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月明かりの妖姫  作者: 穂月千咲
暁ノ宮編
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第五舞 箏

 部屋の中の橙色の着物を纏う小さな影はまるで小動物のようで、赤みのある黒髪は綺麗に下ろされている。日和は結亜と呼ばれた少女に一歩近づき、挨拶しようと…。


「ひぃっ」


 何故か小さな悲鳴を上げられてしまった。結亜を見ると彼女は恐ろしいものを見ているかのように怯え、体を震わせている。


「あ、あの…?」

「初めてお目にかかりますー!愛華と申しますー!」


 愛華が日和の隣から勢いよく結亜に身を乗り出す。結亜は驚いてその勢いで立ち上がるとその場から逃げ出した。


「あぁ!待ってくださいよぉー結亜様ー!」


 結亜が必死に逃げるのを愛華が笑顔で追いかける。日和は愛華の襟を掴む。愛華が「ぐぇ」と呻いた。


「愛華。結亜様怖がってらっしゃるから。やめて」

「ふぇ?そうなの?」


 愛華にとっては楽しい追いかけっこのつもりだったのだろうか。沙良の後ろに隠れた結亜の絶望的な顔を見れば絶対にそうとは思えない。日和は溜息を着くと沙良と結亜に頭を下げる。


「申し訳ございませんでした」


 沙良はクスッと笑った。


「賑やかで嬉しいわ。結亜様もご挨拶なさってください」


 沙良が結亜に声をかけるが全く動こうとしない。沙良はそれ以上、無理強いするわけでもなく日和達に謝る。


「ごめんなさい。結亜様、かなりの人見知りなの。気を悪くしないでね」

「お気になさらず」


 人見知りの中でも相当打ち解けにくそうだ。これは侍女としての仕事をするのになかなか高い壁だぞ、と先が思いやられる。


 気付けば雪葵が至近距離で結亜を見上げている。引き離したいが、結亜に近づくわけにもいかないだろう。悪さをしなければ許すことにした。


 結局、初日は結亜と一言も話すことはできなかった。晩御飯も同じ部屋にいるのに黙々と食事だけを見つめている。愛華が色々話していたが、聞く耳があったかどうかさえわからない。


 晩御飯の後片付けを二人も手伝う。その時、沙良が話してくれた。


「結亜様とお話しできるようになるのに、数ヶ月はかかったわね…」

「す、数ヶ月…」


 日和が固まる。壁が一段と高くなった。


「結亜様は昔からあのような感じなのですか?」


 愛華が皿洗いをしながら聞く。沙良は眉尻を下げながら頷く。


「えぇ。結亜様が齢五の時に私はお仕えすることになったのだけれど、その時からなかなかお話しできなくて…。ずっとご両親の後ろに隠れていらっしゃったわ」


 沙良が遠い目をする。相当苦労したに違いない。


「だからまずは、侍女の仕事として結亜様と仲良くなってほしいの」

「仕事として、ですか?」


 日和は聞き返す。主と仲良くなるのが仕事、とはなんとも不思議ではあるが納得はできる。沙良も強く頷く。


「ええ。仲良くならないと身の回りのお世話ができないもの。その間の他の仕事は任せて。今まで一人でやってきたのだからなんてことないわ」


 なんと頼もしい侍女だろうか。そんなことを言ってみたいものだ。日和と愛華は承諾した。


 翌日から二人は結亜と一緒にいるようになった。一日のほとんどを結亜の部屋で過ごす。大きな部屋にポツンと三人。寂しい感じだが、日和達が来る前は一人でこの部屋にいることが多かっただろうから少しは寂しさが紛れるだろうか。


 近づけば怖がられてしまう為、遠くから話しかける。時々、愛華が話に夢中になり、ずんずんと結亜に近づいてしまうのを襟を掴んで止めていた。結亜はというと、全く慣れてくれる気配がない。基本おどおどしていて、返事は首を縦か横かに振るだけである。答えてくれるだけでも有り難いがちゃんと会話したいところである。


 雪葵が棚の上に飾られている毱を見つける。棚に飛び乗り、毱を手でつついてみる。すると毱は棚を転がり、床に落ちる。結亜の肩がびくんと大きく跳ね、その勢いで体勢を崩す。愛華は目を丸くして毱と棚の上を見つめている。雪葵が視えない二人にとっては毱が突然勝手に棚から落ちてきたのだ。驚くし怖いことだろう。


