レッスン(十五)
説明するまでもなく、突然叫んだのは早苗だった。
言われた友香里は驚いて左足を前に出す。触れそうになった手をパッと左右に開き、両手を伸ばしてバランスをとる。
それでも物理法則に従うもの。それは髪だ。友香里の意に反して止めることは出来ず、ゆらりと揺れてピアノに触れた。
しかしそれで早苗は満足したのだろう。
友香里の髪は、早苗に負けず劣らず『ツヤツヤ』で、とても『汚いもの』には見えない。
それとも『指紋』が付かなかったからだろうか。それ以上怒り出すことはなく、きっと許してくれたに違いない。
友香里より驚いたのは、ピアノを弾いていた雄大だ。もちろん毎日触りまくっているのだが、早苗に怒られたことはない。
もちろんこのピアノが、叔母の『嫁入り道具』であることも知っている。そして、早苗にとっても『思い出の品』であることも。
「早苗、お姉ちゃんに謝りなさいっ!」
普段早苗に対して優しく接している雄大が、思わず声を荒げる。
「お姉ちゃんじゃないもん」
素っ気ない返事。屁理屈。言葉遣いも態度も可愛くないぞ。
全く。どうやら反省するつもりも、謝罪するつもりもないらしい。
だからと言って、雄大がそんな早苗を見過ごす訳にも行かず。更に一言を付け加えようとした、そのときだ。
「良いんだよ。大事なものなんでしょ?」
助け舟を出したのは、早苗に怒られた友香里だ。怒り怒られる二人の間に入って、笑顔を魅せて和ませようとしている。
早苗に『手を挙げるつもり』なんて、雄大には一切なかったのだが、あたかも早苗を守るように友香里が間に割り込む。
そして、台所の方へと避難を始めた。
未だ早苗に反省する素振りはない。
それでも友香里に連れられるまま、避難には賛同しているようだ。
やはり温厚な雄大に強く怒鳴られて、委縮してしまったのだろうか。早苗にとって雄大は、『安心できる奴』だったはずなのに。
だとしても、嫌なものは嫌なのだ。それは絶対に譲れない。
「知らなかったの。ごめんねぇ」
台所のテーブルの陰。そこが雄大からの避難場所だ。
友香里は笑顔から真顔になると、『申し訳ない』気持ちを前面に出し、小学生相手とは思えない丁寧な謝罪を示す。
すると早苗は、黙ったまま『うんうん』と頷いている。
狭いアパートなのだ。台所に移動した位で『避難した』とは言えない。実際雄大の目も、まだ届く範囲である。
テーブルの陰に隠れて、早苗の頭しか見えないのだが。
それでも頷いたのが判って、雄大は半ば呆れて眺めていた。
「お姉ちゃんの部屋に行こうよ。ねっ」
このままだと雄大に怒られそうなので、自分の部屋に連れて行くことにした。早苗が、今にも泣き出しそうになっているのもあるが。
友香里は早苗を自分の陰にして守りながら、玄関へと向かう。
するとそこで、未使用の『赤い鉛筆』を見つけて血相を変えた。