時計は回る(三十一)
今信じた気持ちが、あっという間に吹き飛んで行くのを感じる。
友香里の顔色がさっきまでの真っ赤から、たちまちの内に真っ青になっているのが判ったからだ。
二人は全てを投げ打ち、有加里の部屋を飛び出した。来たときとまったく同じだ。時間を費やしただけで。
やはり『医者の言ったこと』の方が、現実だったのだ。
希望とは『希な望み』である。少ない症例とは言え『前例がない』訳ではない。有加里の辿った道も然り。
時計の針は逆回転しながら、更に加速しようとしていた。
もう誰にも止められない。止められるとしたら、それは。
実際有加里は肝硬変を併発して、もう手の施しようがなくなっていた。友香里がどんなに怒っても、それは覆しようがないのだ。
正樹と有加里が車を飛ばして病院へ着いたとき、有加里はベッドで目を閉じ、かすかに息をしているだけだった。
正樹は有加里の左手を握る。友香里も正樹の後ろへ。
右側には両親がいて、母親が唇を震わせながら有加里の手を握り締めていた。それを父親が難しい顔をして支えている。
「有加里!」
正樹が大声で叫ぶ。周りの看護師もそれを咎めない。
しかし有加里からの返事はない。蚊の鳴くような小さな吐息だけが、生きている証拠である。
今日から、もう一度信じることにしたのに。
信じ抜く気持ちになったのに。
正樹は強く有加里の左手を握り締めていた。
有加里は手を握られて驚いたのか、それとも正樹だと判ったのか。少し指を動かした。しかしそれだけだ。
友香里も正樹の隣へやって来て、一緒に姉を呼ぶ。
「お姉ちゃん!」
すると有加里は少しだけ目を開ける。
目を開けた有加里は、声の主が友香里だと、可愛い妹だと判ったのだろう。更にもう少し目を開ける。
するとそこには、正樹もいるではないか。正樹はしっかりと有加里の手を握ってくれている。どうやら有加里は目を覚ましたようだ。
頷いた有加里が、ゆっくりと正樹と友香里を交互に見る。
目が開いていれば、生きていると感じるものだ。
生きられると思うものだ。正樹も友香里も微笑みを返す。
すると有加里は、口元を緩ませて穏やかに微笑んだ。そして、何かを言おうとして唇を動かし始めたではないか。
しかし何を言わんとしているのか。声が小さすぎて誰にも判らない。正樹は急いで耳を有加里の口元へと近づける。
パクパクと動かしていた有加里の口が止まった。そして、大きく息を吸っている。
正樹に『どうしても伝えたいこと』があるのだろう。
有加里は目を閉じる。全力でもかすれてしまう声を、正樹の耳へ確実に届けようとしているのだ。唇を震わせている。
「おめでとぅ」
正樹は何を言っているのか判らない。今確かに『おめでとう』と聞こえたのだ。しかしそれでも『何かの聞き間違えか』とも思う。
しかし気が付く。思わず有加里の左手を見た。
正樹の左手薬指に巻かれた絆創膏を、有加里が指先でそっとなぞっているのを感じからだ。
そしてそれが、完全に止まるのを見た。
あっと思ったまま、正樹は有加里の手を握ったまま動けない。
もう開くことのない有加里の目から、一筋の涙がこぼれ落ちるのを眺めているだけだ。
「何て言ったの?」
隣で聞く友香里の問いに、正樹は答えることが出来ない。
両親も友香里も、家族の誰もが聞けなかった『有加里最後の言葉』を、正樹だけが聞いたと言うのに。
誰もがその一言を聞きたいと思ったし、正樹にも家族に伝える義務がある。家族は正樹の答えを、無言で待ち続けるだけだ。
正樹はしばし沈黙していたが、答えを声にして絞り出す。
「『ありがとう』って」
後はただ「有加里」と泣き叫ぶことしか出来なかった。