 日和は溜息をついて棚の上を見る。雪葵は小さく縮こまっているので反省はしているようだ。仕方ない。許してあげよう。


「結亜様〜、お庭でもお散歩しませんか?」


 それは屋敷に来てから数日経ったある日のこと。愛華が提案する。離れとは言え、この屋敷には立派な庭がある。色とりどりの花が咲き、趣がある。


 この部屋は空気が悪い。窓を開けて換気をしてもそんなに良くはならない。確かに庭で散歩するのは良い気分転換になりそうだ。けれど結亜は首を振った。


「ふぇ、どうしてですか〜」


めげない愛華は結亜に話しかける。結亜がぷるぷる震え出す。日和が愛華を止めようとした時だった。


「……危険…」


 結亜が日和達の前で初めて口を開いた。結亜には悪いが日和は少し感動してしまった。


「危険じゃないですよ〜。転びそうになったら私達がお助けしますから〜」


 何も分かっていないようで愛華は呑気なことを言う。日和は愛華の肩に手を置いた。


「その危険じゃない。誰かに狙われるかもしれないってこと」

「狙われる?」


 愛華がきょとんとしている。そういう噂は今まで聞いたことはなかったのだろうか。そもそも下女にそんな物騒な話が漏れることはないのかもしれない。


 結亜は齢十という幼子とはいえ、天皇の姪だ。天皇に歯向かう輩がいるのだとすれば、その姪を人質に取ったり、暗殺を目論むだろう。それを防ぐ手として外に出さないのだ。残念ながら、窓もずっと開けてはいられない。


 それをどう愛華に説明するべきか。まず、説明しても良いのだろうか。何も伝えないべきであることもある。


「結亜様は天皇陛下の姪御だからね」

「ほーん?」


 愛華にはこれだけでは伝わらないようだが、日和は続きは言わなかった。愛華も納得はできていなさそうだが、結亜を誘うことはしなくなった。


 日和は何か話題になるものはないかと部屋を見渡す。部屋の中は質素で皇族の血縁とは思えない。必要最低限しか置いていないようだ。このくらいの歳であればもう少し可愛らしい雰囲気があっても良いのだが、と思う。


 そのまま部屋の中を見ていると、棚の横に布を被った物を見つけた。近づいてみると布には埃が被っている。暫く放置されているようだ。布をめくってみるとそれは箏だった。箏自体は年季が入っているが綺麗だ。


「こちらのお箏は結亜様の物ですか?」


 結亜がこくりと頷く。日和は箏に手をかけた。


「弾いていただけませんか?」

「…あまり、弾けない…」

「構いませんよ。聞いてみたいです」


 結亜はぶんぶんと頭を横に振る。日和は箏を前に置く。


「私、少しだけですがお箏を教えてもらったことがあるんです。よろしければお教えしますよ」


 結亜の瞳が少し輝く。箏自体は好きなようだ。ただこんなにも暗い空間にずっといれば、やる気も失われるのだろう。結亜の前に箏を置いた。


 いつの間にか結亜の隣で愛華も目を輝かせているが、結亜は箏に夢中で隣に気づいていないらしい。まあそれでもいいか、と日和は箏を挟んで結亜の向かいに座った。


「何か弾ける唄はありますか?」

「…ど、童謡なら…」

「それで構いません。弾いてみてください」


 結亜がゆっくり箏に手を伸ばす。そしてぎこちない指で弦を弾き始めた。


 その音楽はたどたどしいものの、美しい音色であった。もっと伸びれば上手くなる。姉の凛杏と並ぶのではないか、とさえ日和は感じた。過信しすぎだろうか。けれどそれくらい綺麗な音色だった。


 隣の愛華もうっとりしている。思ったよりも教えることは少なそうだ。日和はうずうずして立ち上がると不意に踊り始めた。箏の音楽の速度に合わせてゆっくりと回る。愛華が日和に見惚れた。


 結亜も顔を上げ目を見開く。そして手を止めてしまった。それによって日和も止まり、首を傾げて結亜を見る。


「どうされましたか?もっと弾いてください」


 日和の言葉が嬉しかったのだろう。結亜は口元を少し緩めつつ、再度箏を弾き出す。日和も踊り出す。愛華は楽しそうに笑っている。


 部屋の外にまで聞こえる箏の音色。ご飯の準備を終え、三人を呼びに来た沙良がハッとして部屋の中を覗く。

 

 結亜の嬉しそうな表情を見て、一筋涙が溢れる。あんな表情を見たのは久しぶりだった。沙良も嬉しかった。音楽がひと段落するのを待ってから沙良は部屋に入った。


 結亜が眠りにつき、それと共に愛華も眠ってしまった。日和は沙良の食事の片付けを手伝っていた。沙良が日和に微笑む。


「ありがとうね、今日は」

「何がですか?」

「お箏のことよ。結亜様、昔からお箏が好きで毎日のように弾いていらしたの。そして結亜様のお父様、お母様にたくさん褒められていらっしゃった。けれど、旦那様方が亡くなられてからは、結亜様はお箏に触れようともしなくなってしまった。この屋敷に移動する時も要らないって仰られていたの」


 そういう事だったのか。日和は埃の被った箏を思い出す。


「結局、私が持って行くって言ったのだけれどね。でも今日、お箏を弾きながら楽しそうにしておられる結亜様を見て、本当に嬉しかったの。ありがとう」

「いえ。私達も楽しかったですから」


 日和は踊りたくなったし、愛華も結亜も楽しんでいた。日和も本当に楽しかったのだ。だから礼を言われることではない。


 日和は昼間に感じた部屋の雰囲気について沙良に話した。沙良は顎に指を当てて考えた。


「確かにそうよね。あまり気にしている暇がなかったけれどお部屋が可愛らしい方が、少しは気分も上がるかしら」


 沙良が肯定してくれる。沙良に結亜はどんな雰囲気が好きなのかを聞いた。十の娘らしかった。

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