第三十三舞 狭間
強く激しい雨が降っている。辺りは暗い。息は上がっている。あちこち破れ、汚れた着物は雨水を含み重い。
視線の先には禍々しい大きな生き物が倒れていた。振り返ると人間も一人倒れている。
その人間に近寄ろうと一歩踏み出すと、足の力が抜け地面に倒れ込んだ。体は鉛のように重く、全く動いてくれない。それでも懸命に手を伸ばす。知らぬ間に涙が一筋頬を伝っていた。
すると、頭の中に太陽のように暖かく、優しい声が響き渡る。
『いいかい。何があっても妖を恨んではいけないよ。妖と共に暮らすのも妖祓師の努めだからね』
「ーっ!」
紫苑はバッと起き上がる。布団の中で大量の汗を描いていた。呼吸も荒い。布団を強く握りしめていた。
先程のことが夢だと理解すると蹲り、顔を埋める。
「…俺は、どうしたらいいんだよ、先生…」
夢から覚めたはずなのに、外は薄暗く、雨が降っている。その雨は強く、この一晩は止みそうにない。
任期が終わる三十日前になった。相変わらず日和は黙々と仕事している。けれど休憩中は遠子達が話している輪によく入るようになった。ただ頷いているだけだが、それでも楽しいものである。割と毎日楽しい日々を送っている。あと三十日で任期が終わることに少し残念がっている自分がいた。
ある日の昼休み。遠子は果莉弥のお付きに行っている為、他の侍女達で昼ご飯を食べていた。
「わあ!皆さん見てみて!」
真菜の大声に日和達は真菜を見る。そこには真菜の横に座っている犬がいた。御苑内に犬を飼っている話は聞いたことない。野良犬でも入り込んだのだろうか。
「真菜、どうしたのその犬」
紗綾がジトっとした目で真菜を見る。日和は犬に近づく。
「なんか屋敷の中に入ってきたみたいです」
「え〜どこの犬よ」
伊万里が嫌そうに犬を見る。苦手なのだろうか。
「ワンッ」
犬が日和に向かって吠えた。その瞬間、何か違和感を感じる。傍にいた雪葵を見ると犬を凝視している。日和は庭に降りる。
「真菜さん。その犬、恐らく迷子だと思います。なので外に出してきますね」
「そうだね。私も行くよ!」
「いえ、私だけで大丈夫です。門番に引き渡すだけですから、すぐ戻ってきます」
日和は紗綾を見る。紗綾は仕方なさそうに頷いた。
「早く戻ってきなさいよ。最近、帰ってくるの遅いし、その上服汚して帰ってくるんだから」
「あはは、すみません」
大抵、妖と対峙していることが多い為、帰りも遅いし、衣類もボロボロにしてしまう。そろそろ怪しまれそうなので、気をつけなければ。
御苑の南門に行く。その近くの死角に移動して、日和は犬を見下ろす。
「私に用があるんでしょ?」
「…流石は妖姫様。よく気づかれました」
犬の妖が口を開く。人間と意思疎通できるようだ。
「私は送り犬。本日は妖姫様に来ていただきたい場所があり、お伺いしました」
「…どこに?何をすればいいわけ」
「それは後ほどお伝え致します」
送り犬が突然遠吠えを始める。日和と雪葵は戸惑う。
「急に何して…っ!」
日和はハッと違和感を感じて足元を見る。そこには砂利のはずの地面に沼が存在していた。日和と雪葵が、沼に沈んでいく。
「何これ!どうするつもり⁉︎」
「傷つけたりなどしませんのでご安心を。お連れするだけです」
「だからどこに!」
「気持ち悪いよぉ〜。大きくなりたいのになんでか力が入らない〜。大きくなればこんな沼、蹴散らせるのに〜」
雪葵にどうしようもできないのなら、打つ手がない。
顔も沈んでいく。日和は必死に手を伸ばすが、どこも掴めず、また誰も掴んでくれない。
「また後ほどお会い致しましょう。妖姫様」
その声が聞こえたと同時に日和の意識が途絶えた。
何も見えない。どこまでも続く真っ暗な闇。手を伸ばそうとして、ハッと目を覚ました。それでも辺りは真っ暗だ。
「…どこ、ここ」
日和が起き上がるとちゃぷんと音がした。下を見れば水だ。よく見れば辺り一体、地面には水が薄く張っていた。けれど、地面に倒れていたにも関わらず、服も髪も全く濡れていない。どういうことか。
日和は立ち上がり、辺りを見渡しても何もない。空っぽの空間だ。
「お目覚めですか?」
記憶のある声に日和はその声の主を睨みつける。犬耳を生やした人だが、恐らく送り犬だ。
「ここはどこ。何したの」
「こちらにお連れしただけですよ」
「だからここはど…」
「わー!妖姫様だー!」
「妖姫様〜!」
あちこちから騒ぐ声が聞こえてきた。そしてどんどん集まってくる。小さな丸い生き物やうさぎの姿、猫の姿など、様々な生き物だ。けれどただの生き物ではないことを感じた。見た目も普通とは少し違う。妖だ。
「な、何!」
小さな妖たちが日和の周りに群がる。皆、キラキラした瞳で日和を見つめている。
「今までは妖姫様をこちらにお連れすること自体難しかったのです。やっと叶いました」
送り犬の言葉に妖達がより盛り上がる。
「遂にお会いできました!」
「送り犬様。連れてきてくださってありがとうございます!」
「……もしかして、送り犬はこの子達の為に」
