レッスン(二十三)
「悲しかったこと、あるの?」
友香里は早苗に聞いた。早苗は友香里の目を見ている。
早苗の素性は知らないが、身なりもしっかりしているし、金持ちの雄大と一緒に暮らしているのだ。そこそこ幸せなのだろう。
それを言ってしまえば、友香里もそこそこ幸せ。みんなそこそこ幸せ万々歳ということで落ち着いてしまう。
だから、それだけで『良かった』とはならない。
友香里は姉が病気で倒れてから、近所の人に『妹さんの方だったら良かったのにね』と、言われたことがある。勿論陰口だ。
姉に打ち明けたら凄く怒られて、一緒に泣いてくれた。
翌日には、何もなかったように忘れてしまっていたけれど、それでも構わない。私は生涯、忘れないから。
「うん」
短く早苗が答える。不思議そうな顔をして友香里を見上げていた。
「そうか。じゃぁ、目を閉じて」「うん」
素直に目を閉じる。すると目の前から、アパートの『絵』が消えた。そのまま友香里の声に耳を澄ませる。
友香里にしてみれば『今時の小学生の悩み』なんて、『懐かしい思い出』に過ぎない。なんじゃらほいである。
男の子に髪を引っ張られたこととか、給食でパンのジャムを取られたこととか。そんなのぶん殴り返して、見事解決したものよ。
勿論、廊下に立たされて、親が呼ばれてグチグチ言われてさっ。
「悲しかった『その時』を、思い浮かべてぇ」「うん」
早苗の顔が曇り出した。素直でよろしい。
「そこから『どうしたい』のか、その『想い』を書くんだ」
悲しいことをただ単に『悲しい』と書くのでは、詩にはならない。
自分の気持ちを伝えるのに言葉を省略していては、伝わる想いも減って行ってしまう。そんなものだ。
今時俳句が判るのは専門家だけ。大衆でもないし、若者でもない。
友香里は早苗が目を閉じたまま、ジッと固まっているのが気になっていた。それでも『自分が推奨する方法』で考えを纏めている以上、口出しすることが出来ない。
しばし静かに、早苗の様子を見守ることにする。
早苗はまぶたの奥に、悲しい出来事を想い描いていた。
それは全て、自分の思い通りにはならなかったことだ。
父と母が喧嘩をしているのを、何度も耳にした。喧嘩の内容はいつも決まって、早苗の『将来のこと』だ。
ピアノが弾けるようになったら『母の実家で引き取る』とか『じゃぁ教えない』とか。挙句の果てに『じゃぁ何で産ませたの』とか。
とりあえず、それはそれとして。今は春香と仲良くしたい。
結局誰も、私が仲良くして欲しいと想う人は、誰も仲良くしてくれない。優しいのは、誰も彼も『ピアノ絡み』だけだ。
どうすれば良い? どうすれば良い? どうすれば、良い?
閉じたままのまぶたから想いが溢れると、一筋の涙として流れる。
それを見た友香里は慌てふためき、ハンカチを取り出した。