時計は回る(三十)
決して、こいつのためじゃない。ましてや、こいつの提案に乗った訳でも断じてない。自分の意思だ。
正樹が答えるまでの間、友香里は自分に何度も何度もそう言い聞かせていた。
「さぁ、どうするんだい? まーくん!」
鼓舞するような友香里の声が飛ぶ。すると下を向いていた正樹が、一瞬『ブルッ』と震えたようにも見える。
もし友香里が『水の入ったブリキのヤカン』を持っていたとしたならば、それを正樹へ投げ付けていたことだろう。
それで正樹の目から『星』が飛び出したとしても仕方ない。友香里は『正しい使い方』を知らないから。
「やろう! それで行こう!」
それでも正樹は、スッと顔を上げて立ち上がった。救われたような目をして友香里を見つめている。
勝算なんてない。今必要なのは希望とやる気なのだ。
その間も友香里は想い続ける。これは『姉のためなのだ』と。
姉が大切にしていたこいつに『生きる希望』を与えてやることも、姉が喜ぶことなのだと。
こいつの泣き顔なんて、姉は見たくはないはずだ。
ふと、この部屋へ来たときのことを思い出す。
両親から『有加里の傍に居てやれ』と言われたのに、友香里は反対してここへ来た。一人でも来るつもりだった。
それをこいつが、車で連れて来てくれたのだ。
こいつだって姉の傍に、ずっといたかったであろう筈なのに。
見方によっては『友香里のわがままに付き合った』とも言えるが、決して友香里はそうは思わない。思ってなるものか。
姉は治る。絶対に治るんだ。その気持ちを変えるつもりはない。
確かにこいつは『頼りになる』のかもしれないが。
そう思うにしても、今の正樹を見て友香里は苦笑いするしかない。
正樹は頭に乗せた『着替え』を、振り払いもせずに立ち上がっていた。肩にもヒラヒラしたものが乗っかっているではないか。
誰が乗せたのかは、敢えて言わないが。
きっと『友香里の気が変わらない内』に強い決意を示し、約束を確定したかったのだろう。
友香里の両手を力強く握りしめ、上下に大きく振っている。
「先ずやることがあるでしょ?」「何?」
苦笑いの友香里を見て正樹は涙も拭かず、不思議そうな顔をしている。手だけがピタリと止まった。
「こーれっ。返してっ」
笑いながら正樹の頭から『着替え』を取上げる。それを転がっているバックの方へと放り投げた。
「あぁ、早く持って行かないと」
正樹はやっと自分の周りが『着替えだらけ』なのに気が付いたのか、それを集めようとする。
「ちょっと待って」
急いで友香里が正樹を止める。友香里の指が正樹の左手を指す。
それが何を示しているのかを、正樹は直ぐに理解した。
さっき投げ付けられたバックの留め金で、左手を怪我したようだ。これ位痛くも何ともない。
そもそも『手の痛み』なんて、感じてもいなかったのだが。
「ちょっと待って。絆創膏出すから」
勝手知ったる人の部屋。救急箱の方へ向かって友香里が歩き出す。
「あぁ、舐めておけば大丈夫だよ」
品のないことを正樹が言うと、友香里が直ぐに戻って来る。そして正樹の頬をビンタした。今度は怪我をしないようにそっとだ。
「舐めた手でお姉ちゃんの着替えに触ったら、ぶっ殺すわよ?」
救急箱に向かう友香里の目は笑っていたし、ビンタも痛くはなかった。それでも正樹は素直に絆創膏を待つ。
友香里は正樹の指に絆創膏を巻くと、その左手を叩く。
『パチンッ!』「これで良しっ!」「いてっ」
傷よりも叩かれた方が、ずっと痛かったのは事実だ。
「絶対ヒットを飛ばそうね」「うん」
友香里の誓いに正樹も大きく頷く。正樹はもう『その気』になっていた。有加里の歌は少しの間封印し、主を待つことにする。
きっと帰ってくる。そう信じよう。
『ジリリリン!』
そこに電話のベルが鳴る。父親と約束していた合図だ。
友香里が電話へダッシュして飛び掛かり、一度目のベルが鳴り終らない内に出る。そして一度だけ頷くと直ぐに切り、振り返った。