きていた。小さな魚だった。とても美しい川だから、脈絡が溶け込むにはちょうど良かった。人間が文字を認識できなくなるくらいに崩れても、確かに脈絡は流れていた。文字や言葉である必要はなかった。それは小説家にとっては絶望だけど、妹にとっては希望だった。ただ歩いた。歩けないときは僕が背負った。たまに飛び降りて、歩いた。疲れたらまた僕が背負った。リュックの中は空っぽだった。無言の旅が続いた。僕は解決を待っていた。ふいに、僕はどうしようもなく読者であるのに、おでんについて語りたくなった。



「……オムライス」



 それでも口から出るのはオムライスだった。



「好き?」


「お兄ちゃんが作ってくれるなら好きだよ」



 世界が二倍に広がった。まるでおっぱいも空気抵抗だと気づいたときのようだ。僕と妹の間を脈絡が溶けだした水が流れていた。西にうどん屋を見つけた。東にもあった。北には水があった。南には何もなかった。方角は丸い。心は四角い。真っすぐ歩くと世界からはみ出る。やがて駅に辿り着く。線路に沿って歩いたわけじゃない。そのまま北に真っすぐきたのだ。着いた頃には暗くなっていた。線路が二本入る、小さな駅だった。立派にも屋根を付けていた。看板があった。照らす明かりは星と月のみ。だから見えない。見えたのは、おでん。赤い布に、白い文字で書かれている。椅子が三つ並んでいるのが見える。タクシーが止まるような場所に屋台があった。布越しにもぼんやりと明るい。あれにしよう、と僕は言う。うどんじゃないの、と妹は聞いてくる。おでんの出汁でも、うどんになるよ。



「麺がないじゃん」



 のれんをくぐり、真ん中の椅子に座る。静かに具が泳ぐ。ちくわ。ちくわはかわいい。大根。大根はかっこいい。糸こんにゃく。いとこんはかわいい。つくね。つくねはかわいい。つくねがかわいいなら、ちくわはかっこいい気がしてきた。たまご。たまごは、オムライス。ライスがないじゃん。妹は右隣に座った。屋台の中で循環する湯気と、甘しょっぱい匂いの先に顔の良い女の子がいた。


 あっと驚く。



「歩いてきたの?」



 妹は頷く。僕も一緒に。



「私は新幹線で来たよ。そっちの方が早いじゃん」

 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点]  一文目から圧倒されました。私は読者なのに、作品に捕食されているような、私の意思に関係なくこの物語を受け入れなければならない迫力を感じます。主人公の一人称によるユニークな語りも、読んでいて…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