時計は回る(十七)
緊張しながらも、とても丁寧に茶器を扱う有加里を、男は横目に眺めて微笑んだ。ここでもし『咳払い』なんてしたら、有加里が驚いて茶器を落すかもしれない。
男は知らん振りをして、新聞に目を戻す。
有加里は自分の前に紅茶を持って来ると、もう一度「頂きます」と言って一口飲む。とても清々しい香りがする。
緊張の面持ちの中、思わず微笑んでしまう程に素晴らしい。
すると男は新聞から顔を上げ、にっこり笑って有加里を見た。
そして質問を始める。
「歌い手さんなの? それとも女優さん?」
とても小さな声だった。弱弱しくて頼りない感じ。それでも眼光だけは鋭い。笑っているのが逆に怖いくらいだ。
「歌手です」
何故か『面接が始まった』と感じた有加里は、緊張しながらもはっきりと答えた。
それでも、変に声がひっくり返ってしまって恥ずかしい。それに男に負けず劣らず、小さな声であったのだ。
「ほー。どんなのを歌っているの?」
男は右手で頬杖を付き、小首を傾げて有加里を見た。笑顔の中にあって、目だけは有加里の何かを掴もうとしている。
もちろん今の『歌手です』はさっさと記憶から消して、『本当の声』を待ち望んでいるのだろう。
「自分で作詞作曲したものを歌っています」
有加里は答えた。そして後悔する。『もの』って何だ。『曲』とか『歌』とかにすれば良かったと。
すると男は頬杖を止め、その下にあった新聞をたたみ始めた。
やはり有加里は『何かまずいこと』を言ってしまったかと思う。しかし、そうではなかった。
男は新聞を山に戻し、両手を膝の上にして背を伸ばす。そのまま体を捻って顔を有加里の方に向けた。
表情は変わらないが、言葉はない。ただ時間だけが過ぎて行く。
「ほー、それは感心ですねぇ」
「ありがとうございます」
男が答えるまでに『だいぶ間』があったのに対し、有加里は直ぐに返事をして頭を下げる。
「ちょっと歌って頂けませんか?」
それは有加里が、丁度頭を下げたときに掛けられた言葉だ。
有加里は驚いて返事に困る。男の表情も抑揚のない声の調子も。
だからそれが、単なる『リクエスト』なのか、それとも『命令』なのか。何も判らない。
すると、それまで『置物の様』に大人しくしていたジョンが、また有加里の足をパフッと叩く。
有加里はハッとする。そうだ。これは『命令』なのだと。
「判りました」
有加里はスッと立ち上がる。そして大きく息を吸う。
今までに作った曲の中で、一番評判の良かった曲を選び、頭の中で前奏を開始した。前奏は八小節だ。
しかし男は口を開き、有加里に向ってリクエストをする。
「では、Cから二オクターブを、
テンポ六十で、半音ずつ、二往復して下さい」
有加里は前奏を急遽取り止めた。今の『リクエスト』を、ごまんと記憶した頭の中にある曲と比較する。しかしみつからない。
それは『ケッヘル』の中にもない『特に難しい曲』である。
有加里は『築山の東屋』から、瞬間的に『西園寺のピアノ教室』に飛ばされた気がしていた。気を引き締めなければと思う。
西園寺はいつも厳しい。有加里には特にだ。それ位の緊張感が必要な状況であると、理解はしている。
言われて見れば男の『眼光』は、西園寺のそれとよく似ているか、ある意味『それ以上』とも言えた。
青白い顔だからか、まるで『死にゆく者の最後の願い』とも受け取れた。又は『生きる執念』とでも、言えるだろうか。
「判りました」
気持ちが切り替われば大丈夫。お安い御用だ。
有加里は言われた通りに歌い始める。
前奏も伴奏も、どちらも必要がない。
男は音に合わせて首を左右に振りながら、上機嫌で聞いている。その証拠に男は、『一曲』歌い終わって盛大に拍手をしていた。
「良い声ですね」
「ありがとうございます」
有加里は頭を深々と下げる。しかし歌手としては『緊張』したままだった。
歌っている最中に男が三回も、目を『ピクリ』とさせたことに気が付いていたからだ。次に言われることも予想が付く。
男は笑いながら右手を顎の所に持って行くと、有加里に指摘する。
「EsとAsとBが、四分の一狂ってますね」「申し訳ありません」
上げ掛けた頭をもう一度下げて、有加里が詫びた。
やはりこの男は本物だ。西園寺と『同じ指摘』を受け、有加里は『終わった』と思う。それに、耳が垂れたジョンの顔を見て、申し訳ない気持ちで一杯になった。
しかし男は、笑いながら有加里に聞く。有加里が気にしている点について、気にしている様子は全然ない。
「オルガンですか? それともハーモニカですか?」
「オルガンです」
やっぱり、判るものなのだろうか。有加里は眉をひそめて答える。
保有している唯一の楽器を、見事に当てられてしまった。
しかしオルガンもハーモニカも、チューニングが難しい楽器だ。
一度音が外れても容易には直せないし、直そうとする人も居ないだろう。有加里の答えに男は頷く。
「そうですか。結構ご苦労なさってるんですね」
男は哀れみの表情を浮かべていた。ちらっと有加里の手を見て、もう一度有加里の顔を見る。
有加里はそんな『男の目線』も、敏感に感じ取っていた。
「恐縮です」
それ以外に、有加里が言うべき言葉が見つからなかった。
自分の好きにさせてくれた両親を、責める気なんてさらさらない。『あれがあれば』とか『これがあれば』とか。それは贅沢なのだ。
自分を見守ってくれた人達に感謝こそすれど、更なる要求なんてしたくない。全ては自分の努力次第。それしかない。
今ここで掛けられた『哀れみ』は、『自分の不甲斐なさ』が全てなのだ。有加里は自分自身に、そう言い聞かせる。
「頑張って下さい」
全てを察した様に、男は有加里に声を掛けると『にっこり』と微笑んだ。有加里は申し訳なさそうに、ただ頭を下げるだけだ。
何故か『泣きたい気持ち』にもなっていた。『悔しい』とも。
「ワン!」
そこへ『時間だ』と言わんばかりにジョンが吠える。
二人はジョンの方を見て微笑み、『音楽家』から『犬好き』の顔に戻っていた。ジョンは腰を上げて、もう一度吠える。
それが『別れの挨拶』にも聞こえるから不思議だ。
その日は、ジョンに引かれ始めて終わりになった。しかし男は、「また歌を聞かせて下さい」と言い、手を振ってくれている。
少しホッとして、有加里はジョンと男を交互に見ながら頭を下げる。そして来たときと全く同じく、ジョンに引っ張られて行った。