時計は回る(二十一)
スタジオを後にした有加里が向かったのは、ジョンの所だった。
折角有加里のために曲を作ってくれたのに、それに答えることが出来ないのを詫びに行ったのだ。
しかし裏門の守衛所で有加里が耳にしたのは、『ジョンが死んだ』ことだった。有加里はジョンの犬小屋に向かって走る。そして見た。
振り返って後ろの景色を確認し、犬小屋があった筈の場所をもう一度確認する。何度も確認した。何度も何度も。
そこには新たな『物置小屋』が建っていて、入り口は当然の様に鍵が掛かっている。ガチャガチャ動かしても開きはしない。
有加里はその場にしゃがみ込むと泣き出す。あれは幻だったのか。
有加里は思い出していた。確かに犬小屋から潜り込んで公園へ。
木漏れ日の散歩道。小川のせせらぎ。明るい芝生に高い築山。
ふと思う。作曲したのは、ジョンではなかったことを。有加里は走って映画スタジオを飛び出すと、壁沿いを走る。全速力で。
走って、走って、走って、公園が出てくるまで走ったが、なぜか公園はなく、また映画スタジオの守衛所まで戻って来てしまった。
有加里は注意深く、もう一度走る。
すると今度は『お寺』のような、大きな門を見つけた。
有加里は『宮本』と書かれた小さな呼び鈴を押してみたが、出て来たお手伝いさんに、けんもほろろに追い返される。
途方に暮れたが帰るしかない。帰るしか、ないのだ。
それから一ヵ月が過ぎた。
町中には、有加里が歌うはずだった『あの曲』が流れている。
先輩は『若手歌手』からたちまち『人気歌手』にランクアップし、事務所からも有加里の視界からも、遥か彼方の遠くへと消えた。
有加里は相変わらず、作詞作曲をする売れない歌手だった。しかし有加里は、後悔なんて微塵もしてはいない。
結果はどうあれ、『自分の意思』を貫いたことに『誇り』さえも感じていた。これからもう一度、『新しいスタート』を切るのだ。
芸大に合格した有加里は両親にも認められ、大学近くにあるボロアパートに引っ越していた。
ここなら家族にも近所にも、気兼ねなく音楽活動が出来る。
そう言われて来た有加里だったのだが、唯一持っている楽器である『オルガン』の電源が、ONになることはなかった。
有加里以外に保有している者が『皆無』であったとしても。
有加里は机に向かい『鼻歌』で作曲していた。隣では正樹がそれを聞き、有加里の詩を見ながら朱書きしている。
それで十分なのだ。いや、それが良かったのだ。
窓の外には穏やかな陽の光。のどかな散歩道も続いている。
「うーん、疲れた」
有加里が座布団から立ち上がって、大きく背伸びをした。
気分が良くても、疲れているのは変わらない。少し気分転換がしたかったし、体も動かしたかった。しかし、散歩に行く程の体力がない。有加里は何気なく、テレビのスイッチを入れる。
すると、そこから聞こえて来たのは、『あの曲』だった。
今度は『CM』に採用されたのだ。その上、来月は『ドラマの主題歌』になって、そのドラマは『映画』にもなるのは確実だった。
有加里は笑顔でテレビを眺めている。誰が歌おうと良い曲であるに違いない。人は人。自分は自分だ。
しかし事情を知る正樹には、何とも『やり切れない想い』があったのだろうか。
有加里が突然いなくなったスタジオへ飛んで行き、頭を下げたのは正樹だったからだ。
「歌っておけば良かったね」
後ろ姿の有加里にボソッと溢す。きっと歌っていれば毎日のようにテレビ局に行って、撮影スタジオの袖で応援出来たと思う。
忙しくなれば、専属のマネージャーにだってなれただろう。
「えっ!」
しかし有加里は、正樹の一言に振り返る。
正樹は有加里の顔を見たとき、深い悲しみの目を見た。今までにこんな『目』を見たことはない。
そして有加里の後ろで、『何か』が崩れ落ちる感じがした。
ハッとした正樹は、何とか取り繕うと慌てる。言葉を変えて言い直そうとしていた。しかし、何もかもが間に合わない。
有加里はその場に崩れ落ち、更には気を失っていた。