「はい。この妖達にとって妖姫様は神のような存在。一度はお会いしてみたいと話しているのを聞きまして。行き先を告げず申し訳ございませんでした。こちらに来るのを渋られたくなかったもので」
送り犬が日和に近づくと、周りの妖は道を開けた。
「ここは此岸と彼岸の狭間。つまり生と死の間の空間です。生きてもいないし、死んでもいない場所。人間で言えば、三途の川を見ている状況のことでしょうか」
日和は信じられず固まる。此岸と彼岸の狭間。そんな所が本当に存在するのか。疑問に思うが、今まさに日和はその不思議な空間にいる。どう解釈すれば良いのか、難しい。
「大丈夫です。ちゃんと此岸に帰れますから安心してくださいね」
「うん、それは良いんだけど…」
戻れることは良いとして、何か納得できない。まだ信じられない。
「妖姫様がいてくださるからにはもう怖がることはないぞ!」
「そうだそうだ!」
「怖がるって何を?」
日和は首を傾げる。
「何って。妖祓師ですよ!刀を持った物騒な奴ですよ!」
刀を持った妖祓師。一人しか思いつかない。
「あの妖祓師に対抗できるぞ!」
「そうだ!俺たちを祓おうとする奴を倒せー!」
『おおー!』
「え、え、ちょちょっと待って!」
日和は慌てて周りを落ち着かせようとする。妖達は日和を見た。
「私が藤ノ…妖祓師に対抗するつもりはないよ!そもそも私には力なんてない!」
「大丈夫ですよ、妖姫様!私達もお手伝い致します!」
「いや!そういうことじゃなくて!」
日和が紫苑に対抗なんてできない。というか対抗する理由がない。
「妖祓師は我々を問答無用で祓うのです。見つかれば終わり。力のない私達にも容赦なく祓ってくるのです。非情ではありませんか!」
「…」
日和が揺らぐ。妖祓師が害のない妖を祓うのを止めるのも妖姫の務め。ならば、紫苑に対抗する理由はあるのではないだろうか。
「打倒!妖祓師ー!」
『うおおお‼︎』
日和の心が迷い始めている。その時、あることに気づく。
「あれ、雪葵は?」
ここのことや妖達のことで頭がいっぱいになり、雪葵のことを忘れていた。けれど、今まで雪葵の声は一度も聞いていない。
「あー妖狐ですか。こちらです」
送り犬の示す先に雪葵がいた。日和は目を見開く。雪葵は縄で縛られ、木の板に磔にされていたのだ。
「雪葵!」
「あ、動かないでください」
送り犬の言葉が合図なのか、小さな妖達が日和の足にまとわりつく。身動きが取れない。
「どうして雪葵だけそんなことしているの!同じ妖でしょう?離してあげて」
日和が訴える。けれど送り犬は顔色を一つも変えない。それどころか晴れやかに笑っていた。その笑みに悪意さえ感じられた。
「妖姫様はご存知ですよね?妖には大きく分けて三つの階級があります。下級妖、中級妖、上級妖。ここにいる妖達は下級、僕は中級です。そして妖狐は上級。この差は妖力の強さです」
突然、丁寧に説明してくれるが、何が言いたいのかわからない。日和は送り犬を睨むと、送り犬は髪をいじる。
「耳や尻尾は残ってしまいましたが、僕が人間の姿になれたのは中級妖であることと、この間にいるからです。狭間には多少の妖力が漂っているんです。その力を借りて人間の姿になれるんですよ」
雑談が聞きたいんじゃない。日和は前に進もうと足を動かす。けれど小さな妖達に全力で抑えられ、なかなか進めない。
「すみません、脱線しましたね。では妖が強くなる方法はご存知ですか?」
送り犬はそう言って雪葵の耳をつまむ。こちらに向けた視線は完全に悪に見えた。
「大量の妖か、自分より強い妖を喰らうんです」
日和に衝撃が走る。身体が震える。それと同時に理解した。これから送り犬が何をしようとしているのか。
日和が無理やり進もうとするが、下級妖に掴まれている上に地面が水であり、滑って転びそうになる。
「あ、気をつけてください。僕は送り犬です。転んだ人間を襲ってしまう本能を持っていますから」
「…っ」
下手に動くことができない。けれどこのままじっとしてはいられない。
「この妖狐を喰らえば、僕は上級妖になれる」
「やめて…」
「彼を連れてきてくださり、ありがとうございます、妖姫様」
「やめて」
「ということで頂きまぁぁ」
「やめてー‼︎」
日和が必死に腕を伸ばす。足もちぎれるかと思うほど動かす。それでも雪葵の所までは届かない。送り犬が大きな口を開け、雪葵にかぶりつこうと…。
「やめんか、送り犬よ」
落ち着いた、安心する声が響く。けれど辺りはピリッとした緊張感に包まれる。送り犬も下級妖も固まる。
下級妖は日和から手を離すと後ずさる。日和が後ろを振り返る。
「山神様…」
大きな蛇が上から日和達を見下ろしていた。
「へ、蛇神様!何故こちらに…」
「その妖狐を返してもらおうか。彼は私の恩人だ」
「ですが…」
「私に逆らうのか?」
蛇神の睨みはその場を凍らせてしまうほどだ。
送り犬は身体を震わせながら、雪葵を解放し、日和に投げた。日和は慌てて受け取る。雪葵は静かに寝息を立てていた。安堵のため息をつく。
「この場から去れ」
「…っ。し、失礼致します」
送り犬や小さな妖は慌ててばらばらに散っていった。




